18 旅行

 シャーロックは、その決定的なことがあった日から数日後に出発する予定の旅行に行くのを、とても楽しみにしていた


 私も彼が傍に居る時は、なるべく笑顔でいるように慎重に心掛けた。そうでもしないと、今にも溢れそうになる涙が自然に流れてしまいそうになるから。


 彼と一緒に居られる時間は、これから海の見える街に滞在する旅行から帰る、その時まで。それまで一瞬でも、どんな表情も見逃したくなかった。私がここで悲しみに負けて泣いてしまえば、何もかも台無しになってしまう。


 ブレアさんは、剣術大会のあの時から時間をかけて周到に計画していたかのように何もかも準備万端だった。私の未来の夫になる人の事も、経歴などをこの前に詳しく説明していたけれど良く覚えていない。心が、今のこの状況を理解するのを拒否していたのだと思う。


 ゆったりとした長距離専用の馬車に乗って海の見える街に着いて、荷物を宿に預けてまた散歩に出た。


 シャーロックは物珍しい旅行先の街の様子に、興味津々だ。


 以前から来たいと思っていたという、古い建築技術で造られた教会にも感動しているようだった。


「すごいね」


 そう言って微笑んだいつもと違う私に、浮かれた様子をしていたシャーロックは少し眉を寄せて近くへと寄ってきた。


 なんでも、有名な建築家が設計したのだと言う多くの時間が経ち古びて苔むした教会は歴史を感じさせる趣を持ち美しく、通常の状態の私なら目を輝かせて喜んだと思う。


 彼の前ではそうするべきだとは、頭ではわかってはいた。上手く演じられれば良かったんだけど、生憎私にはそういう器用な演技力は持ち合わせがない。


 シャーロックは、元気のない様子の私を気遣うようにして旅行に出発してから何度も口癖のようになっている言葉を言った。


「どうしたの。エレノア……なんか、変だよ。何かあった?」


「何でもないよ。大丈夫だから」


 そうして、お決まりのようになっている言葉を返した私を心配そうにして見る。


 聡い彼は、私に何かがあった事をわかっている。真っ直ぐに見つめられ、心まで見透かすような灰色の目を持つ彼を騙すことになるのは、私自身だって本当に不本意だ。


 シャーロックは頑なな様子を見せる私に対し、決して無理強いはしなかった。きっと、何か言いたいことがあるんだろうけど、いつかは話してくれると楽観的に判断したんだと思う。


 それも、そうなっても仕方ない。私がどれだけ彼を好きか、出会ってからこれまでずっと何回も何回も率直に伝えて来た。これで、伝わらなければおかしいと思えるほどに繰り返しで。


 そんな私がいきなり自分と別れたいなどと言い出すなんて、シャーロックは夢にも思っていないはずだ。


 彼は私の中の葛藤など、知る由もない。何も言ってないのだから、何も知らない。騎士としての鍛錬を積んだ彼は多少の魔法の覚えもあるようだけど。どんな魔法だとしても他人の心を読むことなど、出来ない。私の心の中を、知っているのは私だけ。


 それでも、どこかで願ってしまう。


 他でもないシャーロックが、私を助けてくれたら良いのにって。けれど、私から今自分が居る窮地を明かすことは出来ない。それを知ればブレアさんは、容赦なくお祖父様の商会を潰すために方々から手を回すはずだ。


 だから、何も言えなかった。


「……じゃあ、行こっか。美味しい料理屋さん、あの通りにあるらしいよ」


 本日泊まる宿の人から聞いていた情報で、おすすめのお店を聞いていた。シャーロックは気を取り直すように優しく微笑みつつ、大きな手で私の手を包み込んだ。


 今まで知らなかったけれど恋は信じられないほどの幸せを人に与える代わりに、胸を抉られるようなひどい痛みを与えることもある。


 私は、まだ幸せなのかもしれない。これはどうしようもない理由なんかじゃない。シャーロックの心変わりでもなんでもなく、別れる理由はただ私の家族の事情でしかない。


「あ。見て、鳥が飛んだ」


 彼が指差したその先から、白い鳥が教会の屋根から飛び立った。何故か私は、その鳥に大好きな彼から離れていく自分の姿を見たような、そんな気がした。




◇◆◇




 短い旅行の日程は、明日でもう終わる。


 まだ、新人のシャーロックが同僚の誰かに仕事を代わって貰うのにも限界があった。また次の機会があると思っている彼と、もう最後だと思っている私。旅行中ずっと。なんとも、噛み合わない気持ちのすれ違いだった。


 下調べをしてくれた彼が部屋を取ってくれた宿屋は、いかにも女性の好むような可愛らしい内装だった。私が気分よく過ごせるように、いつも気を配ってくれる。


 何も知らない彼が荷物を置いたのを見ながら、私はこの夜がシャーロックとの最後の夜になるんだなと自分勝手な感慨に耽ってしまった。


「エレノア? お風呂に入る?」


 優しいシャーロックはその眼差しを見ればひと目でわかるほどに私を大好きだし、そして信頼してもくれている。今は何処かおかしいくらいに元気のない様子でも、自分にはいつかそれを明かしてくれると思い、事情を聞くことには時間をかけるつもりなんだろう。


「うん」


 私は短く頷いて、浴室へと入った。


 猫足のついた湯船に浸かりながら、もうこれで最後なんだと一度実感してしまうと、気を抜いてしまったせいか、涙がぽろぽろと流れて来た。


 いけない。ここまで我慢出来たのに、明日別れる時に「私たち、もう別れましょう」って言うだけなのに。


 込み上げる嗚咽を両手の中に押し殺しながら、泣いた。


 もう明日になれば、私たちはなんの関係もない他人になる。


 私からシャーロックとの、関係を断つ。彼は何も悪くない。けれど、ただただ魅力的過ぎただけ。どんなに汚い手を使ってでも、どうしても欲しいと思われるほどに。


 自分には過ぎた人だったのだと、何度も自分に言い聞かせたはずだ。それで、大人になった私は大方納得をしていた。けれど、心の奥にいる子どもの姿の私はずっと泣き叫んでいた。彼を取らないで、私の恋人なのにって。


 どうにか暴れ出しそうな心の中を落ち着かせるために、私は時間を使い過ぎたのかもしれない。


 いきなり蹲っていた湯船から抱き上げられて、ぎゅうっと服を着たままの彼に力を込めて抱きしめられて、また大きな声をあげて泣いてしまった。


「エレノア? どうしたの? ……こんな、こんな風に、一人で泣いているなんて。俺には話せないの?」


 心底心配そうな顔を見合わせて問いかけられても、私は黙って首を振るしか出来ない。


 私はもう目の前に居るシャーロックじゃなくて、お祖父様を守ることに決めたから。


 恋なら、またすれば良い。シャーロック以上の人なんて、きっと世界中探しても何処にもいないけど。


「……シャーロック……したい……して」


 私が首元に抱きついてそう言ったら、服を着たままで濡れた私を抱えた彼は大きな目を揺らして戸惑っていた。こんなにぼろぼろと泣いている女の子に対して、そういうことをするなんて無理だ、という思いは伝わって来た。


「エレノア。待って。俺も、したくない訳じゃないよ。けど、すこしだけ話をしよう」


「……して!!」


 また大きな胸に顔を当てて泣いている私に対し、彼は言葉を失ってしまった。無茶苦茶なことを言っているのは、わかっていた。


 けれど、シャーロックとはもうこの夜で最後だった。きっと、この時のシャーロックの温もりや笑顔を思い出しては、ずっとずっと泣いてしまうだろう。


 私はもう、彼の事以外何も考えられないだろう。旅行から帰って翌日、ブレアさんが用意した私のことなど知りもしない可哀想な男性と結婚したとしても。どんなに優しく心を砕いて、何をされたとしても。


 きっと、もう一生。シャーロックしか、誰かを好きになんてなれない。


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