記憶の断片 【双壁】


 アルティノス海洋地帯の中心に位置する島、ヴァイス島。


 観光地となっている現在とは異なり、当時は町と呼べるような町も無く、広大な自然と、ハーリッドという名の一つの漁村だけがある島だった。


 これは、そんな島に産まれたとある兄弟の記憶。





 ネルとヘル。


 神暦4120年。双子の兄弟として、漁村ハーリッドにて生を受ける。


 母親は産後間もなく流行り病に感染し、他界。

 その後、父親一人で育児に奮闘していたものの、『漁獲祭』にて沖に出ている最中、仲間を助ける為に海の魔物に立ち向かい、そのまま帰らぬ人となってしまう。


 幼くして両親を失った彼らは、漁村ハーリッドの村長である、アルゼン・セレンティシアによって引き取られ、幼少期を過ごした。

 幸い彼らと同時期にセレンティシア家に産まれたティーゼ・セレンティシアの存在もあり、彼らが成長していけるだけの環境は整っていた。

 引き取られてからも義理の両親との仲も悪く無く、健やかに成長していった。


 セレンティシア家での幼少期も終わり、ある程度自立出来るようになった頃。

 彼らがとある異能を持っていると判明した際に、村の外れにある離れ小屋へと移り住む事となる。


 『祝福』。


 それは、事象の改変すら可能な特異な力。

 本人達が『祝福』を持っていると自覚して試した結果、ネルには『あらゆる物を穿つ力』。ヘルには『あらゆる物を通さぬ力』を持っている事が判明した。


 一般人でも習得可能な魔法とは異なり、『祝福』は産まれながらの異能──常人には到底扱う事の出来ない程の出力を誇る力だ。

 魔法が『周囲の環境等を用いて現象を再現する力』であるとするならば、祝福は『本人のみで行使できる、あらゆる自然法則を無視し、現象を力』。

 それほどまでに、両者には隔絶とした差が存在していた。


 それ故に、世間一般では『祝福』はその冠された名に反して恐怖の象徴となり、『祝福』を持つ人間には例外なく【異端者】という蔑称が付けられていた。

 俗世とは離れて生活しているハーリッドの住人達が彼らを【異端者】と呼ぶことは無かったが……それでも、彼らの力の異常性には恐怖を抱くのは当然の事だった。


 しかし、かつて彼らの両親に世話になった村の人間達は、忘れ形見である彼らを無碍にする事は出来なかった。

 だからこそ【異端者】である彼らを村から追い出す事はせず、村長であるアルゼンからの折衷案という形で離れ小屋に住まわせる形となったのだ。

 そして、自分達の力の異常性を理解していた兄弟は、その提案を受け入れ、自分達の意思で離れ小屋へと移り住む事にした。

 村の住人達も初めこそ怯えてはいたものの、素直に従った彼らを尊重し、せめてその力が悪用されないようにと、温かく接し続けた。

 その結果、彼らは年頃の子供らしいやんちゃさが残りつつも、心優しい人間に育った。





 それから時は流れ、神暦4134年。ネル、ヘル共に14歳の頃。

 彼らは、運命と出会う。





 アルティノス海洋地帯、ハーリッド沖合。

 漁村ハーリッドの恒例行事である『漁獲祭』にて、【異端者】としての力を認められ、大人に混じって沖へと出ていた彼らは、そこで出会う筈の無い人間と遭遇した。


「──ここは、どこだ」


 白髪赤目の男だった。


 まず最初に目に入ったのは、その身体に刻まれた生々しい傷の数々。その男は黒く輝く首輪を身に着け、自身から流れ出る血で赤く染まっている、ボロボロの患者衣のような服に身を包んでいた。

 周囲には陸地は一切無く、船に乗り込む事は不可能な場所。だというのにも関わらず、その男は突然空から降ってきたのだ。

 突然現れた白髪の男に警戒しつつも、船員の一人が前に出てその問いに答える。

 

「ハーリッド沖合、アルティノス海洋地帯だ。陸まで数十キロはあるぞ……一体どこから現れやがった?」


「──どこから、か」


 生気の薄い顔を一切変える事無く、男は自分の身体を一瞥した後、視線を虚空へと彷徨わせる。


「──生憎、記憶の殆どが失われていてな。だが、微かに残る記憶から察するに……私は何かから逃げてきて、ここに居るのだろうな」


「逃げるだぁ……? さっきも言ったように、ここの周囲には海しかねぇよ。まさか空飛ぶ船から落ちた訳でもあるまいし……流石に怪しすぎるぜ、あんた」


 船乗りの男達のリーダー……リックがそう言うと、鋭利な銛の切っ先を白髪の男に突きつける。

 白髪の男がリックを見ると、薄く口を開く。


「別に私とここでやり合おうとも構わないが……その場合、そこに居る二人は死ぬ事になるぞ」


「ッ!?」


 白髪の男の視線の先を見ると、そこにはネルとヘルが見えない力によって甲板へと押し付けられていた。

 見えない力──上方向からの重力によって指の一つすら動かす事も出来ず、兄弟の表情は苦悶に染まり、掠れた声を漏らしていた。


「お前もネル達のような力を持っているのか!? 記憶が無いって話は嘘なのかよ!?」


「……記憶が無くなっているのは本当だ。だが、記憶を失っても力の扱い方までは忘れていないだけだ。……彼らの命が惜しければ、動くな」


 その言葉を聞いて、ぐ、と声を詰まらせる。

 あれだけ傷だらけなのだ、大人数人で一斉に掛かれば白髪の男を抑え込む事が出来るのは分かっている。

 だが、ネル達のように『祝福』を持っているのであれば、そんな前提は簡単に覆る。

 それ程までに、『祝福』という力は圧倒的なのだ。


 それ以上何もする事が出来ず、膠着状態が続いている時だった。


『グルォォォオオオオオオオオオオオオオオオオ!!!!』


「うおおおおおおおおッ!?」


「リック!?」

 

 海面が爆ぜるようにして、全身が深紅に染め上げられた巨大な海蛇……『ブラッド・シーサーペント』が飛び出し、帆船を横断した。

 ブラッド・シーサーペントが大口を開き、そのままリックを丸呑みにする。

 そのまま一度海中へと戻ると、海面付近を漂い始めた。


「畜生!! 今なら間に合う、すぐに助け出せ!!」


「あいつ先月子供ガキが産まれたばかりだぞ!! 奥さんと二人残して逝くにはまだ早すぎる!!」


 船員達が慌てふためきながら、ブラッド・シーサーペントに向かって銛を投擲し始める。

 だが、ブラッド・シーサーペントからすればその程度の攻撃は些事とばかりに、次の獲物へと品定めを始めるべく顔を覗かせた。

 白髪の男が慌てている船員達の様子を見て、首を傾げる。


「今呑まれた奴は、この船の長なのか?」


「ああそうだよクソッ!! 急に化け物みてえな奴が現れるし、リックは丸呑みにされちまうし散々だッ!!」


「……なら、交渉に必要だな。助けよう」


「……は?」


 白髪の男が徐に手を伸ばすと、どこからともなくザンッ!!っと切断音が鳴り響いた。

 次の瞬間、ブラッド・シーサーペントは何が起こったのか分からない様子のまま、首が滑り落ちていく。

 そして、食道を通ろうとしていたリックが切断面からズルリと零れ落ち、甲板へと叩き付けられた。


「ぐ……ぁ……!!」


「リック!!」


「……安心しろ、傷は負わせてない」


 船員達が苦し気に唸るリックの下へ駆け寄る。

 リックの身体は一時とはいえブラッド・シーサーペントの強酸性の粘液に触れていた事もあり、身体のそこかしこが焼け爛れていた。


「リック、おい! 意識はあるか!?」


「……ああ、最悪の気分だが……なんとかな……」


「すぐに救急箱を持ってこい! 出来るだけ高品質なポーションも!!」


 船員達が慌てて動き出す中、白髪の男は顎に手を添えると、口を開いた。


「待て、その必要は無い。……今、


「は!? おい待て、近寄るな……っ!?」


 白髪の男がリックの下に近寄ると、手をかざす。

 すると、リックの皮膚が修復されていき、みるみるうちに回復していった。

 白髪の男を引き剥がそうとする船員達を止めるように、リックが手を突き出す。


「……お前ら、落ち着け。……痛みが引いていく。……一体、何をしたんだ?」


「傷を癒す力を持っていた事を思い出したから使っただけだ。余計だったか?」


「いいや。……助かった。……感謝する」


 そうか、と短く呟いた白髪の男が自分の身体に触れると、刻まれていた傷が修復されていく。

 白髪の男は事も無げに行ったが、家が建つ程の金額がする高性能なポーションでもここまでの回復は有り得ない。

 船員達が茫然とその様子を眺めていると、ある事に気付き、はっと息を呑んだ。


 傷の方が先に目に行ってしまっていたので気付かなかったが、白髪の男は絶世の美少年とでも言うべき顔立ちをしていた。

 まるで、美を追求した生物として、神が手ずから作ったかのような……そんな表現が似合う程の男の美貌に、その場に居た全員が声を失う。

 その中でもいち早く気を取り戻したリックは、訝し気な瞳を白髪の男に向ける。


「……一体何が目的なんだ……?」


「強いて言うならば、記憶が戻るまで君達の住まう村に置いて欲しいぐらいなのだが……」


「はあ!? じゃあなんで襲い掛かってきたんだ!?」


「……? 先に手を出そうとしたのはそちらだろう? 言いがかりは止めて欲しいものだ」


 その言葉を聞いて、リックは顔を引き攣らせた。

 確かに、白髪の男は問いを投げかけてきただけで、特に何もしてこなかった。

 自分達が不審人物だと決めつけて、銛を突き付けたのだから、先に仕掛けようとしたのはリック側だ。だからこそ、言い返しようが無かった。

 諦めたようにため息を吐くと、リックは一つ頷く。


「……分かった。成り行きとはいえ、命を救われた身だ。あんたの提案を呑もう。……その代わり、陸に戻るまではモンスターが出現した時は船員達と一緒に対処してもらう、それで良いか?」


「ああ。それで構わない」


「おいリック、正気か!?」

 

 いくら敵意が無いと言えど、一瞬で怪物を真っ二つにする事が出来る人間を連れて行くのは危険だと言外に船員が指摘する。

 だが、リックは緩く首を横に振ると。


「俺達の中で一番強いネルとヘルを一瞬で制圧出来る人間を追い出せってか? それこそ正気じゃないと思うんだがな。……本当に、敵意は無いんだよな?」


「ああ。そう言う事なら世話になる」


 そう言うと、白髪の男は図々しくもその場にどかっと座り込んだ。

 そして、思い出したかのように、「ああ」と呟くと。


「解放し忘れていたな。……すまない。君達を縛る理由はもうなくなった」


 白髪の男が再び手を伸ばすと、ネルとヘルに掛けていた重力を解除する。

 重力から解放されたネルとヘルは、ぶはぁ、と苦し気に息を漏らした。

 

「ああ、ようやく解放された! ったく、俺達が自由だったらあんなモンスター、一撃で仕留められたのに……」


「まあまあ兄さん、リックおじさんも無事だったんだから良いじゃないか。……一応、あの人は警戒しておくべきだとは思うけど」


 ネルとヘルの警戒が込められた視線が白髪の男に注がれる。

 だが、白髪の男はそんな兄弟の視線に対して特に気にする様子もなく、感情の読めない表情でぼんやりと海を眺めていた。

 




『ああそうさ、君との出会いの印象は最悪だった。急に空から現れたと思えば、僕らを見えない力で束縛した挙句、恩を押し売りして村に連れてけなんて言うものだから』


『お前が現れるまで、俺達に敵う相手なんて居ないって心の中で思ってた。だが、それは違った。抵抗する事すら許されなかったのはあれが初めてだった』


『自惚れてた訳じゃ無い。けれど、世界は広いんだって、教えられた気分だった』


『あの時のお前との出会いは俺達の人生を良くも悪くも変えたんだ』





 漁獲祭も終わり、ハーリッドへと帰着した後。

 一通り漁師と獲ってきた魚を降ろし終わってから、リックと兄弟が船内でひそひそと話していた。


「は!? なんで俺達がこいつの面倒を見なきゃいけないんだ!?」


 ネルがそう言って突き出した指の先には、白髪の男が居た。

 リックは少し苦い顔をすると、申し訳なさそうに頭を掻くと。


「ただでさえこの村で肩身の狭いお前達に頼むのは悪いってのは分かってる。俺らでこいつを抑えられない以上、お前達に預けるのが適任というのもあるんだが……」


「だが?」


「それ以上に厄介な事になりかねなくてな。……こいつを村の娘達の前に連れてってみろ。……最悪の場合、こいつに付いていきかねんぞ」


「……ッ!!」


 ネルとヘルは、リックの言葉を聞いて息を呑んだ。名前も知らないこの白髪の男は、確かに絶世の美少年と呼べる程顔が整っている。

 ただでさえ小さな村なのだ。白髪の男が村にでも行こうものなら、間違いなく村の娘達はこの白髪の男の虜になりかねない。この男がハーリッドに滞在するのも、記憶が戻るまでと言っていた。

 もし村から出ていくとなった時に、白髪の男に着いていく人間が出てくるかもしれない。そうなれば、深刻な跡継ぎ問題が発生してくる……というのがリックの懸念だった。


「……そう言う事なら、分かった」


「良かった、だが、隠し通すには限度がある。なるべくの範囲で構わないからな」

 

 ネルとヘルはまだ結婚などを考えるような年齢では無いのだが、彼らには思い人が居るので、他人事では無かった。

 結果、リックの提案を渋々了承し、白髪の男を自分達の離れの家に住まわせる事に決まった。


 ネルとヘルの後ろを付いていっていた白髪の男は、ネルとヘルが村から離れて行っている事に気付いて首を傾げる。


「何故村とは反対方向に行くんだ?」


「……俺達は普通の人間とは違う力を持っているんだよ。それのせいで、俺達は離れの家に住む事になってるんだ」


「……普通の人間とは違う力……『祝福』の事か」


「なんだ、『祝福』については記憶を失ってないのか。まあ、それもそうか。船で初めて会った時に使ったお前の力……あれも『祝福』だろうしな」


「……」


「でも、二つも『祝福』を持っているなんて聞いた事が無いよ。……記憶を失う前は、さぞ生き辛かったんじゃないかな……」


 下船した後、会話を交えながら白髪の男をネルとヘルの住む離れの家へと連れて行く。

 村の住民達とすれ違う事無く帰宅し、ネルが自宅へと入ると、安堵のため息を吐いた。

 荷物を降ろして地面に座り込んだネルが、白髪の男に問いかける。


「所でお前、名前は? まさか名前まで忘れちまったとかないよな?」


「名前……? ああ、他者を区別するのに用いる物か。記憶を失う前、ひけん……なんとかと言われていたような覚えはあるが、恐らく君達が想像するような名前では無いだろうな」


「……?? つまり、お前って名前が無いのか?」


「恐らくな。……それ以外の私の名に関する記憶は思い当たらない。きっと、私には元々名が無かったのだろうな」


 白髪の男は淡々とそう言うが、ネルとヘルは神妙な顔で黙り込んだ。

 幼くして両親を失った彼らも、ハーリッドの住人達が居なければ自分達の名を知る事も無かったのかもしれない──そう考え、妙な親近感を覚えた。

 『祝福』の事と言い、ネルは白髪の男に興味を持ち、彼の事をもっと知るべく問いかける。


「なあ、突然空から現れたって事はこの島の外から来たんだろ? その時の記憶も無いのか?」


「生憎な。……だが、私は何かの役目があって動いていた……そんな気がする。そして、その役目を果たす為に、各地を回っていた……筈だ」


「随分抽象的だね……まあ、記憶を失ってるのならそれも仕方ないか」


 白髪の男のしどろもどろとした発言に、ヘルが思わず苦笑を浮かべる。

 ネルはそれを聞いて、腕を組む。


「でもこれからしばらくこの村に滞在するのなら名前が無いと呼び辛いしな……」


 うーんと唸るネル。

 それから少しして、「あ」と声を漏らす。


「──そうだ!」


 何かを閃いたネルは勢い良く立ち上がり、白髪の男に対してビシッと指を突き付ける。


「なら俺がお前に名前を付けてやるよ!」


 ふふん、と得意気に鼻を鳴らしたネルを見て、ヘルがまたしても苦笑する。


「兄さんに名前を付ける才能ネーミングセンスなんて無いだろうから不安でしかないんだけど……」


「なんだと!? なら、これを聞いてから判断してみろ!」


 一拍間を置いてから、自信満々な笑みを浮かべたネルが言い放つ。



「『』なんてどうだ!?」



 白髪の男は首を傾げ、ヘルは驚いたように目を見開いた。


「兄さんが難しい言葉を使ってる……!?」


「流石に馬鹿にし過ぎだろ!? 確かに読書馬鹿のお前と違って頭はそんなに良くはねえけどさ、さっきの話を聞いてこの名前がピンと来たんだぜ!」


 ふっふっふ、と人差し指を立てるネル。


「この前、この村に旅のぎんゆーしじん?が来ただろ? その時にそいつから教わった言葉で、『旅人』って意味らしいぜ! こいつにピッタリの名前じゃないか!?」


「いや、名前ってよりも彼の境遇を表す言葉ってだけな気がするけど……」


「トラベラー、か」


 白髪の男は口元に手を当てて、数秒黙り込むと、ゆっくりと頷いた。


「分かった。今後はそう名乗るとしよう」


「嘘ォ!?」


「ほら見ろ、やっぱり気に入ったんだろ!」


「いや、別に……ただ名乗る名があった方が困らないと思っただけだ」


「そこは冗談でも気に入ったって言ってくれよ!」


 白髪の男……トラベラーのあんまりな物言いに、ネルは思わず項垂れた。





 家に到着してから数十分後。

 ある程度ネルとヘルの内情を把握した後、「少し夜風を浴びてくる」と言って出ていったトラベラーを止める事が出来ず、ネルとヘルが途方に暮れていると、入れ替わる様に一人の少女がやって来ていた。


「何で村に顔を出してくれなかったの!? 怪我したんじゃないかって凄く心配したんだよ!?」


 少女がそう言いながら詰め寄ると、星明かりにキラキラと反射する美しい金髪が揺れる。少女の顔立ちは精緻に整っており、吸い込まれるような蒼の瞳は、その矛先をネルへと向けていた。

 詰め寄った少女に対して、ネルは慌てたように手を前に突き出す。


「い、いや、悪いなティーゼ。ちょっと体調が良くなくて。念の為に先に帰らせてもらったんだ」


「……嘘、ネルは嘘を吐く時、すぐに顔に出るんだから。……何か、隠し事してるんでしょ」


 ぷくっと頬を膨らましながら少女……ティーゼがジト目を向けると、ネルは堪らず視線を逸らした。


「ほらやっぱり。……小さい頃からずーっと一緒に居るのに、なんで今更隠し事なんてするの? ……それとも、私の事が嫌いなの?」


「きっ、嫌いな訳あるか! でも、お前にだけは会わせたくないって言うか……」


「私にだけ? それってどういう──」


「なんの騒ぎだ?」


 そう言って、タイミング悪く入り口から顔を覗かせたトラベラーに、その場の視線が注がれる。

 ネルの引き攣った表情、ヘルの呆れた表情、ティーゼの驚いたような表情と、三者三様の反応を見せた。


「……え? ……どなた? この島の人じゃないよね?」


「そこの二人に拾われた。……と言うのが正しいのだろうか?」


 トラベラーが首を傾げながら兄弟に聞くと、ネルはため息を一つ吐いて。


「漁獲祭で沖に出ている時に勝手に乗り込んできたんだよ。記憶が無いって言うから村まで連れて帰ってきたんだ……半ば強制的に、だけど」


 ティーゼはまじまじとトラベラーの顔を眺め始める。

 その様子を見て、ネルとヘルは気が気でなかった。

 男でもつい見惚れてしまう程顔が整っているトラベラーに対して、ティーゼの反応はと言うと。


「え? もしかして隠し事ってそれだけ?」


 ──だった。

 ネルとヘルは思わず、表情を引き攣らせながら。


「……いや、もうちょっとこう、こいつの顔に対しての感想とかさ……」


「てっきり世界を滅ぼす魔物でも匿ったんじゃないかな、って期待してたんだけど……普通に人だったから拍子抜けしちゃった」


「そんな魔物匿うかよ!?」


 とんでも無い事を言い出すティーゼに、ネルがすかさずツッコミを入れる。

 ふむふむ、と状況を呑み込んでいたティーゼが、ネルの意図を察してにやにやとした笑みを浮かべた。


「な~に~? もしかして私がこの人に一目惚れしちゃうんじゃないかって思っちゃったの?」


 図星を突かれたネルはうぐっと声を漏らす。

 その反応を見てティーゼは隠し事をされたもやもやを解消し、満足気に頷いた。

 それから、「あのね」と続け。


「私、この村が好きなの」


 ティーゼはゆっくりと目を閉じ、両手を重ねる。


「この村が発展してくれる事が一番嬉しいし、この村と一生を添い遂げたいって思ってる」


 そう言うと、ティーゼは誰もが見惚れてしまうような可憐な笑みを浮かべた。


「だから、私が外の人に憧れはするけど、好きになるかはまた別の話。……放っておけないどこかの誰かさん達も居る事だし?」


「ッ!」


 ティーゼはそう言うと、ネルとヘルが頬を赤らめる。

 そのまま歩み寄り、二人の事を両手で抱きしめる。


「ふふふ、隠し事された仕返し。私はネルとヘルが大好きだもの。大切な家族だものね!」


 その言葉を聞いて、抱きしめられて嬉しさ半分、家族としてしか見られてないのかと悲しさ半分の内心の二人。

 ティーゼが二人から離れると、トラベラーの方へと振り向いた。


「所でその……あなた、記憶が無いんだっけ?」


「ああ。だが、先ほどトラベラーと言う名を貰ったばかりだ。私を呼ぶ時はそう呼ぶと良い」


「ええ!? 名前まで忘れちゃったの!? それは災難だね……」


「いや、正確には元々名前が無いらしいんだ。多分、僕達と同じような境遇なのかもしれない」


 ヘルがそう言うと、ティーゼはふむふむ、と思案顔になる。


「いつまでこの村に居る予定なの?」


「記憶が戻るまでは居させてもらうつもりだ」


「そうなんだ! なら、記憶が戻るまで、この村で沢山思い出作れると良いね! この村は優しい人がいっぱい居るし、嫌な思いはせずに過ごせる筈だよ!」


「あー、その事についてなんだが、ティーゼ……」


 少し言いづらそうに頭を掻いたネルが、トラベラーに指を向ける。


「こいつの事は村の人達には秘密にしておいてくれないか。リックおじさんからこいつを人前に出さないでくれって言われてるんだ。……その、皆が皆、ティーゼみたいな感性を持ってる訳じゃねーしさ……」


「……なるほど、確かに私がこれまで見てきた人の中で一番顔が整ってるもの。そう言う事なら分かったわ」


 ティーゼはネルの言葉の意味をすぐに理解すると、一つ頷いた。

 そして、再び何かを考え込むかのように口元に手を添えると、「よし」と呟く。


「一方的に二人の秘密を知っちゃうのはアレだしね。私も隠し事を教えないとフェアじゃないよね」


 ティーゼがそう言うと、ネルとヘルが顔を見合わせる。

 ティーゼの言う隠し事について、思い当たる節が無かったからだ。


「……さっき、隠し事をしようとしていた二人の事、責められないんだよね。……私も隠し事があるの。折角の機会だし、教えよっか。……三人共、付いてきてくれる?」


 ティーゼの後を追うように、慌てて立ち上がるネルとヘル。

 その後ろ姿を見ながら、トラベラーは静かに目を細めた。


「やはり、あの少女は……」





「こっちよ、ネル、ヘル! そして……トラベラーさん?」


「トラベラーで良い」


「分かったわ、トラベラー!」


 ティーゼに連れられた三人がやってきたのは、森林地帯の中心にある洞窟……『海鳴りの洞窟』と呼ばれる洞窟だった。

 当時は魔物が住み着いては居なかった物の、洞窟内部が広大で迷子になる可能性があった為、あまり近寄らないようにと村の住民達から釘を刺されている場所だった。


「手ごろな水晶を取って……っと」


 その入り口で、ティーゼが地面に転がっていた水晶を手に取ると、壁に生えている水晶に三度ぶつける。

 すると、洞窟内に反響音が響き渡り、そのまま沈黙する。


「お、おいティーゼ。流石に危なくないか?」


 魔物が住み着いてはいないと言われているが、実際に一匹も居ないという確証はない。

 幾らネルとヘルが居るとはいえ、突然魔物に襲われでもしたら庇いきれない可能性がある。

 だが、ティーゼは笑みを浮かべると。


「大丈夫よ、は悪い子じゃないから」


 「あの子?」とネルとヘルが首を傾げていると、奥の方からのそりと影が見える。

 ネルとヘルが咄嗟に短剣を抜いて構えようとしたのを、ティーゼが手で静止した。


「待って! ほらリヴェちゃん、挨拶して!」


『うむ、よかろう!』


 ティーゼがそう言うと、影がのそりと立ち上がった。



『私は偉大なる大海の覇者の息子! リヴェリアである!』



 そう自信満々に喋り出したのは──ネルとヘルの膝ぐらいしかないサイズの水蜥蜴だった。

 数秒間その場が沈黙し、いち早く状況を理解したヘルが驚いて声を上げる。


「魔物が喋った!?」


「ふふふ、どう? 驚いたでしょ?」


 自信満々なリヴェリアと並んで、腰に手を当ててどや顔をするティーゼ。

 ずっとぽかんとした表情で固まっていたネルが、ティーゼに問う。


「ティーゼ、お前、魔物をテイムしたのか?」


「違うわ、リヴェちゃんとはただのお友達なの」


『うむ』


 「ねー?」と言いながらリヴェリアを撫でると、満足そうな笑みを浮かべるリヴェリア。

 ネルはその光景を見ても、警戒を解くことは無いまま、口を開く。


「テイムした訳じゃ無いなら、そいつと今すぐ距離を置くべきだ」


「……どうして、そんな事を言うの?」


 ネルの言葉に、ティーゼは悲しそうな顔を浮かべる。


「ティーゼも知ってるだろ。……魔物は危険な生物だ。村の人達の中にはトラウマを持ってる奴もいる。例え友好的に見えても、油断したティーゼを喰う為だっていう可能性だってあるんだぞ。ましてや、人間の言語を理解して喋れる程知能が高いんだ、危険すぎる」


「確かに、普通の魔物ならそうかもしれない……でも、リヴェちゃんはそんな事しないわ!」


『うむ。人とは友になれる生き物だと知っているからな。貴様らも私の友になる事を許そう』


 というのも、産まれたばかりのリヴェリアが、唯一覚えている光景──後の英雄アルバートと呼ばれる人間と【冥王龍】リヴァイアの戦闘。戦闘は熾烈な物だったが、その後和解している事を知っていたのだ。


 当然、彼らがそんなリヴェリアの背景を知る事は無い。

 リヴェリアの図々しい態度に苦笑しつつも、ヘルはリヴェリアに歩み寄る。

 

「本当に、ティーゼに危害を加える気は無いんだね?」


『私は人間の肉になぞ興味ない。それよりもティーゼの持ってくる魚の方が断然美味いからな』


「あ、そうだった。ほらリヴェちゃん、今日獲って来たばかりの新鮮な魚だよ」


『うむ、ご苦労である!』


 ティーゼが背負う籠に入っていた鮮魚を渡すと、ぼりぼりと音を鳴らしながら食べ始めるリヴェリア。

 すっかり餌付けされている様子を見て、流石のネルも毒気が抜かれ、ため息を吐いた。


「まあ別に襲う気が無いんなら良いんだけどよ」


「一応、村の人達には秘密にしておいた方が良さそうだね。もしバレたら、大変な事になりそうだ」


「そうね……。だから、リヴェちゃんとはこの合図をした時にだけ会うようにしてるの。もし何かの拍子でバレた時に……私達みたいに、順応出来るとは限らないから」


『人間とは懐が狭い生き物よの』


「お前は一体何様なんだ……」


『大海の覇者の息子と言っておろう、崇めても良いのだぞ?』


 むふー、と息を吐き出したリヴェリアの言葉を戯言と認識し、ネルはへっと鼻で笑う。


「あーはいはい凄いなー、それはそれはさぞお強いんだろうなー」


『お主、さては信じておらぬな!?』


 ガルルル、と今にも噛みつきそうな勢いでネルを睨みつけるが、生憎まだ小さな水蜥蜴なので迫力もあったものじゃない。

 そんな様子を後ろから眺めていたトラベラーが、楽し気に笑うティーゼへと問いを投げかける。


「ティーゼと言ったか」


「何? トラベラー?」



?」



 トラベラーが目を細めながらそう問うと、ティーゼはビクリと肩を震わせる。


「な、なんのことかな?」


「先ほど、この村についてからそこの二人の境遇について話を聞いた。何故、村から離れた位置に住んでいるのかという話をな」


 ネルとヘルはトラベラーの言葉の意図が分からずに首を傾げるが、ティーゼだけは顔を引き攣らせた。

 そんなティーゼの表情の変化を察しながらも、トラベラーは追及を続ける。


「私にはとある力を持っているかどうか判別できる力がある。……初めて彼らと出会った時、そこの二人をいの一番に取り押さえたのは、彼らがその力を持っている事が一目で分かったからだ」


「あっ!? やっぱお前分かってて俺達だけ押さえつけてたのか!?」


 ネルは憤慨してトラベラーに突っかかろうとするが、弟のヘルは冷静に、口元に手を添える。


「……って事は、まさか」


「ティーゼ。お前も『』を持っているな?」


 トラベラーの発言に、ネルとヘルがギョッとする。

 そしてすぐに、ネルとヘルはトラベラーを鋭く睨みつける。


「おい、トラベラー……質の悪い冗談はやめろ」


「うん……ちょっとその発言は流石に看過できないよ」


 怒気を孕んだ声を漏らすネルとヘル。

 『祝福』はネルとヘルがこの村で離れの小屋へと移り住む事になった原因だ。

 例え冗談だとしても、その発言は悪質極まりない。

 ティーゼはトラベラーの問いに対し、暫くの間口を閉ざしていたが──。


「……バレちゃったか。……出来れば、死ぬまで隠し通そうって思ってたんだけどな」


 にはは、と力の無い笑みを漏らして白状するティーゼ。


「まさか、ティーゼ。本当に……?」


「うん、私にもあるの。『祝福』の力が」


 他ならない、本人の口から肯定の言葉に、ヘルは酷く顔を歪める。


「一体、いつからそれを……?」


「気付いたのは一年前ぐらい。……私が『船出の唄』の魔法を作ったぐらいの時かな」


「……」


「おかしいなって思ったんだ。普通の人は少し『船出の唄』を演奏するだけで疲れちゃうのに、私は全然疲れなくて。だから、夜中に一人でこっそり練習をしてたんだけど……それでも疲れなくて、むしろ元気になってる気がして……ようやく気付いた」


 そう言うと、ティーゼは空を見上げると、星に向かって指を差した。


「私にはどうやら、を受け取れる力があるみたいなの」


「星の、魔力……?」


「うん。今、私達の真上に広がっている夜空に浮かぶ、あの星々から。あの光の下に居る限り、私はずっと魔力を供給し続ける事が出来る。そして、その供給に耐えられるように出来ているのか、私の魔臓はみたいなの」


 ティーゼは自分の胸に触れながら、そう言う。


 この世界の人間なら誰しもが持つ『魔臓』と呼ばれる臓器には、魔法の源である『コア・マナ』と呼ばれる物を生成する役割を持っている。常人であるならば、その容量キャパシティには限度があるので、時間を置くかポーションで回復しなければ魔法を使用する事が出来なくなってしまう。

 だが、ティーゼの場合……星からの魔力を代替する事で、魔法を使用する事が出来る。そして、星から与えられた膨大な量のマナを自身の魔臓に保管出来るという特異体質の持ち主だったのだ。

 それこそがティーゼの持つ『祝福』……『星魔の巫女』。

 彼女が魔法を使わない限り誰にもバレる事の無い、隠された『祝福』の正体。


 ……もっとも、その秘密はトラベラーによって看破されてしまったが。


「……ごめんなさい、二人共。……二人が『祝福』の力のせいで苦労している中、私はずっとひた隠しにし続けて……普通の暮らしを送っていたの」


「……ティーゼ」


 一度吐き出した思いは止まらない。涙をボロボロと流しながら、ティーゼは頭を下げて言葉を続ける。


「……怖かったの。私も『祝福』を持っていると知れ渡ったら、村の皆に、二人みたいに一歩引いた接し方をされるだろうって。それに、村長……お父さんの立場も危うくなるかもしれないって。迷惑は掛けられないって……そう思って隠してた。……軽蔑するだろうし、当然許してもらえないとも思うけど……本当に、ごめんなさい」


 頭を下げ続けるティーゼに対し、ネルは頭をぼりぼりと掻きながら。


「……まあ、隠し事をされてたって事自体はショックだけどよ。気持ちは痛いぐらいに分かるからそんなに気負う必要はねぇよ」


 ヘルもそれに同意して、一つ頷いてから。


「僕らも、時間こそ掛かったけれどなんだかんだ村の人と上手くやれてるしね。それに、ティーゼの力は直接人を傷つけるような力でも無いから、むしろ羨ましいぐらいだよ」


「だな! さっきのティーゼの話が本当なら、すげー魔法を使ってもぶっ倒れねぇって事なんだろ!? そんなの最強じゃねーか! ちくしょー、なんで俺の力はこんな地味なんだ!?」


「兄さんの力も大概だと思うけどね。……でも、人に恐れられるような力でも、使い方次第で誰かの力になれる。それを僕らは証明して、漁獲祭にも一緒に連れて行ってもらえるようになったんだ。勿論、ティーゼが『祝福』を持っている事を村の皆に伝える必要は無いし、このままずっと隠し通す選択をしても良いと思ってるよ」


「ありがとう、二人共……」


 ぐいっと涙を拭ったティーゼは、改めて二人に向き合うと。


「でも、決めた。私、『祝福』の事、皆に打ち明けるよ。そして私も、二人みたいに村の皆の役に立てるように──頑張るから!」



 そう言って笑ったティーゼの顔にはもう、迷いなど無かった。


 



 次の日、ティーゼは村の住人達に自分が『祝福』を持っている事を打ち明けた。

 初めこそネルとヘルのように恐怖の対象となったが、彼女の祝福は人を直接傷つける能力では無かったこと、そして何より、彼女がその力を使って村に貢献したいという意思もあり、騒動は比較的すぐに収まった。

 結果、彼女の『船出の唄』の演奏技術は洗練されていき、加護の効果も向上し、漁獲祭での乗組員の死亡率は限りなくゼロに近くなった。


 それから時は経ち、ふとしたことからトラベラーの存在が村の人間達に知れ渡ってしまった。

 リックが懸念していた事態が起きかねなかったが、トラベラーが余りにも情欲に無関心だったことが起因し、こちらの騒動もすぐに収まった。

 その代わり、大々的にトラベラーがハーリッドを歩く事が出来るようになった為、漁獲祭などの行事にも積極的に参加し、村に貢献する事で信頼を勝ち得る事が出来た。


 兄弟とティーゼ、そしてトラベラーは四人で行動する事も多くなり、時々リヴェリアを交えながら過ごす日々は、彼らにとって居心地の良い時間へと変わっていった。


 楽しい時間はすぐに過ぎ去っていく物で、トラベラーが村を訪れてから、一年が経過しようとしていたある日の事──

 

 


 ──その時は、突然訪れた。





 



「──



 深夜。ネルとヘルが寝息を立てている中、トラベラーはゆっくりと起き上がると顔に手を当てた。

 脳内を駆け巡る情報の濁流。トラベラーという存在が誕生してから、今に至るまでの情報が結びついていく。

 そして、記憶を失った当時の情報を精査するように、口に出して整理する。


「そうだ、私はあの時ユースティアの軍事研究所から逃げ出して……未完成品の転移装置を使用した弊害で記憶が飛んでいたのか……」


 一年前。与えられた使命を果たす為、各地を放浪していたトラベラーがユースティア帝国に捕縛されてしまい、被検体として実験を受けていた。

 自身の力を使えばいつでも逃げ出せた為、興味本位に実験を受け続けていたが……その時に現れた一人の研究者が、異質である事を感じ取った。

 ──その存在を知ってから、トラベラーはかねてより計画していたとある計画を実行する事にし、研究所から脱走した。

 ──まさか、脱走する為に使用した転移装置で記憶が飛ぶとは思いもしなかったが。


 そして、記憶が戻ったからこそ、今の状況が事にも気付いていた。


「マズいな。私の居場所が特定されればが来る可能性がある。……記憶を失ってから随分とこの村に居座ってしまった。じきに、この村を襲いに来てもおかしくはない」


 気持ちよさそうに寝ているネルとヘルをちらりと見るトラベラー。

 かつて脱走したのはユースティアの軍事研究所……ユースティアの軍隊が来る可能性がある以上、今すぐにでもこの村を離れなければならない。

 だが、ティーゼを含め、一年もの間記憶を失っている自分の面倒を見てきたのは彼らだった。

 ここで別れとは言わず、一緒に旅をする選択肢を考えた上で、トラベラーは首を振った。


に、そのを背負わせるのはあまりに酷と言う物だろう」


 トラベラーの計画を達成するには、とある協力者達の存在が不可欠だった。

 その協力者とは、『祝福』を持つ【異端者】。この世界のである彼らは、トラベラーの目標に観測されないのだ。

 だからこそ、『祝福』を持つ彼らを仲間にしたかったのだが……トラベラーの計画が完遂すれば、彼らはこの世で最も罪深い大罪を犯す事となる。


 トラベラーは羊皮紙に書置きを残すと、彼らを起こさないようにそっと入り口の扉を開ける。


「世話になった。……まともに別れの挨拶もしなくてすまない。……だがもし、君達が私と共に歩む気があるのなら、その時は……」


 そう呟き、再び首を振ってから入り口の扉を閉めた。






「トラベラーの野郎ッ! 黙って出ていきやがった!」


 ネルが寝床に置いてあった羊皮紙に書かれていた内容を見て、声を荒げる。

 そこには、別れの挨拶と、記憶を取り戻した旨の内容と、そして自分の拠点としている場所が記されていた。

 

「兄さん、これって……」


 ヘルが神妙な顔で羊皮紙に記載された内容を読み進めていく。

 彼らには面倒を見て貰った恩義があるからと、大雑把ではあるが、トラベラーが企てている計画についても書かれていたのだ。

 しかし、そこに書かれていた内容は常人であるのならばとても信じられるような内容では無かった。

 妄言だろうと一笑に付されてもおかしくは無かったが……彼の力を知っているからこそ、そこに記載されていた内容の真実味が増していた。

 

「せめて一言ぐらい挨拶があっても良いだろうがよ……!!」


 この一年、トラベラーと仲を深めていたネルは、悔しそうに歯噛みする。

 トラベラーの真実を知ってしまえば、距離を置かれると思ったのだろうか。……そんなことは、絶対にしないいうのに。


「トラベラーが不思議な存在だとは思っていたけど……まさか、こんな……」


 一方、口元を押さえ、手紙の内容を何度も読み返すヘル。

 ここに書いてある内容が真実であるのならば、彼らは一村人の自分達とは到底比べ物にならない程縁遠い存在だ。

 内容を呑み込むには時間が掛かるが──それでも、まず動かねばならない事がある。


「こうしちゃ居られない、すぐに村の人達にユースティア帝国軍が攻めてくるかもしれないって説明しに行かないと──」


 かつてユースティア軍事研究所から逃走したトラベラーの境遇、そしてある一つの

 その二つがある以上、ユースティア帝国軍が攻めてくる可能性は非常に高い。


 と、立ち上がったヘルの動きが突然固まる。

 その視線の先には、海岸を見渡す事が出来る窓があった。


「お、おい? ヘル、どうした?」

 

「兄さん、あれ」


 何かを見つけたヘルがこの世の終わりのような表情で、窓の外を指差した。

 ネルが身を乗り出して窓の外を見てみると、口をぽかんと開けて──。



「ユースティア、帝国」



 ユースティア帝国を象徴する、最先端の技術で建造された黒い魔導船。


 最悪のタイミングで、それはやってきた。





「ユースティア帝国軍事研究所所長、デロイ・バルバトス。この村に居る、白髪の男とティーゼという少女をこちらに引き渡せ。そうすれば、君達の命は保障しよう」


 魔導船と呼ばれる船から降りてきた白衣を纏ったユースティア帝国軍の男がそう言い放つ。

 突如として来訪した別の大陸の侵略者に、村の人間達は混乱に陥っていた。


「白髪の男……? それに、ティーゼ? 一体、何の事やら……」


 そんな中、村の長であるアルゼンは、勇気を奮い立たせてデロイの前に立っていた。

 かつてユースティア帝国と同じ大陸に存在する、大きな街の権力者であった彼は、その明晰な頭脳をフルに回転させて状況の判断を行っていた。

 ユースティア帝国が血も涙も無い軍事国家である事は良く知っていた。

 だからこそ、ここで、この男の言う通りにするのは、最悪の選択肢だろうと。


「とぼける気か? 魔法を無制限に使用する事ができる巫女──その存在について、こちらは情報を掴んでいる。大人しく指示に従うのが身の為だぞ」


「いえ、私達は本当に──」


 アルゼンがそう言った瞬間、デロイは心底つまらなそうな瞳を浮かべて、後方の部下に合図を出した。


 パァンッ!!


「うぐッ!?」


 瞬間、何かが炸裂したかのような音が周囲に響き渡る。

 衝撃を受けた右肩から溢れ出る血を押さえながら、アルゼンは音の出処へと視線を向けた。

 音の出処にあったのは、黒い筒状の武器……であった。


「なんだ、それは……!?」


「ククク、素晴らしい……!! 魔法を使わずとも、これほどの威力が出るとは……!! やはりあの異邦の者が齎した技術は本物だな……!!」


 デロイは化けの皮を剥がし、苦しむアルゼンを見て嘲笑する。

 アルゼンは右肩に走る激痛と熱に悶えながらも、デロイを睨みつけると。

 

「私達は、何も知らない!! 白髪の男も、ティーゼという娘についても! 貴様らに教える事など、何も無い!!」


「そうか。……ならば、これでどうだ?」


 アルゼンの覚悟を見て、デロイは次の策を取る。

 予め捕らえておいた住民達を前に引っ張り出し、その後頭部に銃口を突き付けていた。

 アルゼンは顔を歪め、にやにやとした笑いを浮かべるデロイを今一度鋭く睨みつけた。


「……悪魔め……!!」


「ハハハ! 早く口を割らないからこうなるのだ。貴様らも、あの頑固者のせいだと恨むのだな。そうすれば、ここで死なないで良かったものを」


「そ、村長……!!」


 村の住人の命と、大事な自分の娘の命。

 そして、この一年村に貢献した、白髪の男の命。

 それらを天秤に掛け、アルゼンが苦渋の決断をしようとした次の瞬間。

 

 

「もうやめてッ!!」



 アルゼンの後方から、悲鳴のような声が上がる。

 アルゼンが思わずばっと振り返ると、そこにはアルゼンの娘──ティーゼ・セレンティシアが立っていた。


「ティーゼ!? 駄目だ、下がりなさい!」


「……お前がティーゼか?」


「ええ、私がティーゼよ。……私がそっちに行けば、もう誰も傷つけないんだよね?」


「ああ、約束しよう」


 ニタリ、と不気味な笑みを浮かべるデロイ。

 胡散臭い笑みだとは思いつつも、ティーゼは一つ深呼吸した後デロイの下へ歩き出す。


「ティーゼ、駄目だ! 奴らの下へ行けば、どれほど凄惨な末路を辿るか……!」


「ごめんね、お父さん。……でも、私の命で皆が助かるのなら……そうするしかないよ」


 まだ大人にもなっていない少女が下した決断に、アルゼンは涙を溢れさせる。

 ……自分は、村の長として非情な決断をしようとしたというのに、彼女は自分から犠牲になる道を選んだ。恐らくは、自分に罪悪感を背負わせないようにするために。


 ティーゼは、最後にアルゼンの方へ振り返ると、泣き笑いの表情を浮かべる。


「……さようなら。今まで私を育ててくれてありがとう……ずっとずっと、大好きだよ」


「ティーゼ!!」


 帝国兵に拘束され、ティーゼが魔導船へと連行されていく。


「彼女が乗船するまで動くな。動けば、そこの住人達の頭を撃ち抜く」


 ぐっと歯噛みし、ただ目の前で自分の娘が連れていかれるのを眺め続ける。

 デロイが住民達をちらりと見て、『殺せ』と命令を下そうとしたその瞬間。


「ふざけるなッッ!! ティーゼを返せ!!」


 隠れて様子を窺っていたネルが剣を振るって、近くに居た帝国兵の腕を斬り飛ばした。

 斬り飛ばされた腕から鮮血が飛び散り、白い砂浜を赤く染め上げる。

 とてもただの子供とは思えない膂力を見て、デロイが思わず目を剥いた。


「なっ!? なんだあのガキは!?」


「恐らく例の『祝福』持ちのガキです!」


「クソ、聞いてた話と違うぞ……!! 使えん諜報員め……!!」


 爪を噛みながら悪態を吐くと、デロイはすぐに魔導船の方へと逃げていく。

 そして、途中で振り返ると手をバッと振りかざした。


「総員、撃てッ!!」


「ッ!!」


 デロイが指示を下すと、銃から放たれた弾丸がネルに殺到する。

 だが、ネルに当たる直前、不自然に弾丸が跳ね返った。

 ヘルの『祝福』の力……ネルと弾丸の間にある空間を遮断し、彼の身体に弾丸が到達するのを防いだのだ。

 ネルはヘルが守ってくれている事を理解すると、迫り来る帝国兵達を次々に斬り捨てていく。


「化け物めッ……!!」


 その光景を目の当たりにして、ギリ、と歯ぎしりするデロイ。

 異邦の者が齎した最新の技術ですら敵わない、『祝福』の力。

 相手はまだ年若い子供だというのに、その底知れない力を目の当たりにして、身体の震えが止まらなかった。

 タラップを駆け上がり、船に乗るとデロイは手を振りかざした。


「すぐに船を出せッ!!」


「ですがデロイ隊長、まだ陸地に取り残された兵士達はどうされるのです!?」


「うるさい、黙って従え!! 元より我々に下された命令はその女を連れ出す事だ、既にその目的は達成している! それともここで全員殺されたいのか!?」


「は、はっ! 承知致しました!」


 激しい剣幕で怒鳴り散らすデロイに圧倒され、すぐに兵士が敬礼すると動き出す。

 タラップが引き上げられ、魔導船に積まれたエンジンが稼働し始める。


「ティーゼを、返せぇぇぇえええええええええ!!!」


 次々に迫り来る帝国兵達を斬り捨てながら、ネルは砂浜を抜け、桟橋を駆け抜ける。

 だが既に船は出航し、今この瞬間にも距離を離し続けている。

 甲板に居たデロイが、逃げ切れたと確信し、安堵の顔を覗かせた次の瞬間。


「うおおおおおおおおおおおおおぁああああああ!!」


 桟橋から飛んだネルが剣を振るうと、見えない斬撃が飛翔した。

 その斬撃は、高速で移動する魔導船に追い付き、油断しきっていたデロイの腕を斬り飛ばした。


「うぎゃあああああああああああああああ!? 私の、私の腕がッ!?」


 大絶叫が響き渡る。それでデロイを仕留めきれないと確信したネルは、遠ざかっていく魔導船に向かって叫んだ。


「絶対に、絶対に取り返す!! 地の果てまで追いかけて──ティーゼを絶対に連れ戻すからな!! だから、待っていろ!!」

 

 その声が、ティーゼに届いたのか分からなかった。

 だが、その宣言と共に覚悟を決めると、ネルは桟橋へと押し寄せる帝国軍の兵士達を相手に、剣を向けた。





 帝国軍の兵士達に抗い続け、ようやく、最後の一人を斬り伏せた。

 全身血みどろになりながら、荒い息を吐き出し続けるネルは、遂に倒れ込んだ。

 そんなネルを見て、影で彼を援護していたヘルが近寄る。


「兄さん!」


「ヘル……まだ、敵は居るか?」


「今ので最後みたいだね……本当に、無茶をし過ぎだよ」


 ヘルは涙を零しながら、ボロボロの身体のネルを支える。

 肉体の疲労以上に、ヘルは自分の兄が人を殺め続けていた事に対して心配していた。


「それでも……あまりに、被害を出し過ぎてしまった」


 ネルは、そう呟いて下を向く。

 ティーゼを攫わせんと抵抗したネル達の動きを見て、帝国軍の兵士達もまた、住人達へと襲い掛かっていた。

 ヘルも出来る限り住人達を守っていたが、同時に襲い掛かられてしまえば守り切れない。

 そういった事が何度か重なり、住人達にも被害が出てしまっていた。


「どうしてよ!!」


 その時だった。

 どこからか、ネルへと石が投げ付けられる。

 その方へと視線を向けると、そこにはリックの亡骸を抱える彼の妻の姿があった。


「あの子があいつらに大人しく連れていかれれば、私達までこんな傷を負う必要は無かった! 貴方達が考え無しに彼らに歯向かったせいで……! 私の夫は……!!」


「リック、おじさん」


 漁獲祭を取り仕切る船の長として長年村に貢献していた彼は、既に息絶えていた。

 『祝福』を持っている自分達に対しても、変わらず接し続けてくれていた数少ない内の一人。

 そんな彼が、自分達が帝国軍に歯向かったせいで犠牲になってしまった。

 

「だから、私は反対だったのよ!! 貴方達が村に居続ける事は!! 大体、あいつらがこの村に来た理由も貴方達のような力を持っているあの子のせいだったって訳なんでしょ!? それなら、最初から居なければこんな事には……!!」


「……そこまでだ、ラメ。……相手は、力を持って生まれてしまっただけの子供だぞ」


 右肩の止血を終えたアルゼンが、リックの妻……ラメを静止する。


「元はと言えば、あなたの娘が──!!」


「奴らは、ティーゼを連れて行った後、私達を殺そうとしていた。……彼らが戦わなければ、私達は皆死んでいただろう。……敵を、見誤るな」


「……!!」


 アルゼンの言葉を聞いて、ラメは言葉を詰まらせる。

 様々な感情が渦巻き、再びアルゼンに反論しようとした所で、ネルが先に口を開く。


「……この村から、出てけば良いんだろ」


「ネル!?」


「……いつか、こんな日が来る気がしていた。俺達がこんな力を持っているって知った時から、ロクな人生を歩めないだろうってな。……だから、出てくよ。そうすれば、他の奴らも納得するだろ」


 ラメの他にも、自分達に向けられる悪意と恐怖の視線を感じ取り、ネルは自嘲染みた笑みを漏らす。

 自分の力は、あまりにも生物を殺す事に長けている力だ。こんな力を持っている人間が近くに居れば、住人達もおちおち安心する事も出来ないだろう。


「そ、そうだ! 出ていけ! この村に二度と帰ってくるな!!」


「この化け物!! 恩知らずの悪魔が!!」


 ネルの言葉を皮切りに、周囲から声が上がる。その暴言の数々に心を痛めながら、ヘルの手を引いてゆっくりとその場を離れていった。

 遠ざかっていこうとする二人を、アルゼンが慌てて追いかける。


「ネル、待ってくれ! 君達が責任を負う必要は──!!」


「アルゼンさん。……俺達は、貴方のおかげでこれまで生きてこれた。貴方の事を、本当の父親のように思ってた。……だからこそ、これ以上迷惑を掛けられない。……ここで、お別れだ」


「……ッ!」


 幼い頃の彼らを引き取り、実の子供のように愛情を注いできた。

 だからこそ、この決断をした彼らを止めたい気持ちがありつつも……彼らの意思を尊重する事にした。


「……本当に、行くつもりなのか?」


「止めたって聞くつもりは無いよ。……俺達は、ティーゼを助けに行く」


「なら、旅立つ前に私の家に寄っていくと良い。……旅の準備ぐらいなら、手伝えるから」


 そう言って柔らかく笑ったアルゼンに、付いていく二人。

 そして、旅の準備を整えた後──ある場所へと向かった。





「という訳で、俺達はこの村を出る事にした」


 場所は変わって海鳴りの洞窟。いつもの合図でリヴェリアを呼び寄せたネルとヘルは、先ほど起きた惨事について詳細に語った。

 リヴェリアは魔物らしからぬ悲痛な表情を浮かべ、嘆いた。


『……そうか。……ティーゼが攫われた、と』


「ああ。だから、俺達はティーゼを助けに行く。この島を出て、トラベラーと合流するつもりだ」


『なら私も連れていけ! 私は偉大なる大海の覇者の息子! 戦闘でも少しは役に……』


「リーヴェ。こんな時にも冗談を言って僕達を和ませてくれようとしてくれるのは嬉しいんだけど、これは真面目な話なんだ」


『別に冗談では──』


「それに、お前が成長するまでにどれぐらいかかる? 俺達の寿命はお前よりも遥かに短い。……お前がもしいっぱしの龍になれたとしても、その時にはきっと俺達はとっくに死んでるよ」


 それを聞いて、リヴェリアはうぐ、と声を漏らす。確かに、リヴェリアが成熟するまでにはかなりの年月を要する。まともに戦えるまで成長したとしても、それまでティーゼが生きている保証は無い。


「だから、お前にはこの島に残って居て欲しいんだ。ティーゼを連れて帰ってきた時に、あいつの居場所を守っていて欲しい。それと……ティーゼが帰ってくる時まで、を預かってくれないか?」


『これ、は……?』


 ヘルがよいしょ、と呟いて地面に置いたのは、巨大な法螺貝のような形をした笛だった。


「ティーゼが漁獲祭の時に使っていた笛だよ。見ての通り、かなり大きいし、早々誰かに盗まれはしないとは思うけど……一応ね。それに、リーヴェになら、誰よりも安心して任せられるから」


『……分かった。ならば、請け負おう』


 リヴェリアの背にティーゼの使っていた笛……『星降りの贈笛』を乗せる。

 その重さに思わずリヴェリアが顔を顰めるが、それでも託された物として、丁重に背負い直す。


『奴は……トラベラーはどこに居るのだ?』


「トラベラーならもう、この島に居ないよ。……今朝、記憶を取り戻して出て行っちゃったから。でも、自分の居場所が書いてある手紙が置いてあったから、それを頼りに訪ねてみるよ」


『そうか……何とも間が悪い。……奴が居れば、ティーゼも……』


「起きちまった事を後悔しても仕方ねえよ。……俺達よりも強いあいつとならきっと、ティーゼを救える。だから、安心して待っていてくれ、リヴェリア」


『ああ。あまり待たせるで無いぞ』


 意外と寂しがり屋な気質のあるリヴェリアに、ネルとヘルは苦笑すると。


「ああ。──じゃあな、リヴェリア」


「うん。──じゃあね、リーヴェ」





 それが、リヴェリアとネル達との今生の別れだった。


 





『それから、俺達は船で海を渡り、手紙に書かれてた場所へと行ってトラベラーと合流した』


『トラベラーと合流してから、色んな話を聞いた。記憶を失う前の事。君に課された使命の事。……そして、その使事』


『お前の話は信じられないような話ばかりだった。だが、お前が『祝福』を持つ俺らよりも圧倒的に強かったからこそ……お前の話を信用せざるを得なかった』


『実際、君の言う通りだったしね。……君が立ち上がらなければ、僕らの世界は【粛清者】によって滅ぼされていたんだから』


『……まあ、俺達はその戦いに参戦した訳じゃ無いんだけどな』




 トラベラーと合流して、各地を歩き回る事二年。

 志を共にする仲間も増え、決戦の日が近づいて来たある日の事だった。


「何で分かってくれないんだよ、トラベラー!!」


 とある宿屋の一角。

 バン、と机に拳を勢いよく叩き付けられた音に、その場に居た者達の視線が向けられる。

 音を立てた張本人……ネルは、怒りに満ちた表情でトラベラーを怒鳴りつけていた。


「あいつらがティーゼにした人体実験……【Project Valkyria】についての情報は掴んだ! 奴らの研究所の場所も把握出来ている! それなのに、なんで一緒に助けに行ってくれないんだ!?」


「ネル。……ティーゼはもう助からない。彼女はもう、人間じゃないんだ」


「────ッ!!」


 トラベラーは感情の読めない瞳で淡々とそう言うと、ネルがトラベラーに掴みかかる。

 息を荒く吐き出しながら睨みつけるが、トラベラーはどこ吹く風だった。

 ネルを諭すように、冷静な声音で言葉を続ける。


「私の力でどうにか出来る範囲を超えている。それに、仮に出来たとしても、に居場所を把握されるだけだ。そうなれば、これまでの全てが無駄になる。はっきり言おう、ティーゼを救う事については反対だ」


「お前……!! ハーリッドで過ごした日々の事を忘れたのか!? あいつにされた実験の内容も知ってんだろ!? 今すぐにでも助けてやりたいって思わないのか!?」


「小さな目標の為に、大きな目標を疎かにする訳にはいかない。それは愚者の行う選択だ」


 瞬間、ゴッ、と鈍い音が響く。

 ネルは怒りのままに拳を振るい、トラベラーの頬を殴り飛ばしたのだ。

 そのままトラベラーの身体は吹き飛び、宿屋の壁に叩き付けられて騒音が響く。

 それを見ていた小さな妖精が、慌てた様子でネルへと近付いていく。


「ネル! 流石にやりすぎよ! ヘルも止めてよ!?」


 拳を握りしめ、今まで見た事の無い表情を浮かべていたヘルを見て、妖精は思わず「ひぅ!?」と悲鳴を上げる。


「ごめん。僕もちょっと、怒りを抑えるので精一杯なんだ。僕らは、ティーゼを救う為にトラベラーと旅に出たんだ。……ようやく助け出せる段階まで来たのに、それを否定された僕達の気持ちが分かるかな?」


「そ、それは……」


「心底見損なったよ、トラベラー。結局、君の目標に僕らを利用するだけ利用して、いざこちらの願いを聞くタイミングになったらこうか。……信頼されていると、思っていたんだけどな」


 静かに怒りを滲ませるヘルが、トラベラーを鋭く睨みつける。


「信頼はしている。だが、不可能な事は不可能なんだ。それを何故理解出来ないんだ」


 殴り飛ばされたトラベラーは表情を少しも変える事は無かった。それを見て、ハッと鼻で笑うネル。


「信頼してる、ねぇ……。嘘つけよ、が。結局、自分の目標を最優先にして俺達の事なんかどうでも良いってんだろ。最初からそう言えば良いじゃねえか」


「ちょっとネル、言い過ぎよ!! 私も本気で怒るわよ!?」


「兄さんと同意見だ。……どうやら、僕達の旅はここまでみたいだね」


 そう言って、ネルとヘルは近くにあった自分の私物の入った袋を背負うと。


「……今まで世話になった。本当は最後までお前の力になりたいと思ったが、俺達は俺達の目標の為に動く。もう世界がどうのとか知ったこっちゃねえ。……じゃあなトラベラー、達者で生きろよ」


「ネル、ヘル!!」


 ばたん、と部屋の扉が閉じられる。

 悲しそうな瞳を浮かべた妖精が、トラベラーの方へと近寄っていく。


「ねぇ、本当にこんな終わり方で良いの……? ネルとヘル、本気で行っちゃうよ……?」


「無理だと諭して聞かないようなら仕方ない。……彼らの好きにさせると良い」


 トラベラーは熱を帯びた頬に触れると、その痛みを消す力を使う事は無く、静かに呟いた。


「……正直、この段階でのネルとヘルの離脱は痛いが……想定の範囲内だ。……残った者で、私達の目標を達成する為に動く。……そうしなければ、世界が滅ぶのだから」


 ネルとヘルが離脱した事にも顔色一つ変えないトラベラーだったが……長年共に旅をしていた妖精は、彼がほんの少しだけ悲しそうな表情を浮かべているように見えた。





「兄さん、これからどうするの? 流石に僕ら二人だけで戦うのは無理があるよ」


「俺達だけで動く必要が出てきた以上、頼みの綱はこれしかない」


「これは……」


 そう言ってネルが広げたのは『レジスタンス募集』と書かれた羊皮紙だった。

 ユースティア帝国の圧政に苦しむ民達が蜂起し、帝国に対する勢力を築き上げていたのだ。


「俺達はこれに潜り込んで、帝国と真っ向から戦う。幸い、俺達には戦うにはおあつらえ向きな『祝福』も持っているんだ。……そして、戦争に乗じて奴らの研究所を制圧して、ティーゼを助け出す」


「……確かにこれなら、僕らだけで戦う必要は無くなる。……いつから考えていたんだい?」


 怒りに任せて飛び出してきた割にはしっかり先を見据えていた兄の行動に、ヘルは少しばかり驚く。

 

「【Project Valkyria】の研究概要を知った時からだ。……トラベラーは合理主義者だからな、あの実験の内容を知って、拒否される可能性が高いと踏んだ。……結果は、その通りだったけどな」


「『魂の融合によって究極の個を作り出す計画』……本当にそんな事が可能なら、ティーゼは……」


 暗い表情のヘルに対して、ネルはその背中を軽く叩く。


「俺達まで諦めたら誰があいつを救うんだよ。……そのために、俺達は旅に出た。……行くぞ、ヘル。もうここまで来ちまったからには、引き返せない」


「……うん」





『……これが、僕らが最後にトラベラーに会った時の記憶。……意見の相違による決裂さ』


『俺達だって、ティーゼが既に手遅れだって事は内心分かってた。それでも、『祝福』を超える力を使うお前になら、ティーゼを救えるかもしれないって希望を抱いてたんだ』


『でも、君は無理だと断言した。……そして、僕らに対して、ティーゼを諦めろと諭した。君の言葉が、僕らにとってどれだけ絶望的な物であったか分かるかい?』


『俺らからしてみればティーゼは自分の命にも代えがたい、大切な家族なんだよ。だから、今でもお前を殴った事については後悔していない。……だが、結局、俺達は……』





 今まで経験した事の無い程の、地獄だった。

 レジスタンスによるユースティア帝国との決戦。どこからか現れた異邦者が齎した技術は、ユースティア帝国の軍事産業に革命を起こし、遥か未来の技術を以ってレジスタンスを滅ぼしに掛かった。

 だが、こちらも技術では説明出来ない『祝福』の力を振るい、多くの人を生かし、殺した。


 救えた筈の命を取りこぼし、敵味方の悲鳴を聞きながら、斬って、斬って、斬りまくった。


 いつからか、悲鳴が聞こえなくなってから……ようやく終わったのだと、実感した。


「…………」


 空も、大地も、全てが赤く染まっていた。目の前に頽れた機械……『有人装着式強化兵装』という装甲に身を纏ったグラッド将軍の遺体を見下ろしながら、ネルは短く吐息を吐き出した。

 限界を超え、自身の身に余る力を人に振るい続けた。全てが終わった後、剣を握る手が震えている事に気付いた。

 元々、しがない漁村の出身だったのだ。幼少から、人を殺す教育などされていないし、人としての倫理観も損なっていない筈だ。

 でも、殺らなければこちらが殺られる。そう自分を正当化して、人を殺し続けた。


「…………ティーゼを、助けないと」


 これだけ凄惨な光景を生み出したのは自分だ。そんな自分を、心優しい彼女は受け入れてくれるだろうか。……いや、きっと受け入れてはくれないだろう。

 例え受け入れられなかったとしても、それでも彼女を救えればそれで良い。

 そう思いながら、ネルは歩みを進める。一度レジスタンスの陣地へと帰還し、怪我の治療をしてから再び戦う為に。


(俺達は、こんな所で死ぬわけにはいかないんだ)


 傷を負い、苦しそうにしながらも闘志の衰えないヘルを担ぎ、ネルは歩き続ける。

 このまま諦めてしまえば、ティーゼの救出に遠退く。レジスタンスがこの戦いで半壊した今、もう次の機会は巡って来ないだろうから。

 だが、彼らの人としての生は、ここで終わる事となる。


「時間稼ぎご苦労、グラッド将軍。脳筋の貴様でも、少しは役に立ったようだな」


 背後から聞こえてきた声に、ネルは振り返る。

 そこに立っていたのは、戦場という場に似つかわしくない、白衣を纏った男だった。

 一見見覚えの無い風貌の男だったが、その男の義手を見て、はっとする。


「お前は…………!!」


 忘れもしない、二年前。ティーゼを攫う計画の主導者であった男。

 ──ユースティア帝国軍、軍事研究所所長、デロイ・バルバトス。


「ククク……!! 会いたかったぞ、化け物共……!!」


「お前は……お前だけは、絶対に許さない……!! ぐっ!?」


 不気味な笑みを浮かべる彼に即座に襲い掛かろうとしたものの、傷だらけの二人は体勢を崩して倒れ込んでしまう。


「如何に人間離れした力を持っていようとも、消耗してしまえばただの人間と変わらない! 貴様らが戦っていたのは、力尽きるまで力を振るわせる為だけに用意した雑魚に過ぎないのだよ!!」


 狂ったように笑い続けるデロイ。

 ネル達が戦った相手──グラッド・イグニス将軍は、確かに帝国軍最強の存在として名高い存在だった。

 だが、それをと表現する彼の姿に、底知れない恐怖を覚える。


(奴らは……まさか…………!!)


 ヘルの脳内に浮かび上がる、ある一つの研究。

 

 その名は、『Project Valkyria』。


 一つの器に複数の魂を注ぎ込み、『究極の個』を産み出すという悪魔の所業。


「聞け、帝国兵諸君!! 遂に我らが戦神が目覚めた!! これで、我らの勝利は揺るがない物となった!!! 貴様らの執念が、起動までの時間を稼ぎ切ったのだ!!」


 既に屍と成り果てた兵士達の上で、白衣の研究者が高笑いする。


「長きに渡って研究が行われた『Project Valkyria』は遂に実を結んだのだ!! もう何者にも脅かされる事の無い、千年帝国の時代が到来する!!!」


 ネルとヘル以外に聞く人間が居ない中、大げさに両手を広げながら演説を続ける白衣の男。

 そして、白衣の男が指を鳴らすと、その傍らに人の形をした穢れ無き純白の極光が舞い降りた。

 それを見たヘルは目を見開いた後、ぽつりと。


「………………?」


 純白から覗かせる金色の髪が、蒼穹を思わせる美しい蒼の瞳が。

 確かに、彼女がティーゼである事を確信させた。


「ティーゼ、ティーゼなんだね……。もう、僕の事も覚えて無いかもしれないけど……」


「……」


 奇跡が起きて彼女が戻ってくる事を懇願しながら、ゆっくりと歩み寄っていく。

 デロイはニヤニヤとした笑みを浮かべながら、手を振りかざした。


「さぁ行け、戦神よ!! その力を以てして、蛮族共を蹂躙するのだ!!」


 次の瞬間、ヒュゴッ!! と空気を切り裂く音が響き渡った。

 次いで、ボトリと地面に何かが落ちる音が聞こえてくる。


 ……落ちたのは、デロイの首だった。


「……え?」


 ヘルが、茫然とデロイの首を眺める。

 憎くて仕方が無かった仇が、すぐ傍に転がっていた。

 それを為したのが、他でもない彼女である事に、希望を宿す。


「ティーゼ、まさか、君は……!」


 意識を取り戻して、と言おうとした次の瞬間。


「【臨界突破オーバードライヴ】」


 純白の極光──ヴァルキュリアが何かを呟くと、純白のマナ粒子がその身体から噴出する。

 溢れ出した粒子がまるで天使の羽のように花開くと、力強く地面を蹴り砕いた。


「が、は」


 ヴァルキュリアの握るレイピアが、容赦なくヘルの腹部を貫く。

 ごっそりと腹部を消し飛ばされたヘルは吐血し、凄まじい苦痛に全身を震わせる。

 貫いた体勢のまま固まるヴァルキュリアの頬に触れるように、ヘルが手を伸ばす。


「……ティー………………ゼ……」


 何故とは問わない。

 彼は彼女の身に何が起きたのか知っていたから。

 知っていて尚……トラベラーの静止を振り切って尚、彼女の事を諦めきれなかったから。


 だから、その最期が彼女の手による物だったとしても……彼に後悔は無い。



「へ…………ル…………」


「っ」



 ──後悔は無い、筈だった。


 届いてしまった。本来であれば届き得ない彼の呼びかけに応えてしまった。

 その瞬間、ヘルは身を焦がす程の衝動に駆られ、歯が砕けんばかりに食いしばる。

 だが、既に人間として失ってはならない臓器の大半を失い、一秒毎に命が零れ落ちていく状態の彼は、満足に身体すら動かせやしない。


 ……だから。


…………よ……」


 しがない寂れた漁村の出身だ。神への信仰なんてロクにしていなかった。だが、今この瞬間、彼にとって縋れる物ならば何でも良かったのだ。

 例えそれが、かつて共に旅をした仲間の、だったとしても。

 彼女を救えるのなら、例え悪魔に魂を売り渡してでも救って見せると。

 そう願ってしまった。


「どう…………か…………僕……に…………奇跡…………を」

 

 生まれて初めて捧げた祈りを最後に、ヘルの瞳から色が消え失せていく。そのままゆっくりと事切れ、地面へと崩れ落ちた。

 ヴァルキュリアがそれを見届けると、顔らしき部分から雫が滴り落ちた。


「ティーゼ……お前……何やってんだよ……?」


 ヘルの傍に居たネルが絶望の表情を浮かべながら近寄っていく。

 事切れたヘルと、その傍らに佇むヴァルキュリアに視線を交互に向けると、震える声で呟く。


「本当に、変わっちまったのか? ……あの頃のお前は、一体どこに行っちまったんだよ……」


 力なく地面に視線を落とすネル。

 潰れんばかりに握られた拳は、目の前で弟を殺されるのを眺める事しか出来なかった自分への憤怒か、それとも恋心を抱いていた彼女が、その手で殺めたという絶望によるものか。


「やっぱり、もう、遅かったんだな」


 トラベラーに救うのは無理だと言われていた。だが、一縷の望みに賭けて、戦う事を選んだ。


 しかし、現実はとてもシンプルで──残酷な物であった。

 

 ネルはゆっくりとヴァルキュリアの下へと歩いていくと、両手を広げて無防備な状態をアピールする。


「……殺せよ、ティーゼ。……俺は、あいつと……ヘルと誓ったんだ。……お前を救うのは、二人で一緒にってな。……もう、約束は果たせない以上俺が生きている意味はねえ」


 視線に向けられた先には、既に事切れたヘルが居た。


「だが、諦めた訳じゃねえ。……ヘルがそういう選択をしたのなら、兄貴である俺が支えてやらないといけねえからな」


 そして、そのネルの望みを叶えるように……ヴァルキュリアはレイピアを閃かせて、ネルの首を貫いた。

 鮮血を振り払うように、レイピアを振るってから……その美しい頬に、一筋の涙が伝う。


「ネ…………ル…………ごめ…………ん……ね……」


 その言葉を最後に、ティーゼの魂はヴァルキュリアの魂に呑み込まれた。





(……ここは、どこだろう?)


 星々が降る、幻想的な空間。

 生ある者が最後に辿り着く領域……星の大海。

 ヴァルキュリアによって殺された彼らは、魂だけの存在となってこの場所へと辿り着いていた。


(結局、僕らは何も為す事が出来なかったんだね……)


 トラベラーと別れ、兄弟二人でティーゼの奪還に挑むも、志半ばで落命。

 こうなってしまうのであれば、トラベラーと最後まで戦い続けるべきだったのか……。


(いいや、僕らは僕らの生き方を選んだ。その判断に、悔いは無い)


 ヘルは星の海の流れに身を任せながら、一人ごちる。

 だが、それでも……唯一の心残りがあるとするならば……彼女が、まだ囚われたままだと言う事。



『汝らに問う』



 その時だった。

 自分の魂に直接語り掛けるように、声が聞こえてくる。

 本能が、その声の主に抗ってはいけないと警鐘を鳴らしていた。


『我が配下となって今一度生を願うか』


(…………は?)


 意味が分からなかった。

 既に死を迎え、星の海へと到達した時点で蘇生の可能性など無い。

 だと言うのにも関わらず、語り掛けてくる声の主は、それが可能であると言っている。

 そんなことが可能だとすれば、それは──。


(あなたは──)


 トラベラーの大敵……【粛清者】のみ。

 自分が生を終える際に行った最後の祈り……それが、届いていた。届いてしまっていた。


『先の戦いで、配下を随分失った。我が肉体も一度崩壊を迎え、今は傷を修復している最中だ。早急に、我が手足となる配下が必要なのだ』


 その言葉を聞いて、【粛清者】とトラベラーが既に戦っている事と、その勝敗について悟ってしまった。

 そして、彼が最後に行うと言っていた事が、成功しているという事も。


『どうだ。我が配下となれば、星の海から魂を掬い出し、肉の器を与えてやろう。……かつての仲間に刃を向ける覚悟さえあるのならば』


 このまま声の主の言う通りにすれば、それはトラベラーへの敵対を意味する。

 だが、そうであったとしても、彼らが足掻く理由は、たった一つしか存在しない。


(……分かった、提案を呑もう。だけど、一つだけ願いを聞いて頂きたい)


『……ほう?』


(僕達を……彼女に、ティーゼに会わせて欲しい)



 そうして、彼らは【双壁怪物】へと成り果てた。





『ああ、ティーゼ、ティーゼ! 会いたかった! ずっとずっと、君に会う日を待ち望んでいた!』


『……』


 片や島のように巨大な生物。片や人の身に納められた、膨大な量の魂の器。

 規模こそ違い過ぎるものの、内に秘められたその力はほぼ遜色なかった。


 巨大な生物……【双壁】ネラルバ・ヘラルバは、自身の鋏のような手を見つめながら考えを巡らせる。

 

(【粛清者】から与えられた力……『時間』と『空間』に干渉できる力。この力を以ってすれば、彼女を……)


 【戦機】ヴァルキュリアの器として使われてしまったティーゼを助ける事は不可能だ。

 だから、彼女の魂を解放するには、【戦機】ヴァルキュリアを殺さなければならない。


 【戦機】ヴァルキュリアを殺す手段は、二つ。


 一つは、彼女を正面からねじ伏せ、彼女の胸に存在するコアを破壊する事。


 そしてもう一つは、魂の劣化による自壊だ。


 幾ら機械に改造された器と言えど、寿命は存在する。

 だが、『Project Valkyria』によって幾万もの魂が注ぎ込まれた【戦機】ヴァルキュリアの寿命は、ざっと見積もって数百万年。とても、現実的な数値じゃない。

 だから、せめてその数百万を一瞬で終わらせられるように……ヘルは与えられた『時間』の力を振るおうとした。


(……怖気づくな。これが最後のチャンスなんだ。今やらなければ、ティーゼは永遠に等しい時を苦しみ続ける事になる!)


 ヘルは内心で彼女の為と言い聞かせ、行動に移そうとした所で……止まった。

 彼女の瞳が向けられたのだ。幼少から共に過ごしたその身体は成長し、彼らの知らない大人の物へとなっている。

 だが、その精緻な顔立ちは少女の頃の面影を残していた。だからこそ、彼らは手を止めてしまった。


 途端、幼少の頃からの思い出が脳内を駆け巡る。

 彼女の優しさが、彼女の笑顔が、彼女と共に過ごした時間が、彼らの決意をいとも簡単にへし折った。


(ティー……ゼ──)


 ──殺せなかった。


 彼らにとって誰よりも愛しい彼女を、自分達の手で殺める事など、最初から無理だったのだ。


 トラベラーと別れ、彼女を救う為に彼の敵側に回ったと言うのにも関わらず、この体たらく。

 この事を彼が知ればどう思うだろうか。……いいや、感情など存在しない彼の事だ、別にどうも思わないだろう。

 ただの敵として、対峙する事になるのが目に見えている。


(──ああ、そうだな)


 で、あるならば。


 いつかきっと、トラベラーは再び目覚める。

 何年待つ事になるかは分からない。彼がかつて言っていた言葉が正しいのならば、記憶も、力も失っているかもしれない。

 だが、それでも彼ならきっと──再び力を取り戻し、【粛清者】に挑むだろう。


(そうすれば、自ずと俺達はトラベラーの前に立ち塞がる事になる)


(僕達を滅ぼす事が出来ればきっと──彼女を終わらせる事も出来る)


 だから、今度は友では無く、敵として──その立ち塞がる。

 自分達に出来なかった事を、彼の手で成し遂げてもらう為に。


(すまない。トラベラー。……自分勝手な達を、どうか許してくれ)

 

 それこそが【双壁】ネラルバ・ヘラルバがトラベラーの前に立ち塞がった理由。再び目覚めたトラベラーを、【戦機】ヴァルキュリアを終わらせる事が出来る存在かどうかを見定める為に、三千年という永い時を抗い続けた粛清の代行者の全て。



 全ては、彼らの思い人──ティーゼ・セレンティシアを救う為に。


 



────


【補足】


因みにティーゼの父のアルゼンさんは本島からの移民。三千年前のサーデストの前身の街のお偉いさんだったけど視察に来たハーリッドで出会った村長の娘に一目惚れした結果、役職財産諸々全部弟に譲り渡して結婚。

元々お偉いさんで裕福な生活を送っていたのでハーリッドに移り住んでからは質素な生活を強いられたがすぐに適応した。

元々ハーリッド出身じゃないので身体を鍛えておらず、漁獲祭の時は沖に出ていなかった。その代わり役職についていただけあって有能だったため、彼が村長になってからはかなり村の生活が安定するようになった。


ネルヘル兄弟との別れの後、ティーゼ達の帰ってくる場所を作る為、街を興す事を決意。それから複数人の住民と共に街を生涯掛けて築き上げる。

そうして出来上がった街の名が、彼の姓である『セレンティシア』。

今や観光地となって名を広めたセレンティシアは、いつまでも彼女の帰りを待ち続けている。

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