楽しかったこと

◆◆◆


 翻訳する書籍を置き、真っ白な紙と辞書を用意する。準備ができたらペンを持ち、時間の許す限り翻訳をしていく。

 夜に響く鳥の声、虫の声、ペンの走る音に、呼吸音。

 私の隣でスカー様も仕事中。スカーフェイスは何の感情も浮かべていない。

「……君?」

 けれど、私の視線を感じ、僅かに眉を上げて目を向けてくれた。何も望んではいなかったから、首を横に降る。そして翻訳の続き。

 ──■■■■■■■■■■■■■■■■■■

 ──からして◆◆◆年、◆◆国は静かに滅んでいった。

 昨日の続き。とある国から渡ってきた歴史小説らしい。両手で持つのも大変なほどに分厚いそれは、読み応えも翻訳のやりがいもその厚さに見合っていた。

──■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

 ──多数の民は流浪の者となり、各国へ各々赴く。◆◆もその一人であった。

 余計なことは考えない。余計なことは考えない。余計な、ことは……。


「君」


 ペンが止まる。

「……」

 何でしょうか、なんて、意に反して震える声に僅かに苛立ちながら、視線を彼に向ければ──スカーフェイスは心配そうな目をこちらに向けている。

 どうして、そんな目を。

 思い当たることは何もないけれど、私の何かが気に障ったのかもしれない。謝罪の言葉を口にしようとした所で、頼みがあると彼が遮った。

「翻訳しているノノラムの国の言語なんだが、久し振りなせいか少し不安がある。内容は何でもいいから、この言語で何か話してくれないか」

「え」

「あまり得意ではなかったか」

「そんな、ことは……」

 いきなりそんなことを言われても、何を話せば良いものか。ペンを持っていない手を頬にあて、考える。

 話、話。

「楽しかったこととか、何でもいいから」

「……」

 楽しかったこと、か。

 そんな気分に、今はなれないけれど、求められているし。

『……アッシュさんのお客さんに、猫ちゃんがいました。可愛らしい』

「待ってくれ、復唱する。……アッシュの客に……猫ちゃん、がいたのか」

「んっ」

 うっかり変な声が出て、頬にあてていた手を口元に持っていく。

 猫ちゃん。

 スカー様の口から出てくるには言葉が可愛い。

 不思議そうなスカーフェイスに、何でもないですと、さっきとは違う意味で震えてしまう声で返事をした。

「なら、続きを」

 続き。

 また、スカー様の口から、可愛らしい言葉が溢れるのか。少し、考えてから口に出さないと。

『……ま、真っ黒な成猫は、アッシュさんの、いえ、アッシュの腹に一目散に突っ込んで、彼は苦しそうにしながらも、黒猫の小さな頭を優しく撫でてやっていた。ぷにーと鳴く、いえ、鳴き声を上げる様は、とても嬉しそうだった』

「少し固いな……。えっと、黒毛の成猫がアッシュの腹に激突し、あいつは苦しそうにしながら黒猫の小さな頭を撫で、黒猫は嬉しそうにぷにーと鳴いたと。……黒猫の鳴き方としてそれは合っているのか?」

『分からないです』

 そう答えながら、今まで見てきた黒猫全て、ぷにーと鳴いていた気がする。

「君としては、それが楽しかったのか」

『アッシュさんに通訳してもらいながら、一緒に遊ばせてもらいまして、その、とても……楽しかったです』

「本当に、楽しかったんだな」

 静かに紡がれたその声に、心配の色はない。あるのは……安堵?

 ──何でこの人は、私にそんな感情を向けてくれるのだろう。

「スカー様」

 名前を呼んだ。でも、その後が続かない。私は何を言いたかったのか、何を訊きたかったのか。彼は続きを待ってくれている。

『まだ、続けますか?』

 出てきたのは、そんな問い。スカー様は少し考えて、いや、翻訳の続きをしようと言って、机に向き直った。

「……はい」

 無理に話を考えずに済んでほっとしたし、何となく、物足りなさもあるような。

 いやいや。

 余計なことは考えない。言われた通りに翻訳の続きをしないと。


 私にできることは、それくらいなんだから。

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