名乗り
◆◆◆
いつも通りにテントの中で目を覚まし、いつも通りにアッシュさんからカップを頂く。変わりなく美味しい血の味は、普段と違い満足感がなかった。
ぼんやりと虚空を見つめる私に、アッシュさんは「奥様」と、心配そうに、そう心配そうに声を掛ける。
スカー様にも、昨日は心配させてしまった。厄介になっているのに、これ以上面倒を掛けるわけにもいかない。口角を上げて笑みを作り、寝惚けていましたと返事をした。
「スカー様は今日は」
「作業場で仕事をしているよ」
そうですか、と言いながら、カップの残りを口に付ける。溜め息が出そうになるのをぐっと堪え、一緒に持参してくれているはずの濡れタオルをもらおうと、彼に視線を向けて気づく。
今日の荷物は多いらしい。
「アッシュさん、横に置いてある物は」
訊くと、彼は柔らかな笑みを浮かべ、それを渡してきた。
「君の翻訳した物語、本になったよ」
そういえば昨日、印刷所に行くと言っていた。
じっと見つめた後、手に取ってみる。薄くて、軽い、簡単に綴じられたそれ。タイトルや作者の名前と共に、短くこう記されている。
──訳・アルフェラッツの雪被り。
「これ」
「アルフェラッツ家の者は本名ではなく、二つ名を名乗る決まりがあるんだけど、旦那様とどうするかって話をしようとしたら、これがいいんじゃないかって」
雪被り。
アルフェラッツの雪被り。
私の、髪の色から取ったのか。白髪のシェフィールドじゃなくて、銀髪のホバートだけど、見ようによっては、雪が被っているようにも見えるのか。そうか。
……二つ名なんて、付けられたこともない。
黙る私に、嫌だった? なんて訊いてくるものだから、大袈裟なくらいに首を振った。
「素敵なものを、その、あり、ありが……」
あぁ、言葉が上手く出ない。
──ブランカ・ホバート。
生まれた時にそう名付けられながら、可能な限り名乗ってはいけないと強く言われてきた名前。
だけどこの二つ名は、名乗ることを許されている。私が誰であるのかを、気にせずに名乗ってもいいんだ。
俯く私にアッシュさんは、何も言わずに濡れタオルを差し出してくる。本を一旦置いて受け取り、顔を拭っていると、彼は静かにテントから出ていった。床に散らばるものを回収してくれても良かったのに。
落ち着くまで、動かなかった。
落ち着いたら、本を手に取った。
ゆっくりゆっくり頁を手繰り、目で文字を追う。物語は素晴らしい。何度も見てきたけれど、感動は褪せない。ただ、集中することはできそうにない。
ここの訳し方、何度も質問したな。間違えたな。ここは褒めてもらった。こんな言葉があるんだ、なんて言われもしたっけ。
「……っ」
物語自体は、私のものではないけれど。
──私が、訳した物語だ。
そう思うと、昨日の記憶が薄れていき、胸がじんわりと温かくなっていく。
頑張ろう。
いつか解除方法が分かって、スカー様との夫婦関係が終わってしまうかもしれないけれど、それでも、アルフェラッツの雪被りが何をしたのかは残っていくんだ。
本を胸に抱え、テントを出る。向かうは作業場、スカー様の元に!
「スカー様!」
「君……」
アッシュさんは別のことをしているのか、そこにはいなかった。丸まった背中は私の声ですっと伸び、振り返りながら私を呼ぶ。
「嫌です!」
思わず、そう言っていた。
スカー様の切れ長の瞳が、僅かに開かれる。
目の前まで近寄っていき、握るペンごと彼の右手を取った。
「私の名前を呼んでください!」
実は少し、気になっていた。
スカー様は私を呼ぶ時、いつも『君』としか言わない。呼ばれ慣れてなく恥ずかしいからそれでも良かったけれど、私ばかり『スカー様』と呼ぶのは、どことなく不公平なんじゃないか、なんて、少し……。
せっかく素敵な名前を頂けたのだ、それを呼んでほしい。
「スカー様!」
「……えっと、だな」
スカーフェイスは戸惑いを隠さない。
右に、左に目を動かし──苦笑いを浮かべた。
「君は時折、驚くくらい積極的になるな」
「駄目ですか?」
駄目じゃない、そんな返事のすぐ後で、
「……雪か」
「大変だよ!」
アッシュさんが入ってきた。
慌てて振り返った拍子に、掴んでいた手が離れる。常なら、ここでアッシュさんに何か恥ずかしくなるようなことを言われていたと思うけれど、そんな状態にはないようだった。
珍しく、焦ったような顔をして、荒い息を吐いている。
「み、み、」
「落ち着いてください、アッシュさん」
息を整えた方がいいと思って、そう言ったはず。……いや違う。私は、その先を聞きたくないだけ。
いつも落ち着いて、こちらを安心させてくれるアッシュさんが取り乱しているんだ。そうなるような原因は、きっと。
「──見つかった」
きっと、この日々の終わりだ。
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