来訪
◆◆◆
「隣の大陸、それも田舎の森の中にアシュリーはいたらしい。魔法使いって森好きだよね」
場を和ませようとしてくれているのか、アッシュさんは朗らかにそんなことを言っているけれど、私もスカー様も、何も反応しない。
できるはずがない。
自身の右手と左手を絡め合わせ、強く、強く力を込めていく。
ミス・シラーが来たら、私とスカー様の婚姻解除方法を問い詰める。何も話してくれなければ、魔法を使って自白させると。そこまでしなくても、なんて言いたいけれど、どの口で言えばいいのか。
「僕らもさ、最初は街で部屋を借りようかと思っていたんだけど、たまたま向かう途中で雨が降って野宿することになってさ、小屋を出すよう坊っちゃんに、いや旦那様にお願いしたら、何故かテントを出しちゃったの」
「……野営をしてみたかったから、つい」
「雨露を凌げればそれでいいと思って一晩過ごしたら、思いの外良かったんだよねこれが。本家にいた時はなんていうか……毎日気が張っていたみたいで、毎日寝足りなかったんだけど、もう初めてなんじゃないかってくらいぐっすり眠れて!」
「……だな」
だから未だにテント生活なのかこの二人。
「本家にいた頃から翻訳の仕事は少しやっていたから、小屋を造ってからは書店や印刷所に営業掛けて、仕事を回してもらって。マンデイ君と知り合ってからは涙を分けてもらえるよう話をつけて、やっと、旦那様は安心して魔法を使えるように」
「話し過ぎだアッシュ」
「……確かにそうだったかも。ごめん。……マチルダ、エイミーはそろそろ来る? ……間もなくだって」
マチルダと、アッシュさんが口にしてすぐ烏が寄ってきて、小さく一鳴きした後、どこかへ飛び去った。
間もなく。……間もなく、終わる。
「君、力を入れすぎじゃないか」
私の様子が目に入ったのか、スカー様が声を掛けてくれた。え、ああ、なんて意味もなく声をもらして、自分の手を見下ろす。指の解き方が分からない。指が動かない。……その必要があるのか。
今は、こうしていたい。こうしていた方が落ち着く。
涙も溢れない。
「君。……いや、違うな。そうじゃなかったな」
申し訳なさそうなその声が、何を言いたいのかは分かる。急いで視線を彼に向け、口止めをしようとした。
今、それを言われては!
「手を解いてくれ、雪か」
「来た!」
重い足音が、地面から伝わってくる。
混乱する頭を探り思い出す。確か、エイミーさんという方が、ミス・シラーを連れてきてくれるとのことだった。どんな
「……」
頭が見えた。
「……っ」
胴体が見えた。
「久し振り、エイミー」
全体が見え、何かを背負っているのが分かる。
その真っ白な毛並みは赤き血で汚れ、体躯は今まで見てきたどの動物よりも大きい。可愛らしい耳からして、熊。……いや、白熊か。
真っ直ぐにアッシュさんの元へ来て、地面にそれまで背負っていたものを下ろす。
「……ぁ」
血に汚れたミス・シラー。
灰色の髪も黒い服も、何もかもが真っ赤に汚れている。切り傷でもあるのか、新鮮な血の香りが鼻を擽る。
一月振りに見たその姿は、血塗れであること以外は記憶と寸分違いはない。……なのに、何だろう。
「アッシュ、雪被りを遠ざけろ!」
スカー様の怒声も、アッシュさんの焦りも、聴こえているのに、身体が動かない。
「奥様こっちに! この状態のアシュリーは駄目だ! 早く!」
「あの」
私の身体は押されているけれど、足が縫われたみたいに動き出さない。この目は、ミス・シラーに釘付けだ。
「雪被り! 後で俺の血をいくらでも飲んでくれて構わないから、堪えてくれ! 今吸ったら、アシュリーが死んでしまう!」
「……あの」
このタイミングで、その名前を呼ばれたくはなかった。
「その方、ミス・シラーではないと思います」
口にすると、身体の力が抜けて、膝から崩れ落ちていた。
じっと、ミス・シラーを見つめ、届く匂いに鼻を動かす。……違う。これはミス・シラーの血の匂いじゃない。
彼女は、花のように甘ったるい香りをしていた。尋問の後に散々味わったからよく覚えている。こんな、雨上がりの湿った土の匂いじゃなかった。
どう見てもミス・シラーなのに、ミス・シラーじゃない。それだけでも意味が分からないのに、それを上回る困惑が私を襲っていた。
「……変なんです」
指を無理に解き、両手で喉元を擦る。
「血が、目の前で流れているのに、何ででしょう、私」
全然、喉が渇かない。
「お二人は、知っていますか、この理由」
飲んだばかりでも、目の前に流れる血があればすぐに渇いてしまうのに、今はそれがない。
こんなことは、今までなかったのに。
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