第2話

 上機嫌な長篠に案内されてたどり着いたのは、フローリングにグランドピアノの置かれた部屋だった。椅子は、横に広い背もたれのないものと、一人用の背もたれ付きが一つずつ。壁紙は花の透かしが入った白、おかれている家具は、楽譜を並べた低い棚とピアノのサイドの丸いテーブルのみ。いたってシンプルだが、それが逆にセンスを感じさせる。

「防音室だよ」

 さも当然というように、長篠が告げる。もう、何があってもおかしくないようだ。そりゃあそうだ、音楽一家なのだから、防音室ぐらいあって当然だ。そう、自分に言い聞かせる。


「座っていいよ」

 そう言って、背もたれの付いた方の椅子を差し出される。俺は、ピアノから少し離れた位置までそれを持っていき、おとなしく座った。それを見た長篠は、満足したかのように深く頷くと、自分は横長の方の椅子に座った。右足を前に出し、ペダルにかける。ベージュのチノパンの太腿に、ぐっと皺が寄る。


 ふわりと、鍵盤の上に右手が乗せられた。


 ポーン、と響く伸びやかな一音目。

 彼の演奏は、想像以上に唐突に始まった。


 ポポポーン、右手の三本の指が軽やかに動かされる。何かの始まる高揚感をたたえたファンファーレ。すぐに左手が加わり、華やかな花びらを思わせる旋律に深みが与えられていく。一、二、三、思わず体を揺らしたくなるような。右手の自由な歌声を支えるように、左手は一定のリズムを奏でる。


 気ままな少年が弾き始めたのは、軽やかなワルツだった。規則正しい三拍子を、花のような音符で飾り付けた、円舞のためのメロディー。ペダルを踏む足、そのテンポに合わせて伸びる音。白い舞台の上を跳ねるように十本の指が踊る。細かくなっていく動きに合わせて見えるのは、くるくると回る、花模様のドレスを身に着けたうら若き少女たち。かと思えば、速度の落ちて穏やかな旋律が、談笑する人々のさざ波となる。深みのあるメロディーが浮かび上がらせるのは、大人の余裕、視線を交わす艶やかな二人。あっという間に引き込まれていく。きらびやかな世界。クラシックの描く、華やかな魅力に満ちた世界。


 一体、この少年のどこから、ここまで豊かな夢が生み出されるのだろう。自由で、フランクで、どこかとらえどころのない少年。同い年でありながら、謎と不思議に満ちた少年。生まれたときに、音を伝えるための名前を与えられた彼は。幼いころから音楽の道を歩き続け、一体どのような思いを抱えて、それでもこんなに透き通った音を奏でるのだろう。


 タタターン、という再びの合図とともに音色が変わる。繊細でかわいらしいそれから、力と光に満ちたそれに。個性あふれる人々の姿から、豪華絢爛、一夜の夢、愛と美しさのあふれる舞踏会全体を俯瞰する音に。回る人々。微笑む男女。段々と激しく、情熱的になっていく楽隊の演奏。シャンデリアが、人々の熱気を反射し、音はより力強く、高らかに響いていく。高揚していく心、知れずに上がっていく体温。窓の外の月、庭のピンクのバラ、きらめく噴水。そういったものすべてが、目の前にありありと浮かぶ。


 曲はフィナーレへと向かっていく。細かい音の連続、音の上がっていく旋律は、クラシックの常套でありながら、それでもあせない魅力を持っている。もっと、もっと。最高潮に高まった熱気をこれでもかと膨らませていく、右手の連符。長くて細い指が、軽やかに、繊細に鍵盤の上を駆けていく。 

 終わりは始まりと同じ、高らかに響くファンファーレ。ただし最後には、低い音。


 ボーン、と低い余韻を残し、十本の指は沈黙した。そのまま時の止まったような数秒間が続く。きっとこれは、俺たちがこの世界に返ってくるための時間だ。遥か過去の栄光、華やかな宮廷の世界から、日本の小さな町に帰ってくるための、その時間。


「華麗なる大円舞曲──ショパンのワルツだよ。これ好きなんだ」


 長篠は、突然糸が切れたようにさっと手を鍵盤から外すと、こちらに向き直った。

「うん、聞いたことはあった。ショパンだっていうのは初めて知ったけど」

 それに、この曲をここまで真面目に聞いたのは初めてだった。もちろん、こんなに引き込まれたのも。


 長篠は、ふうっと息を吐き、斜め上を見上げた。

「この曲はそんなに難しくはないよ。でもショパンだとこれが一番好き。ショパンは、俗っぽい言い方すると暗めの曲が多いからさ。もちろん、その暗さや切なさを持った和音でしか伝えられないものもある。そういう曲も綺麗だから好きだよ。でもさ、弾いててちょっと疲れるんだ。精神を削り取られていく感じ。それは、今自分が音楽そのものであることの証明だから心地いいけど、何度もやりたいようなものでもないかな。僕は明るい曲、弾いてて楽しい曲の方が好き」

 人によるだろうけどね、と付け加えて彼は笑う。


「お前らしい考えだと思うけど」

 そう答えてから、ふと拍手をしていないこと気が付いた。おもむろに手を叩くと、目の前クラスメイトは予想外に頬を染める。

「うん、上手だったし、楽しかった。今まで聞いたピアノの中で一番、引き込まれていく感じがした。すごいんだな、お前。本当にピアノに全部注いできたって人の音だった」


「うーん、嬉しいけど照れるなあ。そこまでべた褒めしなくても。まだまだ改善していきたいところはたくさんあるよ」

 その瞳は、真剣そのものだった。出会ってから、ふざけたような顔ばかりしていた彼だったが、ピアノの前となると全くその面影はない。尊敬と同時に、どこか劣等感すらも感じる。こんなにまっすぐで、こんなにきれいな人間には、なれない。


「そうそう、で、一つ提案なんだけど」

 突然のぞき込まれて、俺はのけぞった。こいつ、海外暮らしでもしてたのか。本当にパーソナルスペースが狭い。あと五センチで鼻のぶつかるような距離まで近づかれるのには、慣れていないからやめてほしい。


「……なに」


「僕と一緒に、文化祭のステージ発表に出ない?」


「……俺、ピアノ弾けないけど」

 予想の斜め上どころか同一平面上にもないような提案に、しかめっ面になる。


「うん、知ってるよ。君にはトランペットを吹いてもらうんだよ」


 えっ、とここ数年で一番情けない声が出た。

「なんで、それ」

 知ってるんだ、という言葉は、喉の奥に飲み込まれてしまう。まさかこいつ、俺が音楽をやっている人間だということを知って話しかけてきたのか。


「去年の文化祭さ、観に行ったんだ。去年も学校はほとんど行けてなかったんだけど。文化祭と合唱コンクールは併合されてるし、吹奏楽部の演奏もあるし、ステージで歌ったりギター弾いたりする人もいるだろ。楽しいかなって思って、保護者に混じって観客席で観たんだ」


 彼は、白い天井にはめ込まれた蛍光灯を見つめながら話し続ける。

「でさ、吹奏楽部の演奏でさ、一人だけ、三年生として紹介されてない男の子がいたんだよね。一番後ろの列でさ、金ぴかのトランペットを持った、背が低くて真面目そうな眼鏡の子がさ」

 本当に分かっていたのだ。俺が吹奏楽部三年唯一の男子部員であるということが。だから誘ってきたのだ。同じように、音楽を愛する人だろうと思ったから。


「君がトランペットを吹いてるのを聴いたんだ。すごく素敵だって思った。綺麗で、よく伸びる音で。それから、楽しそうだった。同じ男の子だったから気になったんだ、どんな子なのかなって。だから、担任に名前を聞いて、写真を見せてもらって。そんなんだから、もしかしたらこれをきっかけに学校に来てくれるかも、と思ったんだろうね。次の年には同じクラスになってた」


 知らなかった。俺が長篠のプリント整理が面倒だとか言っている間、こいつは俺と会うこと話すことを考えていたんだ。なんだか情けなくなる。長篠のピアノを聴く前なら単純に喜べたかもしれない。だが、聴いてしまった今では、自分が彼の期待に応えられるような人間だとは思えない。きっと、俺の技術は、彼を失望させる。


「セッションしようよ。きっと楽しいよ。僕、一度やってみたかったんだ」

 君みたいな人と、と笑顔で言われる。


「多分、俺は、君が思っているほど優秀じゃないよ」

 運動が苦手だった。絵を描くのも苦手だ。歌うのも普通かそれ以下。だから、一番できそうなものとして、吹奏楽を選んだ。それだけだ。音楽は好きだけど、それは趣味の範囲に過ぎない。曲を弾いていても、自分が音楽そのものだと思えることなんてない。俺なんかが、長篠奏とセッションなんてできない。こいつの才能を、魅力を、殺すことになっていしまう。


「そんなのやってみなきゃ分からないだろ。あと四か月くらいあるんだよ。練習時間は十分あるよ」

 そういう問題じゃないんだ。そう弁明するが、押しの強い長篠は引き下がらない。むしろ、上半身を乗り出すようにしてこちらに迫ってくる。

「一緒に練習しようよ。僕だって、中学生らしいことしたいんだ。誰かと一緒に自分の好きなことをやりたいんだよ」


 多分この先、チャンスなんてないだろうから。こぼされた小さな声が、あまりにも弱々しくてびくりと体が震えた。

 何でわからなかったんだろう。そうだ、そうに決まっている。いくら長篠が能天気だからって、寂しくないはずがない。みんなと同じように生活したくないわけがない。それでも彼は決めたのだ。音楽に全てをかけると。ならば、彼が、その音楽を最大限楽しむための方法として考えたものを断るということは。


「……分かったよ。うまくいくかどうかは分からないけれど、やるよ」

「ほんと? やった!」

 俺の返事を聞いた長篠は、心の底から生まれたような笑顔を浮かべた。幼い子供のようなその表情に、でも悪くはないかとも感じてしまう。


「うん。あっ、でも一つ条件がある」

 俺は、指を一本立ててみせた。

「週に一度、学校に来ること。体育のない時でいいから。長篠が来たら、プリント片づけなくていいし。それに、俺も、た、のしいし」

 言ってしまってから恥ずかしくなる。なんだよ結局、俺も仲間が欲しかったんじゃないか。同じように音を通じて絆を築ける同性の友人が。

 長篠は、しばらくきょとんとしていた。だが、数秒して俺の言葉の意味が分かったらしく、突然ぷっと噴き出す。

「あはは、あはははは!」

 そんなに笑わなくてもいいだろう。

「うん、そうだね、あはは、君って想像していた以上に面白いや。うん、行くよ、学校。週に一回ぐらいは」

 そう頷くと、彼はこちらを見据えた。その瞳には、ゆるぎない光が宿っている。


「がんばろう。二人で成功させるんだ。音楽はすごいんだって、みんなに教えてやろう」


 差し出された手を握る。この手が、白と黒の世界を走って、あの鮮やかな旋律を生み出すのだ。俺は、自分よりもずっと皮の薄く、大人っぽいその手の感覚を焼き付けた。


「だからさ、僕のことは奏って呼んでよ。僕もユーヤって呼ぶからさあ」

 だから、俺の名前は伸ばす棒じゃないんだが。

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