09 贅沢な悩み

「ノア……エレノア? エーレーノア?」


 私はルイーズの呼ぶ声にはっと気がついて、顔を上げた。そこには、呆れた顔の同僚ルイーズの可愛い顔。


「ご、ごめん! どうしたの?」


 ここは職場で、私は残業を終わらせてちょっとだけ休んでから帰ろうとしていたはずだ。また大好きなシャーロックの事を考えていて、彼女の言葉を聞き逃したのかもしれないと慌てた。


 サリューの出張から帰って来て、もう三日経っていた。シャーロックは、例のある人物の見張りの仕事の続きがあるようで、帰る時に送ってもらって以降会っていない。


「ううん。もう終業時間も過ぎてだいぶ経っているのに、まだ帰らないのって思っただけ。また例の可愛い次の銀狼の事でも、考えていたんでしょ」


「っ……うん。そう。最近……私の祖父に、挨拶に行きたいって言ってくれているんだけど……」


 ルイーズも残業を片付けた後、物思いに耽っていた私を見て声をかけてくれたらしい。月末はなんだかんだと締め日があったりして、忙しい。完全に帰る格好のルイーズに続こうと、机の隣に置いてあった鞄を取り出して、立ち上がった。


「え。もう、家族に挨拶に行くの? この前に付き合い始めたばっかりでしょう?」


「……うん。そうなんだけど……私はシャーロックと結婚したいって言ったら、彼も張り切ってくれて嬉しいんだけど。婚約だけでもしとこうっていう話になったの」


 私たちが仕事している部屋の灯りを消したルイーズと一緒に、商会の階段を降りる。もうかなり遅い時間だから、窓の外はだいぶ暗い。いくら忙しい時期とは言え、この商会の建物の中に残っている人は少なそう。


「エレノアは、シャーロックくんの事が好きなんでしょう? 彼がその気になってくれているのに。なんで、そんなに浮かない顔をしているの?」


 ルイーズの疑問は、尤もだった。


 私はシャーロックの事を、どうしても離したくない。絶対にこの関係を結婚まで持っていきたいし、なんならお墓に入るまで一緒にいたいくらい彼が好き。初めて彼を見てからただただ膨らんで行くだけの思いは、毎日会うルイーズには良くわかっているだろうと思う。


「……うちのお祖父様に会ったら……もしかしたら、結婚を嫌がられるかもしれないと思うと……怖くて」


「……え? あの、ごめんなさい。エレノアが話したくないのなら、別に話さなくて良いんだけど……エレノアはそのお祖父様に育てて貰ったって、言ってたわよね? ……あまり、恋人には会わせたくないタイプの、方なのかしら」


 階段を隣り合って降りつつ、ルイーズはかなり言葉を選んだようだった。確かにこういった身内の話は、仲が良いとは言え、取り扱い注意で気遣いの出来る彼女は踏み込んで良いものか迷ったのかもしれない。


 けれど、これを話さなければ今私が何で悩んでいるのかを、説明出来なかった。


「……あまり、まともな会話が出来る人とは言い難いの。お祖父様は未だ現役の商会長をしていて、私が憧れていたここの商会に入るって言った時に激怒して……勘当同然に、家を出されたの。幼い時からずっと、私に自分の商会のために役に立つ教育を受けさせ、お祖父様のお気に入りの部下と結婚させようと思っていたから。あの人にとっては……自分の思い通りにならない孫なんて、要らないのよ」


 お父さんと海で事故に遭い一緒に亡くなってしまったお母さんは、この国イルドギァではそこそこ大きな商会の跡取り娘。そして、お父さんは大陸から来た船乗り。お祖父様に結婚を反対され、隣国ヴェリエフェンディに二人は駆け落ちをした。


 訃報を聞いて、子どもだった私一人だけ取り残された家に迎えに来たのは、唯一の肉親のお祖父様だ。


 引き取られ、幼い頃から来る日も来る日も勉強漬けだった。


 私の母である一人娘を喪ったお祖父様は、遺された孫娘はどうしても思い通りにしたかったのかもしれない。家庭教師を何人も用意して高度な教育を受けさせた。お陰で何か国かの言語を話すことも出来て、今の商会に入る能力を身に付けさせてくれたことには感謝している。


 けれど、私には子どもらしく遊ぶことも出来ず、恋愛なんて以ての外。シャーロックと出会うまで、誰とも恋なんてした事がなかった。そもそも、屋敷の外に出ることも少なかったから誰かと出会うことなんて、なかったのだ。


「……それは、彼には?」


「ううん。この事は、まだ話してないの……もうちょっと、仲を深めた方が良いかなと思って」


 ルイーズは商会の出入り口に向かう廊下を歩きつつ、少し時間を置いてから静かに言った。


「……エレノア。きっとシャーロックくんの方も、エレノアをなんとか繋ぎ止めたいと思っているんじゃないかしら。けれど、彼だってまだ今年入ったばかりの新人だもの。誰がどう考えても、結婚するには時期尚早だし、ある程度の準備も要るものね。だから、彼が肉親に会っておいて挨拶をして外堀を埋めたいというのも、理解が出来る気がするわね。けど、だからってエレノアがまだ話したくないことを無理に話すのも、良くないと思うの。新人騎士の立場は、あの子にはコンプレックスかもしれないから。すごく頼りにしているわとか……あんまり頻繁に言うとおかしいけど……彼が安心出来るような言葉を言える範囲で、言ってあげたら喜ぶんじゃない?」


「うん。ありがとう。ルイーズ」


 ルイーズは、優しくて聡明な人だ。自分には全く関係のない益体もない悩みをきちんと聞いてから解決策の提案まで、してくれた。


 もし、シャーロックと結婚するのならば、彼と私の肉親の祖父との対面は避けられないだろう。彼の家は代々銀狼騎士団団長だという由緒正しき家系だと言うし、彼の両親だって会うことになる。


 私の肉親を知られて、シャーロックや彼の大事な人に嫌われてしまうのが怖い。


「……あら。なんだか見たことのある、お二人さん。こんな所でお揃いでどうしたの?」


 顔を俯かせていた私は、ルイーズの揶揄うような声に顔を上げた。


「シャーロックっ……! イグナスくんっ?」


 私は思わず驚きの声をあげた。商会のすぐ外に佇むように、二人の背の高い男性たちが待っていた。


「ルイーズ……エレノアさん、二人ともやけに遅くない? イザベルさんは、結構前にレオポルトと帰っちゃったんだけど」


 久しぶりに見る、ルイーズの彼氏イグナスくんは、実は大家族の末っ子で甘えん坊なところがあり、しっかり者のルイーズと相性抜群らしい。


「ルイーズさん、こんばんは。エレノア……お仕事お疲れ様」


 私の傍にすぐにやって来たシャーロックは、特に気にした様子もなく、いつも通り。イザベル先輩は、定時に帰っているから二人ともかなりの時間、ここで待っていたことになる。


「ルイーズ、俺。本当に腹が減って動けない」


 イグナスくんは若干呆れた顔をするルイーズの背後から抱きついて、甘えるように訴えた。


「……じゃあ、ご飯でも行きましょうか。エレノア、シャーロックくんはどうする? 一緒に行く?」


「あ。ルイーズさん、俺早くエレノアと二人になりたいんで、皆で一緒に飲むのはまた次回に」


 にこにこと悪気ない笑顔で微笑みつつ、そう言ったシャーロックに苦笑して、ルイーズは背中にイグナスくんを貼り付けたまま私に手を振った。


「……シャーロック。当分忙しいって言ってなかった?」


 去っていく二人の背中を見ながら、すぐ隣に居る人を見上げる。彼はこの前の仕事が片付くまで、当分は会えないから辛いとそう言っていたはず。素敵すぎる彼に恋をしたために、甘くてピンク色の部分が目立つ私の記憶が間違っていなければ。


「確かに、仕事は忙しいけど。少しの時間があれば、俺はエレノアに会いたいんだ。ダメだった?」


 世界一好みの男性から首を傾げてこう問われれば、ほとんどの人はこう返すと思う。ていうか、私は絶対こう返す。


「だっ……ダメな訳……ないよ。私も、すごく会いたかった……です」


 上目遣いで見上げると、彼は軽く吹き出して微笑んだ。


「ふっ……なんで、敬語? じゃ、俺たちも行こう。お腹すいたよね?」

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