春日山石仏窟の人影

 春日大社の神山、春日山には春日原始林があります。

 奈良市の世界遺産群のひとつでもあり、1000年の間、伐採を禁じられたため常緑広葉樹木が鬱蒼と生い茂った山で珍しい動植物が生息している原生林です。

 この春日原始林にはハイキングコースもあり、春日大社の端から入山することができます。

 全長10kmほどですが、入ってからしばらくはそれなりに整った道があり、名所・遺物などもあるので、比較的手軽に自然と歴史を感じることができるスポットではないでしょうか。

 とはいえ、途中からは足元が険しくなったり、枯葉や石で滑りやすくなったりするので、靴や衣服はしっかり運動、保護できるものにしましょう。

 

 という蘊蓄と共に、私を春日山原始林のハイキングに誘ってきたのは母だった。

 数年前のことだった、と思う。

 母は知り合いに

「あそこは空気が清々しいし、石仏があちこちにあってパワースポット巡りができるよ」

 そう聞かされ、すぐに行きたくなったらしい。

 春日大社には毎年初詣や藤を見に行っているけれど、その他は小学生の遠足で朝日観音、夕日観音を見たくらいだな、と思って、運動がてら出かけることにした。

 用意された周遊コースもあったが、母が鶯の滝ではなく、地獄谷に行きたいというので、ドライブウェイには行かず折り返して、帰りに数十年ぶりの朝日観音、夕日観音を見る旧柳生街道、というルートを行くことになった。

 春日山原始林は紅葉も見事ということで、紅葉の時期には周遊コース行ってみようかと和やかに話ながら首切り地蔵に着いたあたりで、母が「どっちやったかなぁ」と呟いた。

「どっちって何が?」

「知り合いが教えてくれた石窟仏、地獄谷と春日のどっちやったかが分からんなった」

 春日山、地獄谷には大仏殿建立のために石を切り出した石切場があり、そこに石仏が掘られているのだという。

 母に春日原始林を教えてくれた知り合いが、その石窟仏を見に行って写真を撮った際に、オーブが映ったということで、あそこは素晴らしいパワースポットだ!となったらしい。

 その写真をみていないので、映ったのがオーブなのか埃なのかは分からないが、とりあえず、石窟仏は気になるので両方行こう、ということになり、まず向かったのは春日石窟仏だった。

 道を上がったところに見えた石窟はコンクリートを土台にした金網に囲まれていた。

 平安時代に彫られた石仏を守るためなのだろう。

 少し穴が空いていたが金網自体は丈夫そうで小動物しか入り込める隙間はない。

 人より鹿除けかもしれないと話しながら、岩壁に彫られた石仏を眺め、金網の間から写真が取れないかとスマートフォンのカメラを押し当てたりしていると、横合いから初老の男性が一人、首を傾げつつ歩いてきた。

「ほら、お父さん、見間違いだって。もう行きましょう?」

 男性の後ろに同年代くらいの女性も居たようで、男性を促す言葉をかけている。

「いや、でも本当にそこに寝てたんやで」

「でも誰もおらんかったやないですか」

「せやけど、倒れてたんやったら大ごとやろ」

「だけどこの中に入れるとこなん、なかったやないですか。見間違いやって」

 写真を取りながら聞くともなしに聞いていると、どうやら断線がこのふぁんすの向こう、石窟仏の前に寝そべっている男を見たらしい。

 どこから入り込んだのか不届な、と声をかけたが男は振り向きもしない。

 どこから入り込んだのか、と金網を確認している1、2分の間に男の姿は消えていたようだ。

 奥の方に入り込んだのかと、なんとか洞窟の奥を照らしてみたり、入れる場所はないかと調べていたらしい。

 結局、その寝ていた男は見つけられず、男性は渋々、女性と共に降りていった。

 私と母は無言でしばらく東窟の地蔵菩薩や観音菩薩、西窟の阿弥陀如来を撮影して、そっと手を合わせてお参りをすると春日石窟仏を後にした。

「……仏像彫ってた人が休憩してたんかなぁ」

「1000年以上の休憩は休み過ぎちゃう?」

 母のもらした言葉に軽口を返して、その日、その話は終わった。


 後日確認した写真にはオーブも人影も映っておらず、あの男性より先に到達していたら、人影の写真が撮れたかもしれないと母は悔しがっていたが、母はほぼ零感なので、その可能性は極めて低かったろうと思う。



■奈良市 春日石窟仏

 

 

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