無駄
「……アッシュ、涙を」
身動き一つしない、ミス・シラーの姿をした名も知らぬ少女を見下ろしながら、スカー様が彼に命じる。懐に仕舞っているわけではないようで、アッシュさんは慌てた様子でテントに向かった。
「……スカー様」
答えてくださいと、静かに訊ねても、彼と視線が合うことはなく、返事が来ることもない。
仕事を終えた白熊が去っていき、アッシュさんが戻るまで、ずっと、ずっと、そんな状態。
「ごめんごめん、じゃあ……はい、旦那様」
アッシュさんから小瓶を手渡されてすぐ、スカー様は中身を呷り、黄金色の瞳を赤く染め上げる。そのまま視線を少女に戻し、口を小さく動かした。
何かを呟けば呟くほどに、少女の傷は塞がり、身体や衣服は綺麗になり──姿が変わる。
栗色の、傷んだ髪をした少女。
彼女は僅かに咳き込んで、瞬きをし、身体を起こす。状況をすぐに把握するのは難しいこと、ぼんやりと私達を眺めた後で──悲鳴を上げた。
「だっ……えぇ?」
「取り敢えずお水飲んで」
どこからかグラスを取り出して、それを少女に渡すアッシュさん。困惑した様子で彼とグラスを見比べた後で、恐る恐るという感じで彼女は受け取る。
「美味しいよ」
見て聴いて安心するアッシュさんの笑みと声。少女はグラスを少しの間見つめた後、一息にそれを呷った。
「……っ」
「ね?」
おかわりもあるよの声には首を振り、吐息を溢して、ゆっくりと私達の顔に視線を向けていく。その目にはほんのり、怯えが混じっていた。
「き、今日は優しいのね、アシュリー」
「僕はアッシュ。アシュリーの双子の兄だよ」
「……何を言っているの?」
「アシュリーが迷惑を掛けたみたいでごめんね。君も、何か言われていないかな?」
「貴女が、アシュリーでしょ?」
少女は納得がいかないみたいで、食い下がる様子に、頬に手をあてうーんと彼は唸り、
「脱げばいいかな?」
なんて口にした。
「お、お嬢さん! この方はミス・シラー……アシュリーさんではないです!」
それが一番手っ取り早くても、駄目、駄目よ駄目駄目! 婿入り前にそんな!
目線を合わせるべく、地面に膝をつき訊ねてみる。
「貴女も何か言われていませんか、その、兄さんとお兄様の様子を見てきてほしい、とか」
「……綺麗」
あ、え? ……あわわわわわ!
「そんな、綺麗だなんて!」
「可愛い系だよね?」
「……どちらかといえばな」
ちょっと!
「あの」
少女が口を開き、二人に色々突っ込みたいのを必死に堪える。
「そうは、言われてないです。私はただ……死にかけていた所、食事を恵んでいただいて、そのお礼として、アシュリーの振りをして逃げてほしいって。魔法使いって本当にいるんですね。私なんかがあんな可愛い娘さんになれるなんて、すごい」
逃げる。
「何から、逃げろと」
スカー様が話し掛けると、少女の肩が跳ねた。あ、スカーフェイス。
目を右に左に動かして、震える声で彼女は言葉を紡ぐ。
「確か、その……アシュリーを、追う人から。すごい魔法使いだから、狙われやすいんですよね」
「……」
すごくは、あるんだっけ。
まぁ、本人と寸分変わらない影武者を用意できるくらいだから、すごいか。私も血の匂いを嗅がなければ分からなかった。
「うっかり捕まったら……そうだ、捕まったら、こう言えって、私言われていました!」
「何て」
「無駄よって」
後ろから、二人分の息を飲む声が耳に届く。
「私みたいな協力者はたくさんいるから、アシュリー本人を見つけることはできない、大人しく受け入れろって」
「……そう、ですか」
たくさん。
たくさんって、どれだけいるのか。
この一月、アッシュさんがお知り合いの動物に頼んで、ようやく彼女を見つけられたのに、本人じゃなかった。双子の兄妹なんだ、攻略方法も分かるのかもしれない。
……無駄、無駄か。
「それだけなんですけど、あの、私、どうなるんですか?」
私達の顔を見つめながら、不安そうに訊ねる彼女。
「帰る場所はあるの?」
「……ないです」
目を伏せる姿は、涙を堪えているかのよう。
「……そっか。ねぇ、旦那様。書店巡りしていた時にどこか求人出していた所ない?」
「あったな」
そう言って四軒ほどお店の名前を口にすると、よしっ、なんて声と共に、アッシュさんが私の横に膝をついて、彼女に手を差し出す。
「一時的な旅の資金集めでも、そのまま住み着いてくれてもいいから、取り敢えず近くの街で働こうか」
「……え」
戸惑う少女の両手を取って、二人は立ち上がる。
「ついでに何か買ってくるよ、旦那様と奥様はお仕事しながら待っていて。休憩は忘れないこと!」
それだけ言うと、さささ、なんて声と共に少女を連れていってしまった。
残された私と、スカー様。
「……」
「……」
仕事と聞けば嬉しそうにする方なのに、今はただただ、静かだ。
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