19 泣かないで

 シャーロックはこのまま寒い浴室に立ち尽くしていても、どうしようもないと思ったのかどうなのか。何も言わずに私を抱き上げたままで、部屋のベッドへと進んだ。


 びしょ濡れのままで涙の止まらない私を、乾いた布で丁寧に拭いてくれた。自分も服を脱いで、また抱きしめた。人肌は温かくて気持ち良くて、彼のものだと思えば安心した。


「……どうしても、何も言えないの?」


 彼は子どもをあやすように髪を撫でて、優しく問いかける。そうされても、私は否定の意味を込めて首を横に振るしかない。シャーロックは、その様子を灰色の目を細め何かを見定めるようにした。


「俺に……言えないことが何か起きていて、エレノアにはそれを誰かに説明することが出来ない? 首を縦に振るか横に振るかだけで良い。それだけで良い。質問に応えてみて」


 真剣な眼差しに、私は涙をこぼした。これに応えてしまうことで、今までの何もかもがダメになってしまうかもしれないと思うと何も出来なかった。


「お願いだから、泣かないで……俺は頼りにならない? どうして……こんなに」


 シャーロックは、悲しそうに呟いた。悲しい。私も悲しい。これが最後の夜なのに、笑えない。そんなに良い子には、もうなれない。どうしてなの。そう言って泣き叫びたかった。これからもずっと一緒に居たいのに、それなのに。


「して……シャーロック……お願い」


 何度目かのお願いを口にした私を見て、彼は小さく頷いた。そうして交わしたキスは、涙の味がした。さっきからずっと私は泣いているから、当たり前だけど。


 その時にしてくれた愛撫は、長い時間をかけて焦ったいくらいに丁寧だった。いつも優しくて、気遣ってくれるけれどそれ以上に壊れ物を扱うように丁寧だった。彼から見れば、私はもう壊れてしまっているのかもしれない。これ以上は、壊したくないのかもしれない。自分だけをただ直向きに大好きだと笑う彼女は、もう居ない。


 とても、気持ち良いはずなのに。自分がしてと頼んだはずなのに。


 まだ涙が止まらない私が、何度も最後までして欲しいと最中にそう言ったから。彼は真剣な顔のまま動いて果てた。


「エレノア……エレノア……大好きだ。愛してる。どうして、泣いてるの? 教えて、エレノア」


 彼は何度も何度も、私が泣いている理由を知りたがった。


 シャーロックが楽しみにしていたからと、そう思って一緒に来たけれど。この旅行には来るべきでは、なかったのかもしれない。


 今思えばシャーロックには何も悟られないように、手紙を書いて彼の住んでいる王都から去っていれば良かったのだと思う。そうすれば、探しても見つからない少しの間付き合った女の子なんて、すぐに忘れてしまうはず。


 だって。どう考えても、円満に別れるなんて無理だ。私は彼がとても好きで、絶対に別れたくなくて。それなのに、別れる事を選んだことになる。


 そして、帰ってしまえば、彼ではない別の人との結婚式が待っている。それは、既に決まっていることだ。


「……私も……」


 泣き疲れた私は、いつの間にか意識を失って眠ってしまった。その夜ずっとシャーロックは、辛そうだった。付き合ってからずっとこんなに大事にしている恋人が、自分には何も言わずに泣いているのだから。それは当たり前の事だけど。


 明け方近くの薄闇の中で、ふと目を開ければ隣に寝ていたシャーロックも、泣いていたのかもしれない。頬に涙の跡があったから。


 彼を起こさないようにと、声を押し殺してまた泣いた。


 どうすれば良かった? お祖父様を、見捨てれば良かった? もし、ブレアさんが考えていることの裏をかけるくらいの知恵や権力を、私が持っていたら防げた?


 私がもっと強ければ、シャーロックを諦めなくて良かった?


 けれど、私はお祖父様を見捨てられない。ここで意志を翻して彼に泣きつけば、どうなるかなんてすぐに予想がつく。


 私に彼と別れた後の、今後の事を説明しに来たブレアさんは、聞いていないのに自分の身の上を話してくれた。


 彼女は王都でも有名な、大きな商会の跡取り娘。父親は彼女に甘く、取引先の選定などに口を出しても特に何も言わずに聞いてくれるらしい。お祖父様が代表をしているフォックス商会の大のお得意様で、もし私が何かおかしな事を考えるようなら、取引を打ち切った上で顔見知りの商会にも悪い噂をばら蒔くと言われた。


 最初から、出会わなければ良かったのかもしれない……ただ彼を好きなだけだった。初めての恋に浮かれて、こんな風になることをまるで想像もしなかった。


 何よりも大事な彼を傷つけて、私の恋はひどい終わり方をしてしまう。




◇◆◇




 朝早くに馬車を予約していたおかげで、予定通りに昼までには家に到着することが出来た。


 シャーロックは無言のまま難しい顔をして、私の旅行鞄を手渡した。きっとわかっている。私が彼に、何かを言うタイミングを図っているのを。


「……別れたいの」


「なんで?」


 静かに切り出した私に対しシャーロックの整った顔は、無表情だった。別れを告げられたと言うのに、特に動揺もしていない。あれだけ、旅行の間中にそれらしい兆候があったのだから、聡い彼にはきっと予想通りの展開だったのだと思う。


「他に好きな人が、出来たから。貴方も幸せになって。シャーロック」


 私は出来るだけ、笑ったつもりだ。無理な笑顔になっていたのは、自分でもわかっていた。けれど、これが今私に出来る限界だった。


「君がそれを、本当に望むなら。俺は受け入れるよ」


 シャーロックは、とても真剣な顔をしていた。彼は約束を違えたりは、しないだろう。そういう人だからこそ、私は好きになった。


「本当よ」


 嘘よ。けれど、シャーロックがそれを知るのは、きっと何もかもが終わってから。


 私が自分の言葉を肯定したのを聞いてから、シャーロックは一度頷いてから背を向けて行ってしまった。


 自分がそれを望んだはずなのに、また泣けてきた。もう、彼は戻って来ない。シャーロックは、すぐに私の代わりを見つけるだろう。私より可愛くて条件の良い子なんて、いくらでも居るんだから。


 荷物を持って、階段を昇り部屋に辿り着くまではなんとか我慢した。けれど、扉を開け久しぶりの空気の籠った自室に入ってしまえば、もう無理だった。大きな声をあげて、遠慮なんてせずにわんわん泣いた。


 自問自答を何度繰り返しても、どこでどうすれば、彼とまだ付き合えていたかなんて、もうわからない。


 明日の結婚式で泣いている私を見て、ブレアさんはきっと満足してくれるだろう。新婦が泣きっぱなしの結婚式なんて、参列したこともなければ聞いたこともないけど。


 どうか、本来なら自分に手に入らないものを願った私を、それで許して欲しい。

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