第二章

カップ一杯の潤い

「ごめん、なさい……ミス、ター」

「スカーでいい、ほら」


◆◆◆


 温かなお野菜のスープを頂いた。

 コクがあって、野菜がくたくたで、作り手の優しさがたっぷり詰まった素敵なスープ。あまりにも美味しくて、恥ずかしながら三杯もおかわりしてしまった。

 ──覚えている。

 空腹感が満たされた所で、ではさっそく翻訳の仕事を! と図々しくも彼に迫り、彼だけでなくアッシュさんにも苦笑されてしまった。

 ──そこも覚えている。

 とっても美味しいスープを、彼は一杯だけで済ませて仕事場に案内してくれた。申し訳なさもあったけれど、物語に触れられることが楽しみで楽しみで仕方なかった。

 ──その後が覚えていない。

 そこで、何かあった、気がする。

 何かがあって、それで、私は……。


 目が覚めた時、私はクリーム色の天井と目が合った。


 平らではなく角張かどばっていて、触れたら柔らかそうな布でできているけれど、立たないと手は届きそうにない。布の色合いからして、昨日、多分昨日見たテントの中にいるのか。

 入った覚えはないのに。

 背に当たる床も柔らかく、お腹にはブランケットが掛けられており、その温もりにもう一眠りしようか少し迷ってしまう。

 音が、心地好い。

 いつの間にか雨が降りだしていたようで、しかもそれなりの降水量、人によっては不安を覚えそうな音量だけれど、これくらいうるさい方が私には眠れそう。

 眠りに身を任せるか、いや翻訳の仕方を教わりたい、いやでも眠い。

 目覚めても重いままの瞼の訴えを、そろそろ受け入れようかと気持ちが傾いた所で、人の声が耳に入る。

「お目覚めですか、

 すぐに上半身を起こしたし、瞼の重みも消えた。

「お、おおおおおお奥様って」

「君のことだよ奥様」

 傍に控えていたらしいアッシュさんがしれっと言う。

 彼の言葉に、顔が急速に熱くなっていくのを感じた。

「私、吸血鬼ですし、奥様なんて」

「僕の主と婚姻をしたんだから、何者であろうと、どんな事情があろうと、君が奥様だよ。坊っちゃんのこともこれからは旦那様と呼ばなきゃだね。なんか淋しくなるなぁ」

 そう言うわりに、嬉しそうな笑顔だ。

 ──奥様、旦那様。

 私とは縁遠い言葉だと思っていたのに、自分がそうなって、そんな人間ができるだなんて、まるで想像もしていなかった。

 アッシュさんがそうするように、私も、彼を旦那様と呼ぶべきか、恥ずかしいけれど、名前で呼ぶべきか。……呼べる? ク、クロ……様? さん? どっちがいいのか。

 軽くパニックに陥っている私に、はいと、アッシュさんが何か差し出してきた。

「え?」

「旦那様から、起きたら飲むようにと」

 小さなお盆に、白いカップ。

 中には並々と──真っ赤な液体が入っていた。

「……っ!」

 香りからして、血。

「出掛ける前に用意したの、喉が渇くといけないからって」

 出掛ける前?

「どこかへ行かれていたのですか?」

「旦那様がね。まだ帰ってきてないよ」

 ほらほらと急かされ、そっとカップを受け取る。

 いつ出ていったのかは知らないけれど、波打つそれは新鮮そのもの。

「魔法で固まらないようにしたみたい」

「……あの、これ」

 旦那様が用意した、血。──どうやって用意したものなのか。

「うち、人間と馬しかいないんだけど、さすがに馬の血をあげるわけにはいかないからって、旦那様が手早くスパッと」

「ごっ」

「旦那様が進んでしたことだし、夫婦なんだし遠慮なし! 好みじゃなかったらごめんだけど」

「好みです。……あ、えっと」

「なら良し! 飲んじゃって!」

「うっ……はい」

 ずっと見ていると渇きが気になってきたから、お言葉に甘え、口にまで運び、一息に流し込む。

 ──旦那様の、血。

 お若いからか、さっぱりとしていて飲みやすい。……止まらない、もっと欲しい、と思った時には、全て飲み干していた。

「……あぁ」

「足りない?」

 物欲しげな顔をしてしまっていたのか、さっと腕を差し出されたから押し返す。

 あれ?

 最後に飲んだの、ミス・アシュリーと別れる直前だったから、もう我慢できないくらい渇いているはずなのに、カップ一杯で満足している。

 何でだろう。

「ご飯はどうする? 昨日と同じで申し訳ないけど、野菜スープあるよ?」

 やっぱり一日経っていたらしい。不眠不休でここまで来たから、実は三日も寝てました、だったらどうしようかと。

「頂きます」

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