第42話 対話

 ツルギたちが反攻作戦を開始した頃、アリッサはクリアのエリート兵コルト大尉がされていたのと同じように、敵対的な組織に拘束され、生殺与奪の権利を自分以外に委ねさせられる事態に陥っていた。

 大尉はツルギとの交渉において、軍事組織の教練過程で身につけた知識に基づき、第一を情報漏洩の阻止、第二を危機的状況からの脱出を優先順位とした行動をとっていたのに対し、アリッサの行動指針は自己中心的ない目的の達成最優先とし、その言動は敵対組織からしても常軌を逸していた。


 アリッサが雑貨店でタバコを購入したところまでは日常生活で、その店を出た直後、路地裏から飛び出してきた男と遭遇し、その先に路駐されていたバンから別の男に背後から銃を突きつけられた。


 アリッサは素直に両手を肩の上まで上げて、「OK。これドッキリよね?」と呟いた。


 誘拐を企む者と狙われた者の恒例のやりとり「騒ぐと殺す」を経て、目隠し用の袋を被せられた彼女は車に押し込まれ、素直に拘束されて今に至る。


 彼女は今、車で小一時間ほどかかるどこかに連行され、手足に手錠、その手錠は金属製の椅子に、その椅子はコンクリートの地面にボルトで強固に打ち付けられ、身体の自由は完全に奪われていた。


「うーん。そろそろこの袋は取ってもいいんじゃない?」


 バフ、バフと被せられた袋そのものが呼吸しているように話すアリッサ。

 そんな彼女の視界を覆っていた暗幕が突如として牙を剥き、顔面を殴りつけた。


 ゴッ! 「——ッッ!?」


 視覚を奪われての予測出来ない拳骨が彼女のこめかみを打ち抜いた。


「コールマン。お前は落とし物を拾ったはずだ。それを返してもらう」


 絶妙な加減で全身に伝わる衝撃と痛み。こめかみを殴ったのは失神や脳震盪で意識を失わさず、苦痛を与える為の打算的な尋問の選択だ。


「あー、目が覚めた。

 えっと……拾ったわ。しっかり警察に届けたわよ。……確かあんたの乳歯だったわね」


暗闇が再びアリッサを殴りつけた。


「早く話せばそれだけ楽に殺してやる。積荷の在処を吐け」


「私は知らない。協力者が隠したわ」


「それは誰だ?」


「あんたの彼女。寝顔はキュートだけど、ちょっと本命には厳しい顔のあの子よ」


アリッサはそう吐き捨てながら暗闇を相手に嘲笑を見せ、再び拳での答えを浴びせられる。

 その拳には感情が乗り始めあと数発続けたら脳に損傷が出かねない。

 しかし、アリッサにとってのそれは致命的な問題であるにも関わらず重要な問題ではない。

 彼女はわざと殴られているが、この殴ってくる雑魚に構う気はなかった。


「……あんた、父親に殴られて育ったでしょ。父親がクズで、馬鹿が母親の家庭で育った奴の殴り方だ。痛みより憐れみが勝っちゃうじゃない」


 拳打の為に拳を固めるグローブの衣擦れを聞き取ったアリッサは、それを自前の人質を使って制止する。


「待った。いま私は自分の痛覚抑制をマイナスにした。行き過ぎたドMでも引くくらいの感度にね。

 ここからは丁重に扱ってくれないと簡単にショック死するわよ」


 アリッサのはったりが振るわれる寸前の拳にブレーキをかけた。

 そもそも情報を吐かせるための拷問で対象を殺してしまっては、それは大きな損失をもたらす失敗だ。

 だから、生かさず殺さず、苦痛と絶望そのもので精神の首を締めるようにして対象の理性を破壊しなければならない。

 この前提をアリッサは言葉のブラフで崩壊させてみせた。


「そうそう。自制心は重要よ。あなたは私を2度も殴った。女である私をね。つまりあなたは婦女暴行犯だ。しかも、拉致監禁に、私を盗人って根拠もなく貶めた。

 あんたには50年はムショに入ってもらう。後一族郎党首吊るまで賠償金ももぎ取るから、覚悟しといて」


 自分を人質とした安全圏に立つアリッサがどんな言いたい放題をしても制する者はいない。

 一見調子に乗っているだけのような彼女の態度には明確な狙いがあった。

 まずこの尋問官はどれほどアリッサが挑発したところでムカついたから殺すなどと幼稚な選択をする人物ではない。

 もしそうであれば、計画的な誘拐の行う実行犯には抜擢されず、それだけの能力を有する組織に属する事は出来ない。

 この男は人を簡単に殺す事が出来るだろうが、それを選択肢の一つとして選んだ場合にのみ実行する。

 だが、この確信は逆説的に彼がいずれアリッサの口を割ってみせる可能性も認めている。アリッサにとって扱い安い存在であるが、それはそれとして天敵である事は変わりなく、この人物と長く付き合うのは得策ではなかった。

 だから、彼女はあえて傍若無人に振る舞う事で、この男ではアリッサを制御できないと客観的に見せつける必要があった。

 目論み通りの判断が下れば、これだけ指揮系統がしっかりした組織であれば、必ずその上の者が姿を現す。

 彼が熱心に仕事を遂行し、アリッサがそれに耐え続ける事は、結果的に男の役不足を際立たせる事になる。


「おい。そっちのメモ係。雰囲気で役立たずってわかるけど、今のはしっかりメモしといてよ」


 アリッサは気配で感じ取っていたもう1人の存在にも因縁をつける。

 拷問は基本的に1人では行われない。尋問する者同士で双方がお互いにやり過ぎないように監督し、時として飴と鞭のような役割を持たせて情報を引き出すからだ。

 2人セットで行動しているなら、そのユニットごと役立たずと烙印を押してもらわなければならない。


 「貴様……——」


 どちらかが軽くキレ、もう片方がそれを抑える気配。

 それと同時にアリッサの正面数メートルの位置で金属同士が擦れるガチャンという音がした。


「ふん。ボスのおでましだ」


「なんで嬉しそうなのよ。あんたの無能さがボスにバレたのよ?」


 部屋に元の2人とは別の2人組が入ってくる足音が響く。

 それに連なる動作の音は、アリッサにいくつかの情報をもたらす。

 扉はカンヌキで外側からロックされる重厚な金属製で、蝶番が錆びつきかけている。

 音の反響からして、部屋は数畳ほどの広さの打ちっぱなしコンクリート。

 つまり、逃走経路は1箇所しかない。


 そんな事を脳に詰め込んでいると、唐突に彼女の頭を覆っていたボロ袋が剥ぎ取られた。

 暗闇から放り出された彼女の目に予想通りの殺風景な部屋と、彼女にとっては目も眩むほど明るいが、部屋全体を申し訳ない程度に照らす天井の裸電球が映る。

 そして、アリッサを無感情に見下ろす壮年のアジア人男性が正面に立っていた。


「私を知ってるかね?」とアジア人は顔を傾け、整髪料で軽く撫で付けられた白髪混じりの髪が電球でぼんやりと反射する。


「……自己紹介もしない非常識人間。口ぶりからして実力より年功序列で今の地位にいる………名前はスドウ・レイジ」


 断定は推理ではなく、アリッサは予めスドウ・レイジの顔写真と公の情報は記憶している。

 ただその本人が姿を現す事は想定外。内心では驚いていたが、それの影響が表情に到達する前に押し留めた。


「君はなかなか破天荒な人物のようだ」


 アリッサの自制心が本心を上手く隠し通した結果、スドウはアリッサの様子を端的に述べる反応しか示さなかった。


「いいえ。これは虚勢で、ほんとはとっても繊細」


 アリッサは懐っこい笑顔を見せたが、スドウは眉一つ動かさず、人を物とみている冷たい目線と、偏屈そうな薄い唇を僅かに動かした。


「本題に入ろう。君が盗んだのは私の作品だ。すぐに返すのならこれ以上手荒な真似はしない」


「そんな言葉を信じろと?」


「信じる他に選択肢は無いと思うがね。実際、君が何を知っていようが私には心底どうでもいい。

 だからこそ口封じの為に殺そうとは思っていない。

 ……ただし、これは私の作品を返せばの話だがね」


「私を殺せば取り返せないでしょうが、馬鹿」


「他にも方法はある。ただ君に聞くのが1番手っ取り早いからそうしているだけだ」


「じゃあ、その別の方法とやらで試してみたら?」


 のらりくらりとした質疑応答に博士が苛立つ様子はなく、アリッサという存在には全く興味を抱かないままただただ言葉だけを交わし続けた。


「何故、君の居場所を突き止められたと思う?」


「今となっちゃ関係ないわ」とわざと手錠をぶつけ、音を加えて今の状態を強調した。


「そうも言えない事だ。

 君は私の作品を起動させたのだろう。そして、それが君の居場所を教えてくれた。

 自分の居場所が特定出来なくとも、見聞きした情報から君の行動パターンを予想したらしい」


 敵の捜索能力を見誤ったと考えていたアリッサにこの事実は衝撃的だったが、同時に納得する事もできていた。

 ナナが殺意未満の害意をもってアリッサの居場所を敵にバラした。仕返しとして確かに一番ユニークで強烈だろう。

 だが、アリッサが抱いたのはその事実が生じる段階においての疑問だった。

 仕返しとしてはナナ自身が被るリスクも大きい。自分が見つけられる可能性があり、そうすればツルギもただでは済まないと考えるのが普通だ。

 そんな事を彼女が見落として目的を優先するだろうか?

 アリッサには、彼女がそれを見落とすとは思えない。ならば、仕返しは目的達成の過程に組み込んだジョークだ。

 アリッサを敵に売り、敵にはアリッサを生きて捕まえなければならない状況だと売り込んでいるのだから、目的はやはり誰かの死ではない。

 

 アリッサはそこまでを暫定的に結論付けると、内心で“後は本人に聞こう”と呟いた。

 そして、彼女の舌は狡猾にも博士のシナリオに従ってセリフを選んだ


「そんなはずないわ。あの子がそんな事するはずない」


 アリッサの声は、自己採点で100点の驚きを噛み殺し損ねた震え声を演じ、その評価は自惚れでなく博士の口元を蔑みで歪ませた。


「では、どうして、君があの雑貨店からタバコを買って出てくるのは待ち構える事が出来たと言うんだい?」


「あの子はそんな事しないわ。だって………」


 アリッサはセリフの途中に、アドリブで声を詰まらせ俯むくと、そこで行動に緩急をつけ、見上げるようにして博士に乾いた笑みを浮かべた。


「その情報を送ったのって私なんだもの」


「——何だって?」


 有利不利の立場が入れ替わる。博士の自信は土台から亀裂が入り、対照的にアリッサは虚構の基礎を瞬時に築く。


「私も雇われてる身なんでね。どーしてもあなたと接触する必要があったわけ。

 驚いた? とんだ飛び込み営業でしょう? 

 そう言う事だから、私の質問に答えてくれて、私を生きたまま解放してくれるなら、彼女の居場所を教えてあげる」


「…………」


 博士と称される者がどれだけ博識であろうともこの状況にすぐには理解が追いつかないだろう。

 そしてアリッサにとってこの虚実の梁で作られた空白をいかに現実っぽく見せ続けられるかに自分の命運がかかっている。

 即席で考えた嘘である以上、過去の言動とは一貫性に欠け、疑念から看破に通じそうな矛盾点もそこかしこに散らばっている。

 その一貫性のほつれは、アリッサにとって心臓に仕掛けられた時限爆弾とも言えるが、それをけしかけたのも自分自身で、それを認識しているのは彼女だけだ。

 それならばと、アリッサが取った手段は、彼の頭から少し考えれば分かるような事にすら、思考のリソースを割けないようにする事だった。


「悩んでる暇はないわ。あとギリ1時間くらいでタイムオーバー。あなたの傑作はジャンクスクラップになる」


「なんの話だ?」


 アリッサが時間に制限がある事を示唆したのは、通販番組でよく見られる“先着10名様は送料無料”と同じ手法だった。

 明確なタイムリミットが存在し、それを経過した場合のデメリットが提示されると、人間はそこに意識を奪われ、客観性を見失い自身の中で論点をズラしてしまう。

 まして、博士はアリッサの素性を把握しておらず、まだ彼女の言葉のどこを疑うべきか見抜けていない。

 この間にもアリッサが口先で作り上げた砂上の楼閣は、彼女の口添えでみるみると拡張されていく。


「保険を掛けててね。

 私がとある業者への定期連絡を怠ると、その業者は冷凍パックのケースから“生肉”を取り出して、“精肉”にするように話をつけてある。

 まぁ、どうしてもこの私の思惑に乗りたくなくて、私の秘密を、私の肉体と同じ墓に入れたいと言うのなら、あなたが取り返したい物は、明日の朝ドゥイアンのチャイナタウンに並ぶ事になる。

 そうね。肉饅なんかを全部買い占めれば…。よっぽど返ってくるんじゃないかしら」


 ドゥイアンのチャイナタウン。これは隠語ではなくネオンシティに存在するれっきした地名だった。

 企業も公共機関を公には立ち入らない完全な無政府状態であり、ありとあらゆる犯罪が横行するネオンシティでもトップレベルに危険な地区であり、ネオンシティに来訪するものは必ずしもこの地区に近寄らないように警告される。

 アリッサはこの誰もが黒い噂を知っている地名から虎の威を借りた。そして、博士は彼女が狐である事を知らない。それは博士を警護する傭兵たちも同じだった。


「他に手はないようだ。いいだろう………君の目的はなんだ?」


 アリッサは満足そうに目を細め、後ろ手に周されて拘束されている手をパチリと鳴らす。


「ヤモリ・ツルギというサイボーグをご存知のはずだ」


 アリッサは発端となった計画を再利用して、まずツルギに関する情報を引き出そうと試みる。彼女がツルギの事を優先したのは数パーセントの報恩と、生きて帰った後ツルギを宥める必要があると確信しているからだった。


「……聞き覚えがないな」と博士はそっけなく答える。


「あるはずよ。無くてもあるって言ってもらわないと、ディーラーである私はあなたに何も売らないからね。

 ヤモリ・ツルギ。豊枝であなたも関わったサイバネティクスの試作機で女兵士。

 朝鮮半島へ派遣されていて、その紛争の末期に壊滅した部隊の生き残りよ。本当に知らない?」


 名前は所詮個体識別の為の記号に過ぎない。

 アリッサもそれは承知の上で、だからこそ同列に並べる特記事項を、恩義せがましい追加情報として提供していた。そうする事で博士に、一瞬でも“手札がない”と焦られ精神的に困窮させ、恩に恩に答えようとする人間の習性にも付け入る事を狙う。

 

「……82号。新社員育成計画被験体番号82号か。確かに彼女の受け入れ先ではヤモリかイモリとかのあだ名で呼ばれていたな」


 アリッサは博士の答えを完全には理解出来なかったが、彼が確実にツルギをよく知っている事は、その想い馳せるような表情で確信した。

 さらに、初めてツルギと会った時、彼女が“名前は隊長から与えられた”と言っていた事を思い出した。


「そう。で、そいつが壊滅した部隊の生き残りを追って、この国に来る。彼女が言うにはその追ってる連中もこの国に来ているらしい」


 博士はこの質問の意図を勘違いしたらしく、慌てた様子を見せて否定の言葉を口走る。


「悪いが私は知らないよ。本当に無関係だ」


 この焦りを嗅ぎ取ったアリッサは露骨に訝しむ表情を作って、次の質問を繰り出した。


「あなたはどうやってアメリカに来たの? 日本企業が技術者を生かして手放すなんてあり得ないでしょ」


「…………エージェントによるヘッドハンティングだ。数十年前まだ中華系企業がネオンシティに移民労働者を斡旋している頃にそれに紛れてこちらに来た」


 その言葉からアリッサは博士がドゥイアン地区と聞いて態度を変えた理由を把握した。

 ドゥイアン地区こそが中国系企業がそのバックの国力さへも導入してネオンシティへの足掛かりとして開発し、失敗して荒廃させた地区だからだ。

 博士はその勃興からの荒廃、その結果の混沌を肌感覚で感じていたのだろう。

 しかし、それならなぜ彼がアメリカに残れて、あの無法地帯から生きて出て来たのかが次の疑問となった。


「………中国に身売りして、その後東アメリカに逃げたというの? あなた1人で出来るとは思えない。それ誰が支援したのよ?」


「私も本当の黒幕の正体までは知らんよ。いつも今回のように兵士が派遣されてそれに従うだけだ。

 だが、一芸は身を救うの言葉の通り私には誰にも出来ない技術があるのでね。行く当てはいくらでもある」


 博士がいう一芸が、確かに権威主義の中で王冠である事を間違いない。

 皮肉な事にその王冠が吊り下げられた剣を自身の頭頂に引き寄せている事は知らないようだった。


「所詮、あなたも企業の代謝を賄う消耗品よ」


 あえてそこに触れず、アリッサが選んだ反企業側の返答が、今度は博士の反感を買った。

 アリッサにとって反感も好感も口を軽くする感情由来の潤滑油でしかないが、どちらかと言えば反感の方が人は言い返そうと躍起になるので価値は高く見積もっている。


「君だって、私の作品を見ただろう? それに82号もサイボーグ化基幹は私の設計だ。

 いや、それは烏滸がましいな。

 彼女は別格だ。私の7号とは運用目的と異なるが、彼女は私と神、この地球とが合作した究極の存在と言えるだろう」


 アリッサは博士がツルギに関して話す時、彼は異様に恍惚とする事に気がついた。

 個人の心情ではそれを気味悪く思う一方で、思い入れのある事は情報として聞き出すのは容易い。


「そこまで言う。アレがちょっと器用なのは認めるけど」


 博士はアリッサを鼻で笑った。


「当時の豊枝は、大量生産可能で高品質な社員の安定かつ効率的な確保を目的として、遺伝子操作による“エリート社畜”の培養計画を遂行していた。

 計画名所は新社員育成計画。

 といっても基礎研究としてのデータ収集が目的の試験的な側面が強い計画だったがね」


 アリッサの中で気味悪がっていた物が明確な嫌悪として発現した。

 博士にとって、人間すらも組み立てた作品でしかないのだろう。ツルギを番号で呼ぶのもそれが理由で、思い入れも、人間として当たり前に持つべき同族意識を完全に排除しているのだ。


「なるほど、ツルギはデザイナーベイビーだったと」


 アリッサが思わず口にした無駄な意見を博士は嘲り、否定した。


「いやいやいや。この計画において、比較対象として100人の被験体のうち80番台からの20名は自然生殖によって誕生した子供を日本中からかき集めたのだ。

 82号はその中の1人。そして、私が心血注いでトリミングしたどの遺伝子よりも彼女の方が優れていた。

 ことさら神経系統の効率に関してはズバ抜けていたよ。

 サイボーグ化により身体機能の優劣は解消可能だとしても、遺伝子操作により障害や特性を選別できるとしても、ある種の才能というやつは人間の手では生み出せなかったという事だ」


 アリッサが出した結論とは真逆の返答は、彼女がきょとんとするほど想定外で、それ故に彼女は、これだけプライドの塊の人間が、何故自分の作品より優れた存在の事を喜んで話すのかと、集積していた博士の人物像が崩壊した。

 

「いいかね、コールマン。

 彼女はまるで進化における神秘そのものだ。彼女の血に流れる遺伝情報はサイボーグ化される事を知っていたかのようにサイボーグ化兵士として完璧な要求条件を満たす身体を構築していた。

 それに気がつかされた時の衝撃は忘れる事が出来ないほどだ。

 彼女が私に与えた影響は大きかった。それこそ人生の転機になったのだよ。

 2030年には人間は神の領域すら超えたと確信していた私の持論は完膚なきまでに否定されてしまった。

 本当に衝撃的な出来事だった。人間の体内のたった4種類のタンパク質の配列にはまだ私たちが見つけていない性質があるのか、生物学上の何かを見落としているのか。

 突き詰めない事など許されない事象だった。……だったのに、こんな素晴らしいデータがありながら、豊枝はその特異点を異端として無視した。

 最高値ではなく平均値で考えたがる商業主義の合理思考は、定年までの椅子を保持したいだけの人間には安定と信頼を与えるだろうが……そんな奴らの知能とはその程度が限界のクセに、無駄に蓄えた贅肉のような権力と決定権を持っている。

 そんな奴らのせいで認知すらされていなかった未知を既知にするこの機会を手放すなんて愚かな真似が許されるはずがない」


 アリッサは堪らず遮るように口を挟む。自分の知人を物として扱う人物の話をこれ以上聞きたくはなかったが、選んだ言葉は聞く必要のある話を引き出す鍵でなければならなかった。


 「あんたが新天地の一念発起で使ったポスト82号が、ナナってわけ?」


「ナナ? 7か。君はアナグラムが好きなんだな。

 次世代人類7号は、優秀さを担保された遺伝子から天性の才能を受け継ぐ事を目的に遺伝子操作でなく遺伝子配合に立ち直って人工授精で生産された、言わばオードソックスなデザイナーベイビーだ」


「………7号って事は、あんた大家族なのね」


「2つ勘違いしているよ。

 要求条件に満たないロットは全て処分してきた。人間という生き物はランニングコストが高いからな。

 それにアレらと私に血の繋がりは無い。

 

 彼女は82で、もっと言えば卵子させ摘出できれば、他の全ては不用だ」


 ナナが意図的に思考にリミッターをかけられていた事、まるで冷凍食品のようにケースに詰められていた事、その理由を理解した瞬間、彼女の中には全く採算の取れない損失を招くだけの殺意が抑えきれなくなっていた。

 しかし、皮肉な事に手足の自由が利かす、殺そうにも実行出来ない状況だったからこそ冷静にいられていた。

 アリッサは自分が拘束されていることに安堵を覚えていた。


「じゃあ、ナナはあんたのガキを産ませる為に用意したプラットフォームって事?」


「簡単に言えばその通りだ。私が7号に産ませるはより優秀な才能を受け継ぐ。

 意図的な天才の量産。これが実証できれば、数十年後人類の知能水準は大幅に跳ね上がるだろう。文明レベルでの進歩も19世紀から20世紀の飛躍以上の飛躍を見せる事になる」


 熱弁を終えた博士は、絆されていた熱が冷めたようにアリッサの顔を覗き込む。


「君は自分がどれほど重大な偉業を妨げようとしているのか理解できただろう?」


 アリッサは衝動的にその顔に向けて唾を吐いた。


「………全然。あんたは犬のブリーダーに向いてるわ。研究員よりずっとね」


 博士の顔は標準装備の仏頂面に立ち戻り、汚らしそうに顔の唾を拭いとる。


「お前ごときにはこの崇高さが理解はできないか。

 話が逸れた。挙句、長引いた。

 本題に戻ろう。7号はどこにいる?」


 アリッサは痙攣する頬で無理矢理笑みを作った。

 

「質問に答えてくれたから、さっそく保管場所まで案内するわ。私が立ち会わないと取引は成立しない……わ——」


 そんなアリッサと博士を、護衛隊長格が遮り、博士にしか聞こえないように耳元に何かを伝えた。

 

「博士少々お時間を……」


 報告を受けた博士の眉間にみるみるとシワが寄り、頭痛でも患ったのか片手で前髪をぐしゃぐしゃと掴んだ。


「なんだって? こんな大事な時に警報がなんだと言うんだ?」


 場の空気に別種の緊張の糸が張っていく中、アリッサだけは彼らとは異なる視点で次の選択肢を考えていた。

 警報はツルギが原因だろう。だが、ツルギが警戒網に引っかかるなどというミスをするとは思えない。警報の発令はツルギからすれば呼び鈴だ。

 そして、ツルギの参戦で全てに片をつけるのはアリッサにとっても少し都合が悪くなる可能性がある。

 アリッサがこの場で組み立てた脱出計画の第一ステップは、敵の中誰かから身につけている服のサイズを聞き出す事になった。

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