いじめの線引き




 研究科の校舎から帰ってくる途中で購入したカフェオレから湯気が出ている。秋も深まり、ロボットが巡回販売しているホットカフェオレが美味しい季節になってきた。


 これを飲んで午後の授業も頑張ろう――そう思っていた時、どんっと廊下でクラスメイトとぶつかった。手に持っていたカフェオレが床に溢れる。いつもかけている分厚いメガネも飛んでいった。


「あっごっめぇ~ん。地味だから見えなかったぁ」


 視力が悪くてぼやけているが、教室でよく仄香を罵ってくるいじめっ子グループの一人だ。ぶつかったのは明らかにわざとである。


 よく見えなくて目を細めて見ていただけなのに、睨んでいると捉えられたのか、その女生徒は大袈裟に怖がる素振りをした。


「えっ。なになに。こいつチョー睨んでくるんだけど。こわぁ~い。紫の目なんかで睨まれたら呪われちゃう~」

「その目ほんとキモい。ほら、零したんだから早く片付けろよ」


 隣の生徒も仄香が悪いと言わんばかりだ。


 ――その時、ザザッとノイズ音のようなものが聞こえ、視界が揺れる。


 脳内に映像が流れ始めた。


――『早くしろって!』――視界いっぱいに迫ってくるのは上履きの靴底だ。


 目の前にいる女子がこちらを蹴飛ばした。それも、顔面を容赦なく。



 ハッとした時には、目の前の女子がこちらに向かって足を上げている最中だった。


「早くしろって!」


 さっきと同じ台詞。

 ということは、次に来るのは――咄嗟に立ち上がり、横に避ける。女生徒の足は仄香を掠ったが、仄香の顔には当たらなかった。


(今私、数秒後の未来を視た……?)


 これまで夢でしか視ることのできなかった未来を視た。確実に成長している。


 仄香を蹴ろうとした女生徒は仄香のあまりの反射神経の良さに驚いたのか固まっている。その様子を見た仄香はあることに気付いた。


 ――視力が良くなっている。


 近くにいる人の表情が鮮明に見えるほどの視力は、仄香にはなかったはずだ。


「何こいつ、俊敏すぎてキモいんですけど」

「あたしら零したカフェオレ掃除しろって言ってんだけど?」

「あ、ねえ、折角だから顔で拭いてもらわない?」

「あーそれいい。ほら、面貸せよ」


 生徒たちの手が伸びてきて仄香の髪を掴む。痛いほどに引っ張られ、床に崩れ落ちてしまった。目の前にあるのは床に広がるカフェオレの液体。そこに向かって勢いよく顔を押し付けられ、顔面に痛みが走る。


「痛い、やめて!」

「は~? 聞こえない」


 茜の後頭部を押さえている女生徒の異能は確か筋力増強系だ。普通の力で敵う相手ではない。


(やっぱり未来視なんか持ってたって何も得しない)


 茜に言われて、少しでも自分の異能を特別だと思ったのが愚かだった。未来が視えたところで現状は変えられない。この女生徒二人にこうして押さえ付けられればもう無力だ。


 涙が出そうになるが堪えた。こんな人達の前で絶対に泣いてやるもんか、と意地で奥歯を噛み締めた時、誰かがこちらに近付いてきた。


「――お前ら、何やってんだよ」


 その声の方向を見れば、ズボンのポケットに手を突っ込んだまま気怠げにこちらを見ている尚弥がいた。


 仄香は絶望する。

 ただでさえ彼女たちに力で敵わないのに、押さえ付けられたまま電撃で痛め付けられたらと思うとたまらない。


 仄香を押さえ付けている方の女生徒が嬉しそうに尚弥を誘う。


「あっ尚弥くん! こいつが反抗してきたから罰してるんだ~。尚弥くんもやる?」

「手、離せよ。くだらねぇことに異能使ってんじゃねぇ」


 しかし、尚弥の返答は仄香の予想と違っていた。

 動揺したのか、仄香の頭を押さえる女生徒の手の力が緩む。


「異能力は人を傷付けるための手段じゃねぇだろうが。警察目指す異能力高校にいてそんなことも分かんねーのかよ」


 尚弥が忌々しげに言い放つ。


 尚弥は仄香に向かって電気をバチバチさせて脅してきたことが何度もある。小さい頃は対等な関係で遊んでいたのに、尚弥との間に明確な上下関係ができてしまったのは、言わずもがな異能のせいだ。

 才能に恵まれた尚弥の態度はどんどん偉そうになっていき、何度も言葉で仄香を罵りいじめた。


 しかしそういえば、尚弥が実際に仄香に電撃を打ち込んできたことは一度もない。

 彼なりの線引きのようなものがあるのかもしれない。


「お前水流操作系の異能だろ。床くらいすぐ掃除しろ」


 もう一人の女生徒が尚弥の言葉でびくりと体を揺らし、「は、はい」と何故か敬語で返して床を綺麗にし始めた。


 仄香は汚れた顔を拭きながら立ち上がり、おそるおそる尚弥を見つめる。

 尚弥もこちらを見つめていて、偉そうな歩き方で近付いてきた。


「お前、さっきの何だ」

「え?」

「蹴り食らう前から動き始めてただろ。小学生の時から体育の成績D-の鈍重なお前にあんな動きできるわけねぇ」

「今はD-じゃないし……。やめてよ、昔の話するの」


 ぼそぼそと言い返した。

 確かに昔は長距離走も走り幅跳びもビリだった。ドッジボールでは毎回一番最初にボールを当てられていた。


 けれど仄香は志波に憧れてから体を鍛えたのだ。志波のような機転の効いた動きをするため、毎朝学校へ行く前に走った。今では成績はA+である。


「異能か? そういやお前発現したっつってたな。種別は何だよ」

「……言わない」


 尚弥に言ったところで馬鹿にされるだけなのは目に見えている。

 同じクラスなのだから隠したところで何れバレるのだが、情報はぎりぎりまで与えたくなかった。いじめの材料にされるだけだ。


 すると、ぴくりと尚弥の眉が動く。苛ついた時の表情だ。


「お前ごときが俺に隠し事かよ」


 睨み付けるだけでこの迫力は大したものだ。尚弥は元々目付きが悪くて顔が怖い。


「そんなに無理やり吐かされてぇなら吐かせてやるから付いてこいよ」

「やめてよ。もう授業始まるよ……」

「サボりゃいーだろうがそんなもん」

「絶対嫌」


 尚弥が腕を掴んできたので振りほどいた。


「サボったら第一課への申請資格なくなっちゃうかもしれないでしょ」


 授業への出席日数は進路に影響する。一回二回欠席するくらいなら全く問題はないのだが、今後の高校生活の中で風邪をこじらせて登校できない日が出てくる可能性はある。その万が一に備えて、元気なうちはできるだけ出席数を稼いでおきたいのだ。


「お前のそのクソ真面目なとこが昔から嫌いなんだよ」


 尚弥は舌打ちをして言った。


「まァだ第一課に入ろうとしてんのか? そんだけ言うなら、来週からの警察見学は第一課希望したんだろうなぁ? お前がきびし~第一課に付いていけんのか見物だな」


 警察見学は、武踏峰異能力高校の異能力科にのみ許された、全クラス合同で一週間に渡って行われる授業だ。

 実際に異能力対策警察の先輩方に同行し、任務の一部始終を見せてもらう。憧れの異能力対策警察の仕事を直接見せてもらえる職場見学のような授業である。


 同行する先輩によっては実践に参加させてもらえる場合もあるが、その分危険性も孕む。当然仄香は第一課の見学を希望しているため特に危険度が高い。

 異能も優秀な尚弥は第一課の見学でも余裕だろうが、仄香は以前から不安に感じていた。嫌なところをつかれた。


「わ……私だって役に立てることあるかもしれない。武器の使い方だって沢山練習したし、戦闘時の判断のマニュアルだって頭に入ってる」

「武器なんか持ってたって異能力者相手じゃ毛ほどの役にも立たねぇっつーの」


 はっと鼻で笑ってきた尚弥は、チャイムが鳴ったのを聞いて教室へ入っていく。仄香も慌ててロッカーの中に入れていた教科書を取って授業に行こうとしたのだが、ロッカーを開けると、そこには生卵でぐちゃぐちゃにされた教科書があった。


 あまりの衝撃に仄香は絶句する。

 これまで悪口を言われたり机を蹴られたり足を引っ掛けられたりわざとぶつかられたりするようなことは何度もあったが、持ち物に対してこんなことをされたのは初めてだった。


(いじめってなくならないんだ……)


 彼らが飽きれば終わる。そう楽観視していた。けれど、エスカレートしている。


「あれ、紫雨華は今日いないのか?」

「ズル休みみたいでぇーす」


 教室の中から出席を取る先生の声が聞こえる。

 仄香は放心したまま、「違う」と言って教室に駆け込むことができなかった。


 ――怖い。やられたことを告げ口すれば更にエスカレートするかもしれない。異能力科の優秀な異能力者たちに自分が太刀打ちできるとも思えない。



 仄香の家庭は元々裕福ではない。武踏峰異能力高校の授業で扱うような高価な教科書は親が工面して買ってくれたものだ。他にも制服などお金の面で苦労させてしまうと思い、せめて授業料はと思って推薦入学者の中でも筆記と武器の扱いでは優秀な成績を修め、一年生の間は授業料半額にしてもらった。自分や親が努力して頑張って用意した教科書を、こうも簡単に汚されるとは思わなかった。


 悔しさと悲しさと情けなさでいっぱいになり涙が止まらなくて、仄香は初めて授業に参加することができなかった。嗚咽を殺しながら、何ページも破られ卵でぐちゃぐちゃに汚された教科書を抱えて、静かに校舎裏へ向かった。一人になりたかった。


 校舎裏のベンチに座り、ティッシュで教科書を必死に拭いた。

 授業中なので生徒は誰一人通らない。静けさに安堵した。こんな情けないところを誰にも見られたくなかった。


(泣き止め、泣き止め。次の授業からはちゃんと参加するんだ)


 その時、また、ザザッと視界にノイズが入った。最初、泣いているせいで視界がぼやけているのかと思ったが、それとは明らかに感覚が違う。




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