一揆の晒台
私の通っていた小学校のすぐ近くに神社がありました。
奈良の小学校だと近くに神社や寺や古墳があるのはよくあることではありますが、神社で何か催し事があった時には学校が半休校状態になることもあるくらいの密着型。
昔の話ではありますが秋のお祭りの時は臨時休校となり、ほぼ全校生徒が各自治体で用意されたお神輿を神社まで担いでいました。
そんな神社は小学校から道一本挟んで向かい側。
鳥居を潜ってすぐ横の境内が広場のようになっており、小学校の授業を行ったこともあります。
境内はそこそこ広く、鎮守の杜だったのでしょうか、鬱蒼と茂った木々がぐるりと周囲を取り囲んでいました。
どんな内容の授業だったのかははっきりと覚えていませんが、確か低学年の頃で落ち葉を探して拾っていた記憶があります。
理科の授業か、落ち葉アートで図画工作の授業か、おそらくその辺りだったのでしょう。
私は当時引っ込み思案のひとりぼっちで……いえ、そういうと大人しく内気なように思えるので言葉を変えましょう。
のんびりマイペースであまり協調性がなかったので、誰かと一緒に行動しながら話をすることがわずらわしく、黙々と一人で落ち葉集めの作業を行っていました。
そこそこの広さとはいえ、当時はまだ子供がそれなりに多い時代でしたので境内のめぼしい綺麗な落ち葉はあっという間に拾われ、私はあまり皆の行きたがらない奥の方へ移動していました。
すると、木陰の一角に平たい、大人が二人ほど座れそうな黒々とした石がありました。
苔や汚れの付いた石には一人のおじいさんが腰掛けていました。
今思い返すと中年ほどであったようなに思うのですが、作務衣のような服装だったのでおじいさんだと判断したのでしょう。
そのおじいさんは私に気づくと、和やかに小学校の生徒かと尋ね、軽く挨拶がわりの雑談を二言、三言交わした後、自分の腰掛けている石を指差しました。
「これな、昔、一揆があった時に訴えた農民の首を晒した台なんやで」
そう唐突に教えられて、当時の私がどんなリアクションをしたのかは残念ながら覚えていません。
その時の私は低学年。
一揆と言われても分からず、ただ首を晒した、という言葉は大河ドラマや時代劇といったテレビのおかげでうっすら理解していました。
そのため、怖いことがあった石なんだ、そんなとこに座ってていいの?と一種のパニック状態になり、走ってそこから逃げた……のだと思います。
気づけば、クラスメイトと一緒の場所に集合しており、きょろきょろ見渡しても、さっきの石もおじいさんも見えず、そのまま学校に帰りました。
数年後、学校の授業で一向一揆について習った時に思い出して、地元の歴史で事実確認をしてみたのですが、天明の飢饉の際に起こった一揆では訴え出た者が罰を受けたけれど、晒首などはなかった、という資料しか見つけられず、やっぱりあれは嘘だったのか、と思ったことを覚えています。
高学年頃に怖いものみたさで神社の境内であの時見た石を探してみたのですが、方向音痴が祟って見つけられず仕舞いでした。
ただ、後年になって別の調べ物をしていて、小学校があった地域は古い奈良時代あたりは和珥氏の支配下であったような古い土地柄であり、奈良、平安、室町、戦国の時代にも戦果に晒されたり、飢饉で苦しんだような事柄もあったようです。
その中で農民がお上に当たる方達に何かを訴え出たことも、当然あったろうと考えたりします。その結果、責任を負った方々もいただろう、と。
あの神社は前方後円墳の上に建つとても由緒ある神社でもあり、古すぎる記録探すのは素人ではなかなか難しく、詳しい歴史が伝わっているかどうかも不明ですが。
あのおじいさんはただ子供を揶揄いたかっただけなのか、それとも歴史に埋もれた何かが、忘れないで欲しいと訴えかけにきたのか。
ただ、十数年ぶりに神社の前を車で通りがかった時、境内を囲っていた木々が綺麗さっぱり伐採されていたのを見て、とりあえずもうあの場所にはあの石が出てくることはないのだろうな、と感じました。
■天理市 和爾下神社
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