カナデの音
藤石かけす
第1楽章 華麗なる大円舞曲
第1話
それが、俺の隣の席の生徒の名前だ。
六月に入り、俺たちが中学三年生、すなわち受験生になってから二カ月がたった。
だが、俺は彼の顔を見たことがない。
学校に来ないのだ。毎日配られるプリントは机の中に一杯になって、横から見ると白い露頭のよう。始めのうちは裏表と上下をそろえて入れてやっていたけれど、それも面倒になり、最近はややさぼっている。
彼がどんな顔をしているのか、どんな生徒なのか、どうして学校を休んでいるのか、俺は何も知らない。気にならないと言えば嘘になるが、一生知ることはないのだろう。
せっかく持ってきた折り畳み傘がただの負荷にしかならない青空。正午を回ったばかりの街は、信じられないくらいに気温と湿度が高い。
俺は、目の前の公園の中に見慣れない人影を見た。
色の薄い髪をした、ひょろりと背が高い少年が、座り込んで、猫に餌をやっている。高校生くらいだろうか、あまり見かけない人だ。この辺りは皆顔見知りのようなものだから、珍しい。同世代ならなおさらだ。最近引っ越してきたのだろうか。ややペンキのはげたブランコのもとにかがみこんで、自分の広げた餌にがっつく猫をじっと見つめている。
いつの間にか、足が止まっていたようだった。気配を感じたのか、少年が顔をあげる。
「あっ、すみません」
じろじろと眺めるとはなんと不躾なことか。俺はきまり悪くなり、小さな声で謝ってそそくさと立ち上がろうとした。だが、その背中にのんびりとした声がかかる。
「ねえ、君、トダユーヤだよね?」
いきなり名前を呼ばれ、思わず振り返る。少年は立ち上がってずんずんとこちらに近づいてきた。よく見ると、その手にはスーパーのレジ袋が握られている。中に入っているのは、多分野菜と、それから総菜。
向き合ってみると、少年はやはり背が高かった。百七十センチはあるだろう。高校生なら珍しくはないのかもしれないが、四月の身体測定でやっと百六十センチに届いた俺から見るとかなり大きい。ただ、細身の彼には、同じクラスの運動部に奴らのような威圧感は一切ない。その上、かなりのなで肩である。
「やっぱり! トダユーヤだ!」
「……あの、誰ですか……」
屈託のない笑顔で言われ、思わずじりじりと後ずさる。こいつ何で、俺の名前知ってるんだ。しかも、なんだか外国風に伸ばす棒を使って呼ばれているような気がする。
「え、僕? 僕は、長篠奏だよ。君の隣の席の」
は?
「いや、騙そうとしたって無駄ですよ」
「ひどいなあ、本当だって。ほら」
彼はベージュのチノパンの尻ポケットから財布を取り出し、さらにその中から、見慣れた学生証を取り出して見せる。
「えっ、ほんと?」
「だからさっきからそう言ってるじゃん。何で信じてくれないのさ」
目を白黒させる俺を、少年、もとい長篠は訝し気に見つめる。
「いや……不審者とかかなって思って」
そうぼそりと言うと、長篠は一瞬形容しがたい表情になった後、ぶっという汚らしい音を立てて噴き出した。
「あはは! 失礼にもほどがない?」
俺の顔が面白かったらしく、彼はだいぶ長く笑っていた。
「悪かったよ! というかお前、そんなに楽しそうにしてるなら何で学校来ないんだよ!」
やけになってそう叫び、次の瞬間には青ざめた。何てこと聞いてるんだ、俺。何か事情があるから不登校になっているに違いないのに。
「あー、そのこと」
ごめん、とうつむきながら呟くと、呑気な返答が返ってくる。
「手、怪我したら困るんだよ。ピアノ弾くから」
彼は、空中に両手を並べて、ピアノを弾く真似をしてみる。いや、真似ではなく、本当にそこに鍵盤があるつもりなのだろう。関節の骨ばった指は、それこそ滑るように、空中で踊っている。俺は、目をやや白黒させた。
「学校行ったら、体育やらなきゃいけないし。怪我したら、弾けなくなるし。学校毎日行ってたら練習する時間も取れないし。だから、学校行ってない」
一応勉強はしてるよ、全然得意ではないけど。そう言ってへらへらと笑われる。
いや待て、そんなにガチなのか。学校休んで練習するほど本気で音楽をやっているのか?
「というか、君こそ何でここにいるの? 今日、月曜だよ? 本当なら今は学校でしょ」
「今日は午前授業だよ」
俺は自分の制服を見下ろしながら憮然と言い返した。この格好を見ても想像がつかないとは、本当に馬鹿なのか。それとも、あまりに学校に通っていないために、常識というものがピアノの弦の間からすり抜けてしまったのか。後者だとしたら、それはなんだか残酷な気がする。そもそも彼は、どうしてそんなにピアノを弾こうとしているのだろう? 学校という義務を差し置いても優先するようなものなのか。おそらく好きでやっているのだろうが、それは本当に根っからの彼の意思なのだろうか。
その時、ぐうという情けのない音が鳴った。はっとして腹を抑えるが、どうやら逆効果だったようだ。
「あはは、お腹すいてるんだね。どうせなら、僕の家で食べてく?」
あっ、それとも家に人いる? という質問に首を振ってこたえる。確かに、今日の俺は家に帰っても一人だ。母親と父親は仕事だし、俺の所属する吹奏楽部は休みだが、一つ年下の妹の部活はあるらしい。だが、クラスメイトであるとはいえ、初対面の人に昼食をごちそうしてもらうのもなんだか悪い。それに、長篠奏という人間は、あまり関わってはいけないタイプな気がする。音楽を本気でやっているからではない。なんとなく、彼のやや軽めの人間性は、お近づきになるとトラブルのもとが増えるのではないかという錯覚を起こさせる。
「いいよ、別に。家で適当に食べるから」
「ええー、せっかくなんだから寄って行ってよ。暇なんだよ、僕だって。毎日話し相手がピアノとこの猫だけなんだ。たまには親族とピアノ講師以外の文明を持った生き物とも会話したいよ」
長篠は足元の猫を見つめつつそう返した。茶トラのそいつは、どうやら随分とこの少年になついているようだ。嬉しそうに見上げる猫に、長篠もへにゃあと笑い返す。あまりにもふわふわした雰囲気を醸し出している一人と一匹にだんだん腹が立ってきた。というか、猫の相手なんてしてていいのかこいつ。それこそ引っ掻かれたらまずいのではないか。主に手が。
丁度昼ご飯の材料も買ってきたところだし、と頼みこまれる。その色の薄い瞳の中に、一瞬切実な何かを見たような気がしてたじろぐと、その隙を掴んだようにぐいっと顔を近づけられる。こいつ本当に、綺麗な顔してるな。この顔、この体格でピアノが弾けるとか、多分女子が放っておかないだろう。
「わ、分かったよ! 行く、行くから! 顔近い、馴れ馴れしい、早く離れろ! 俺はこの二か月間毎日、顔も見せず、ペアワークを教師とやる苦痛を与え続けるクラスメイトのために、机にプリントを入れ続けて、欠席長篠さんですと言い続けたんだからな! もっと感謝しろよ!」
目の前の少年にまくしたてると、彼はきょとんとした顔をした後、ぷくくと笑いをこらえた変な顔になった。
「そう来なくっちゃ! うん、毎日ありがとうねー」
絶対思ってないだろう、と思いつつため息をつく。仕方がない、一食分料理をする手間が省けたと思おう。
長篠の家は、想像をはるかに超えてスタイリッシュな家だった。玄関を入ると、まっすぐに伸びた廊下。一番手前の扉を開けるとリビングで、しかもそこは吹き抜けになっている。部屋には、大画面のテレビとベージュのソファ、ガラスのダイニングテーブルに、L字型のキッチン。部屋全体が白を基調にした家具でまとめられており、南向きに大きく開いた窓から入る日光と合わせて、とても清潔感のある印象だ。部屋の端には、白い階段がある。手すりはパイプ。まるでモデルルームのような部屋だ。吹き抜けのため、やや寒そうではあるが。
長篠はキッチンに立ち、何かをごそごそと調理していた。すぐできる、と言われたが、正直、すぐという言葉ほどその人の主観が現れるものはない。せっかくごちそうしてもらうのだから、気長に待つとしよう。俺は、テーブルの横に飾られた観葉植物の葉脈を見つめて過ごすことにした。
それにしても、変な奴に出会ったものだ。今まで一度も顔を見たことのなかった隣の席の生徒が、ピアノをやるために学校を休んでいるのだという。俺自身も音楽は好きだ。だが、そこまで頑張ろうとは思えない。俺が音楽を一生の仕事にできるなんて、富士山がエベレストより高くなるくらい可能性のないことだ。そんなことに向かって努力できるとは、平たく言えば感心である。なんだか馴れ馴れしく、若干迷惑そうな臭いも感じるが、それを打ち消すだけの衝撃があった。
「できたよ」
長篠が手に白い皿をもってやってきた。テーブルの上に並べられたのは、スパゲッティがのった白い皿。具は、ちぎったキャベツをゆでたものだけ。いたってシンプルだが、センスは感じる。
「ありがとう。それと、作っておいてもらって悪いんだけど……料理とかしてていいの? 包丁とかで怪我したらまずいんじゃ?」
俺がおずおずと尋ねると、彼は当然のように俺の隣に腰を下ろした。長椅子のため、ほとんどパーソナルスペースがない。普通向かいに座るだろ。俺は若干、体を反対側へずらした。それとも俺がわざと下座に座ったのがばれているのだろうか。もしくはいつもの座席からは絶対に動かないタイプの人なのか。
「うん、だからね、包丁全く使わない料理ばっかりしてる。動画投稿サイトで、『包丁なくても作れます!』って動画つくれるくらいには自信ある。しかも全部時短料理! ねえ知ってる、パスタって電子レンジでも作れるんだよ?」
あ、そう……。俺は適当に相槌を打ち、フォークに手を伸ばした。簡単な料理のようだけど、なかなか美味しい。味付けは多分、オリーブオイルだ。料理なんてほとんどしないから分からないけど。ただ一つ言えるのは、これが生まれて初めて食べる友人の手料理だということだ。自称簡単料理のようだから、あとで作り方を教えてもらってもいいかもしれない。
「長篠は、どうしてピアノを始めたの?」
静かに食べているのもつまらないので、こちらから話しかけてみる。
「うーん、成り行きだね。僕の母さんは、昔ピアニストだったんだ。今は音大で音楽教師やってる。母さんのピアノは物心つく前から聞いてたし、自分も将来ピアノやるんだろうな、ってなんとなく思ってた」
彼はふっと天井を見上げて、さも当然だというように答える。ひどく落ち着いた声。うなじにかかった栗色の髪、カトラリーを握る手に浮き出る筋。知り合いになったばかりの少年に知らない姿を見て不安になっている自分が滑稽だ。
「父さんもオーケストラ入ってるし。僕も音楽好きだから。音楽やるっていう選択肢以外はなかったかな」
音楽一家なわけだ。だからこそ、学校に行かなくても何も言われないのだろうけれど。
俺は苦笑しつつ、最後の一口を放り込む。
「長篠はすごいよ」
「何で?」
彼は心底訳が分からないというように尋ねた。説明するのは癪だが、こいつのことだ、多分言わなくては分からないだろうから説明することにする。
「音楽って、難しい。明確な正解がないし、自分がどんなに好きでもその思いが報われないこともある。親が音楽家だからと言って、成功が保証されているわけじゃないだろ。むしろ、俺だったらプレッシャー感じるんじゃないかな。でも毎日飄々と頑張っているみたいだから」
多分こいつは、そんなことひとつも意識していないだろう。好きだから。その思いに忠実なだけだ。俺は、そんなこいつのことを呑気で恨めしいと思いながらも、憧憬の念すら抱いている。
「ごちそうさまでした。ありがとう、長篠。おいしかった」
お礼を言って立ち上がる。
「どういたしまして。ところでさ、この後暇?」
暇だ。帰ったらゆるく勉強をして、それから漫画を読む予定だった。俺が頷くと、長篠はぱっと顔を輝かせる。
「じゃあさ、どうせなら僕のピアノ聴いていってよ! 君がどう思うのかが聞きたい」
驚いて声が出なくなった。
「いいの?俺なんかで」
「もちろん! 君だから聴いてほしいんだよ」
一体この少年はどういう言語感覚を持っているのだろう。
まっさらな笑顔で言われると、こちらとしても無下にできなくなる。
「……じゃあ、ちょっとだけ」
「そう来なくっちゃ!」
跳ねるように椅子から立ち上がる長篠は、打って変わって、どこにでもいる中学生男子の顔をしていた。
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