童貞、銃を撃つ。
ある日のYouTubeで、バキバキ童貞がセックスについて熱く語っていた。
「セックスは祝祭なんだ。セックスは祝祭だし救済なんだよ。あれで救われるんだよ人間は」その姿に笑い声が起きていたが、僕は笑えなかった。
童貞なんて気にしなくていいよ。セックスなんて大したものじゃないよ。童貞を卒業した人間がかけるそれらの言葉に、「お金があっても幸せじゃないよ」と微笑む金持ちのような傲慢と欺瞞を感じていた。では今から童貞の頃に戻りますか?と問うたとして、YESと答える人間は、彼らの中に果たして何人いるのだろうか。
鬱屈とした感情が積もっていた。気づくと、銃が手に握られていた。
仕事が長引き、日付を跨ぐ頃にようやく職場を出ることができた。歩く。道端に女が寝転がっていた。ひどく酔っている。立ちあがろうと左手で電柱を掴むが、流れるようにバランスを崩し、ゴミ袋に頭から突っ込む。何か呻いていたが、呂律が全く回っておらず聞き取れない。
あの、と声をかけるが、髪を振り乱すばかりで返事はない。女に腕を掴まれたと思うと、そのまま抱きつかれた。警察に通報すべきか逡巡していると、銃の提案に虚を突かれた。
「お前、ホテルに誘えよ」
冗談だろ?そう思いたかった。だが、銃の表情は変わらない。
「抱きついてきたのは向こうだぞ?これはもう同意だろ。酔った勢いでホテルに行くなんて、みんなやってることじゃないか。何も気にすることはない。お前だって童貞を卒業したいんだろ?仮に正気に戻ったとしても、俺がいる。一発撃てば大人しくなるさ」
僕は、馬鹿なこと言ってるんじゃないよ、とだけ返し、そっぽを向いた。銃の話に嫌気が差していた。銃が詰め寄る。
「結局、お前は勇気がないんだ。臆病で賢ぶっているだけで、現状を変える勇気がない。大学時代の彼女とセックスしなかったのだって、彼女を大切に思っていたからではないんだろう?
セックスに誘って嫌われたらどうしよう。
初めてのセックスで失敗したらどうしよう。
いつだって自分の保身しか考えていない。
そのみみっちいプライドで何を得た?
一度だけ彼女がいたことを理由に『他の童貞とは違う』『本気を出せばできる』『今は出会いがないだけ』と思っているが、何か行動したのか?
その成れの果てがお前なんだ」
銃に煽られて、思わず女の肩を掴む。僕を捨てて別の男に乗り換えた元彼女、風俗に行けばいいと無責任な助言をした友人、様々な顔が脳裏によぎった。緊張から、ハァ、ハァと呼吸が浅くなる。肩を掴んだ手に力が入る。女の顔を見る。トロンとした瞳の中に、自分の醜い顔が映っていた。途端に元彼女や友人の顔が頭から消え、母親と父親の顔に変わった。
僕は手を離すと、地面に崩れ落ち、ウッウッと泣いた。情けなさで涙が止まらなかった。銃は無言を貫いていた。醜怪な音とともに、女の口から吐瀉物が濁流のように氾濫していた。
警察が酔った女を連れていくと、路上には僕と銃だけが残った。
「悪かった」意外にも銃が素直に謝る。
「撃ってもらうという経験をどうしてもしてみたかったんだ。そのためとはいえ、お前に酷い言葉を沢山かけてしまった。俺の我が儘のせいで傷つけて申し訳ない」
銃は引き金をしきりにカチカチと鳴らしながら続けた。無理をしている。
「別に撃ってもらうことに拘らなくてもよかった、と今では思うよ。鑑賞用として楽しんでくれている人も世の中にはいる。そういった価値を認めていくべきなのかもな。それに俺みたいなのが撃ってもらうなんて考えたこと自体、身の程知らずだったんだ」
わかるよ、こちらこそごめんな、と僕も謝った。銃が傷ついているのが痛いほど伝わってきた。
「一度でいいから撃ってもらいたかったんだ」銃がポツリと溢したのを、僕は聞き逃さなかった。
翌日、月明かりを背に退勤した。銃は持っていなかった。「その方がいいと思う」と銃からの提案だった。昨夜のことを気にしているのだろう。銃身が項垂れていた。
銃無しで1日を過ごすのは久しぶりで心細かった。電車の順番待ちに割り込まれても、取引先で無茶苦茶なクレームをつけられても、何もできなかった。
2人組の男女を見かけた。揉めているようだった。40代だろうか、背広の男が、茶髪の女の腕を掴み、ホテルか何処かへ連れて行こうとしていた。まだ20代前半に見える茶髪の女はそれを強く拒んでいた。
僕は声をかけようとして、やめた。茶髪女が嫌がっているように見えるが、本心はそうでないのかもしれない。2人は交際関係なのかもしれない。僕は童貞だから、そういった機微を理解できない。仮に止めるにしても、今日は銃もないし。
踵を返した時に、以前見たバキバキ童貞のYouTubeのことを思い出した。『【神曲】スピッツ風のメロディにコミックLOポエムだけで作詞したら名曲が完成してしまった…!【土岡熱唱】』という企画だった。涙が出るほど面白かった。
バキバキ童貞はいつも輝いていた。なぜなのだろう。同じ童貞のはずなのに。
バキバキ童貞は、いつも色々なことにチャレンジしていた。ドラマにも出演していた。バキバキ童貞の目は常に前を向いていた。童貞を言い訳に歩みを止めることがなかった。
元彼女との関係を進展させようとしなかったのも、学生時代の友人と距離を置いたのも、全て僕だった。
童貞だから。それを言い訳に逃げ続けていた。童貞のことを1番馬鹿にしていたのは、僕自身だった。
気づけば、背広男の腕を掴んでいた。茶髪女が驚いた顔でこっちを向く。2人の間の事情なんて知ったことではなかった。ただ、自分を、変えたかった。僕も、バキバキ童貞になろうと思った。
背広男がキッと睨み、僕を突き倒す。僕はバランスを崩し、尻餅をついた。腕力では敵いそうにない。筋トレくらいしておけば良かったな。無策で再度立ち上がる。
「へえ、頑張ってるじゃねえか」と僕を褒める声がした。背広男かと思うが、違う。茶髪女でもない。「俺だよ、俺」と同じ声がする。まさか、と思った。信じられない。声の主は銃だった。「ようやく気づいたか、行こうぜ相棒」
僕は後ろポケットから銃を取り出すと、銃口を背広男に向けた。玩具だと思っているのだろう、背広男はニヤケ笑いを保ったままだ。サッと銃口を上に向ける。引き金を引いた。
パン、と乾いた音が響く。夜空に向けて放たれた銃弾は天高く駆け上がる彗星となり、成層圏を突破すると同時に、僕を覆っていた薄暗い自意識を華麗に撃ち砕いた。撃ち砕かれた自意識は、ガラスの如き破片と化し、月の光を反射して煌めきながら、降り注ぐ。破片に、元彼女、友人たち、母親、父親の姿が映る。地面に落ちた破片は、更に細かく砕け散った。無数の破片に、無数の自分が映る。元恋人に振られた僕、友人に見栄を張る僕、バキバキ童貞を嗤っていた僕。
無数の僕を踏み抜きながら、僕は一歩ずつ一歩ずつ前に進んだ。
辺りには硝煙の匂いが立ち込めていた。われを取り戻した背広男は顔を引き攣らせると、足をもたつかせながら、全速力で逃げていった。あとに残された茶髪女はまだ状況を把握できていない様子だ。その顔に感謝と恐怖と困惑が同時に浮かんでいる。何か言っている。だが銃声で鼓膜がやられて、聞き取れない。
人が駆けつける気配を感じて、慌てて逃げた。走るのは学生ぶりのことですぐに息が上がる。だが、心は解放されたように軽やかだった。
いつのまにか銃はどこかに消えていた。走っている間に落ちたのだろうか。もし落としたならば、また別の誰か、別の童貞に拾われるのかもしれない。いずれにせよ、今の僕なら、銃がなくても生きていけると思った。
僕は、ネオンに照らされた夜道を、全速力で駆け抜けた。
童貞、銃を拾う。 真狩海斗 @nejimaga
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