幕間 追跡者の過去

 宴を明日に控えた日の夜空は、少々荒れ気味。

 晴天だった黄昏時とは打って変わり、空の色は明るい橙色からすっかり、どんよりとした漆黒しっこくに染まりきってしまっている。

 御神姫みこひめを屋敷まで送り届け、仲間たちが暮らす鬼の一門の里まで帰ってきていた鬼王きおうが、一人ため息を漏らした。


「なぁ……ルイン?俺の妖術ようじゅつは完璧だろう?」


 彼が横にいる腹心に投げかけると、腹心は眉を少し寄せてから答えた。


「えぇ。それは完璧過ぎるほどに」


 ルインからしてみると、鬼王の問いはいささか珍しく思えた。

 鬼王はいつ如何なる時も、天上天下てんじょうてんげ唯我独尊ゆいがどくそんで行く男だ。

 それなのにルインには、今の鬼王から何故か、小さな戸惑いと少々の落胆の色が見えた気がしたからだ。

 ルインからしてみれば、この男の妖術が完璧かどうかなどは一目瞭然いちもくりょうぜんであるし、この世界のどこを探しても、この男以上に絶大な妖力ようりょくを持つ者も存在しない。

 それは、この鬼の一門の里の誰よりも付き合いの長いルインが、一番近くで見ていたし、一番良く知っていた。

 鬼王の妖術は完璧だと、一切の曇りもない瞳で言い放つルインの返答に、多少は彼らしさを取り戻した鬼王が苦笑しながら漏らした。


「だよなぁ……。でもやっぱり、御神姫には妖力を打ち消す力があるから、俺の妖術も効きにくいみたいだな」


 あぁ、なるほど……とルインは鬼王の言わんとしている事を全て悟った。

 たしかに鬼王は鬼の一門、ひいてはどんな悪鬼妖怪あっきあやかしよりも妖力も妖術の腕前も上だ。

 それは間違いようのない事実。

 しかし、御神姫の持つ力と鬼王の持つ妖力は全くの別物。

 その上、御神姫はヒノモトの人間が鬼の一門に対抗するために召喚し、この地に降り立った存在。

 彼女の扱う力、それは神の力に近しいものだった。

 妖力と神力しんりきは、どちらも互いに効きにくい。

 鬼王の妖力とそれを打ち消す彼女とでは、戦いの面においては非常に相性が悪い相手となる。

 当然、鬼王の妖術は彼女に効果的には働かず、彼にとって何か不都合が生じてしまったのだろう。


「それで?御神姫様がいかがしたのですか?」


 ルインの問いに鬼王はため息混じりに、先程交わした御神姫との会話を話す。


「……キラの髪の色がたまに、金髪に戻って見えるらしい。御神姫は陽の光の加減だと思ってるみたいだったけどな」


「おや……!それはそれは……なるほど」


 ルインは驚きで目を瞬かせてから、感心したように薄く笑みを浮かべて頷いてみせた。

 鬼王は困り顔で話を続ける。


「俺のおかしな反応のせいで、御神姫が気にしてるみたいだったから、その場で全て話しても良かったんだけどな?だけど、キラ自身に話すより先に御神姫に話していいもんなのか、って悩んじまったというわけだ」


 鬼王の戸惑いや落胆と、珍しく止まらない溜息の理由を知ったルインは、冷静に言葉を紡いでいく。


「そうですね。たとえ御神姫様に話したとしてもおいそれと吹聴ふいちょうする方ではありませんし、現状はあまり変わらないと思いますが……キラ自身に話すのは時と都合、時機を見る必要があるでしょうね」


 ルインの言葉に鬼王は素直に同意して、話の渦中にいる仲間の姿を遠くに見る。


「あいつも大きくなったよな?」


 鬼王の言葉に導かれるようにルインはキラを見た。


「そうですね」


「懐かしいよな……」


 鬼王はいつかの日を思い返し、懐かしい思い出に微笑み追想にふける。


「あいつを拾った日……」


 その日もこんな少し荒れた空模様だった。



 それはまだ、ヒノモトが栄える前、やっと一つの国として成り立ち始めた頃の事。


 少し荒れた空の下、かつての鬼王は腹心のルインを連れて海辺を歩いていた。

 この頃の鬼王は圧倒的な威圧感を放ち、ただ歩くだけで絶大な畏怖の念によって、同胞どうほう以外の何者も寄せ付けない空気を纏っていた。


「おい、瑠璃るり。あれは何だ?」


 かつてのルインは瑠璃という名だった。

 けれどその名前も、この時から間もなくして役割を終え、彼は今のルインという名に変わる。

 今、彼をその名前で呼ぶものはいない。

 彼のかつての名前を知る者も少ない。

 まだ生まれてもいないヤマトたちヒノモトの人間たちはもちろんのこと、鬼の一門であるラスすらも知らないだろう。

 鬼王に声をかけられたルインは、不思議そうに遠くを見る同胞の視線の先を見やる。


「あれは人間でしょうか……?」


「何であんなところで寝てるんだ?荒れた波に打たれてちゃ痛い上に冷たいだろう?」


「打ち上げられたんでしょう。よく見えないですけどもう死んでいるんじゃないですか?」


「……あんなところじゃ、寒いだろうな……」


 せめて暖かい場所でとむらってやろう、と思った鬼王は、緩慢な動きで波際で倒れている人間にゆっくりと近づいていく。

 その行動はべつに優しさでも同情でもなく、鬼王にとってはただの気まぐれに過ぎなかった。

 けれど、その気まぐれこそが、彼自身も気づいていない彼の生まれ持った資質。

 誰かの上に立ち、べる者の資性しせいと皆に慕われる優しさの片鱗へんりん

 鬼王が人間の為に膝をつき、美しい装束しょうぞくを海水と砂で汚す姿を、ルインは呆れたような瞳で見ていた。


「おい、瑠璃。まだ生きているぞ?」


 そう鬼王に声をかけられたルインは一度、眉を寄せてからすぐに装束が汚れた同胞に近づく。

 よく見ると、鬼王に抱えられた少年は、冷え切った体は小さく震え、微かに息をしている。


「死んでないだろう?」


 鬼王にそう言われたルインは、少々バツが悪そうに頷いた。


「そのようですね。……しかし、この少年……どうしましょうか?」


 ルインが、か細く息をする人間をみつめ、思考を巡らせる。

 このまま看病せず放置すれば、せっかく永らえたその命もすぐに尽きて、じきに死んでしまうだろう。

 しかしこの少年は人間。

 人間という生き物はひどく傲慢で臆病だ。

 同胞が恐ろしい鬼に関わったとなれば……その先を思うと、あまりいい想像がつかない。

 鬼を恐れ忌み嫌う人間たちのことだ。

 ともすれば、鬼に襲われたと騒ぎ立て、攻撃を仕掛けてくるかもしれない。

 あるいは、鬼にたぶらかされてると疑心暗鬼になった人間たちに罵られ、この少年があやめられるかもしれない。

 どちらにしても、いいことにならない以上、少年と鬼が関わることは得策とくさくじゃない。

 しかし此処に放置していくこともままならず、ルインは答えの出ない難題に頭を悩ませていた。


「よしよし、もう大丈夫だからな」


「おい。……何やってんですか?」


「え?とりあえず俺が羽織ってた毛皮で温めてるけど……」


「何勝手なことしてるんだと言っているんです」


「でもこのままじゃ寒くて死んじまうぞ?」


「……そうですけど」


 バツが悪そうに目をそらすルインに、鬼王がたしなめるように言う。


「瑠璃。お前は何か小難しいことに頭を捻ってるんだろうが、とりあえず目の前で吹き消されちまいそうな命火からどうにかしねぇか?」


「……たとえ助けたとしてもこの少年の先が明るいものになるとは思えません。あなたが考えなしに助けたことで……この少年が今より更に非業ひごうな明くる日を迎えることになるなら、いっそこのまま……」


 ルインは沈痛ちんつうな面持ちで引き絞るように答える。


「そんなことにはしないさ」


 あっけらかんと答える鬼王に、少々苛立ちながらルインは言い放つ。


「ではなにか名案でもあるんでしょうね?よもや、このまま私たちが面倒を見るとかいうつもりじゃないですよね?私たちは鬼で、この少年は人間なんですよ?」


「だから?」


「人間は人間のもとに返してやるべきです!食べ物も文化も体の仕組みも、鬼と人間では何もかもが違うんです!それこそ寿命さえもです!」


 ルインは鬼王を説得するというより、自身の考えを吐き出すように、訴えるように言い放つ。

 黙り込む2人の間に、しばしの沈黙が流れた。

 手立てのないままならなさと、どうしようもないやるせなさに、力なく項垂れながら、ルインは鬼王を諭すように呟く。


「無理なんですよ、同胞。私だって見捨てるのは心苦しいです。……でもあなたが、やろうとしていることは……誰も幸福にならない修羅しゅらの道です」


 ルインを少し見やってから、鬼王は項垂れる彼を気遣うように、けれど、しっかりとした声で言った。


「よしよし、もう大丈夫だからな。……どんな修羅の道でも、俺が全部守ってやるから。2人とも、安心しろ!」


 鬼王の言葉から、全然自身の言葉が届いていないことを悟ったルイン。

 彼は強く同胞を睨みつけてから、深くため息を吐いた。


「誰があなたに守られるものですか。……私が守るの間違いでしょう?」


「……俺が守られるのか?大きく出たな!お前より俺のほうが強いぞ?」


「妖力はね?でもちょっと、考えなしでしょう?」


「……失敗したことはねぇし、全く考えてねぇってこともねぇんだがな?」


「それは良うございましたね、同胞」


 ルインに軽くあしらわれて、鬼王は不服そうに少し眉を寄せて肩をすくませた。


「さて、とりあえず彼をどこか暖かい場所に連れていきましょう。……同胞、少年を落とさないでくださいね?」


「落とさねぇよ!」


 鬼王がしっかりと人間を抱え、ルインが前を歩き出そうとした瞬間だった。

 荒れた空の雲間から微かに柔らかい月の光が降り注ぎ、彼らを照らした。

 鬼王とルインが驚きのあまり、目を見開き、息を呑んだ。


「おいおい……」


「これはっ……!」


 それ以上は声にならなかった。

 2人は訝しげに見合ってから、少年に視線を戻す。

 そのまま暫し目を離すことが出来なかった。


――海水に濡らされたきらめく金髪を垂らす、美しい少年からは。


 沈黙の時間の後、少し考え込む素振りをしていたルインが徐ろに言う。


「これは、異国の……大陸の者ですね……」


「金色かぁ。お天道様てんとうさまみたいだな」


「大陸の者とは珍しいですね。けれど風貌から、探検家というようでも、侵略者というようでもない」


「綺麗な髪だけど、ここらじゃ目立つな」


「よく見れば、痣や傷がそこかしこにあります。海に流された時にできた怪我じゃなさそうなものも複数、見られますね。よく生きていたと思います」


「目はどんな色してんのかな?」


「……おい同胞、真面目に話を聞きなさい」


 噛み合わない会話に気づいたルインが、鬼王に呼びかける。


「とりあえず、俺の妖力使って見た目を変えるか。綺麗な髪はもったいねぇけど、目立つからな」


 独断専行どくだんせんこうで妖術をほどこそうとする鬼王をルインは呆れ混じりに止める。


「待て待て、待ちなさい、この考えなし」


「ん?どうした?」


 心底、何で術を止められたのかわからないという表情の鬼王に、ルインは冷静な声で言う。


「この少年の生い立ちも現状もわからない状態で浅はかな行動しないでください。罪人なのか、捨て子なのか。……なにか思惑があるのか」


「でも、俺等が面倒見るのは変わらないだろう?」


「いえ、なにか思惑があった場合は、色々考えないと……」


「……―――!」


 ルインがまだ言い切る前に、少年が目を覚まし、大陸の言葉で2人に何かを言い放つ。

 なにか怒っているような声音だが、何を訴えているのか、大陸の言葉を知らない2人には当然理解できない。

 そんな少年の様子を2人は、威嚇して鳴いている小動物を見る時と同じ瞳で見つめる。


「……なんか、怒ってますね?」


「怯えてるんじゃねぇ?」


「困りました。言葉が通じないとは……」


「とりあえず名乗ってみるか」


「なんで?」


「初めてあった時は、名乗り合うのが常識だろ?」


「言葉通じないのに?」


「俺は……―――だ」


 鬼王が名乗っても、少年は訝しげにこちらを睨むだけで状況が変わっているとはルインには到底、思えなかった。

 けれど、他にどうしようもなく、なんだかこの異様な状況で名乗ることに、少々間の抜けた情けなさを感じながら鬼王に続いた。


「……はぁ、私は瑠璃です。君の名前は?」


 ルインは自身の胸に手を当て、ゆっくりと口を動かしてなるべく少年に伝わるように名乗ってみせた。

 ルインの丁寧な振る舞いに、少々戸惑いを見せてから、少年は辺りを見渡す。

 そして、鬼王とルインを暫しみつめてから、ルインと同じような仕草で言葉を発する。


「My name is caritas. OK?」


 少年に名乗られた2人は、表情を動かさないまま小さな声で会話をする。


「……今彼がなんて言ったかわかりました?」


「いや、全然。まーぬーけーって真面目な顔で言われたけど、たぶん俺の聞き間違え」


 言葉はもちろん、発音の仕方も違う相手との会話は容易じゃない。

 相手も2人の名前を理解できていないのは明白だ。

 何度かの問答にならないやり取りの後、ルインが両手を軽く上げて、申し訳無さそうな声で言った。


「あぁ、すみません。もうお手上げです……」


 少年も言葉は理解していなくとも同じ気持ちのようで、申し訳無さそうに苦笑していた。

 鬼王は暫し考えてから、大きな動きで少年に問う。


「おまえは」


 少年を指差す。


「海の向こうから」


 海に向かって指を指した。


「この地に来たのか?」


 鬼王は自身の足元を指し示す。

 ルインはその行動を黙って見ていた。

 少年は大きく首を縦に振った。

 ここに来て初めて会話が通じた。

 ルインは感心しながら、同胞と少年のぎこちなくつたなくも、れっきとした会話をする姿をみつめていた。


「瑠璃だ」


 鬼王がルインを指さして言った。

 ルインは軽く会釈を交えて、自身の胸に手を当てて再度名乗った。


「瑠璃、と申します」


 少年は頷いて、ルインを手のひらで指差すようにしておずおずと言う。


「ルイン?」


 鬼王は小さく吹き出しそうになっていたが、ルインは、彼の発音ではこれ以上直しても戸惑わせるだけだろうと諦めて、首を縦に振った。


「はい、ルイン、でいいです」


 嬉しそうな表情で少年は自身を指差して言った。


「caritas」


 カリタス、と名乗る少年の発音を2人は理解できないでいた。


「き……ゃりら……」


 真剣に少年の口元を追うルインの後ろで、鬼王が声を上げる。


「キラ、でいいんじゃないか?」


「よくないでしょう」


 ルインが窘めるような目を鬼王に向けたが、少年的にはそれが一番近いと判断したようで、首を縦に振ってみせた。


「ほら!」


「え!?絶対違うでしょう?あなたがそう言ったからこの子が諦めて頷いてしまったんですよ!」


 勝ち誇るような鬼王に、ルインが強く抗議の声を上げる。


「でも、これ以上やっても話が進まないぞ?」


 的を得たような事を鬼王から言われ、ルインは、ぐっと言葉を飲み込んだ。

 少年を一瞥してから観念するように頷いて、抗議を取り下げた。


「……そうですね。……では、キラ。キラはどうしてここに来たんですか?」


 キラや足元や海を指差したり、時に歩く素振りなど大きな動きを織り交ぜて尋ねる。

 こうして3人は言葉と動きで、たどたどしい会話をなんとか続けながら、お互いを少し理解していった。


 海辺から暖かいところに場所を変えて、キラに濡れていない自身の着物を着せながら、ルインは口を開いた。


「では、キラはもう帰る場所がないんですね?」


 残酷なことを突きつけているようでいい気分はしなかったが、確認するようにキラに尋ねる。

 キラも何度かのやり取りで、ルインの言わんとしていることがなんとなくだがわかっているようで、首を縦に振って頷いた。

 着物を着付けてくれているルインに、言われるまま背中を向ける素直なキラを、2人は見つめる。


「捨て子か?」


 少し冷たい声音で鬼王が忌々しそうに、ルインに尋ねる。

 鬼王は、人間のそういうところが理解できないと吐き捨てるように言った。


「さぁ、わかりませんが……キラの体を見るに、あまり良い扱いをされていなかったようですね」


 ルインはキラの体に無数に広がる傷や痣を睨みながら鬼王に答える。


「まだ幼いよな?」


「どうでしょう。私たち鬼からすれば人間なんて皆赤子に見えますから」


「赤子には大人が必要だよな」


「ちゃんとした大人がね」


 ルインの言葉に鬼王が、自身を親指で指して言い放つ。


「捨てられてるなら、俺が拾ってやる。最初から俺が守るって言っていたんだからな。違えるつもりはねぇよ。それがどこの人間でもな」


「考えなしのあなただけでは心配です。乗りかかった船ですからね。最後まで面倒見ますよ。それが修羅の道でもね」


 ルインは小さくため息を吐きながらも、清々しい面差しで鬼王の言葉に続いた。

 そして着付けを終え、慣れない場所に戸惑いを見せるキラに二人は微笑んで言った。


「よしよし、もう大丈夫だからな」


「安心して、大きくおなりなさい。私は君を歓迎します、私の同胞として、幸福におなりなさい……」


 そして、鬼王は妖術を使い、キラの見た目を変え、寿命や種族すらも変えた。

 ルインは止めることなく、その光景を見ていた。

 それはキラが人間から鬼になった瞬間だった。

 それは鬼の一門が出来上がった瞬間でもあった。

 この出逢いがこの先の運命を大きく変えるとは、この時の誰もまだ思ってもいなかった。


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