第39話 隔壁
手持ち無沙汰となったツルギはリビングのカウチに座り、待機と休息の中間のような状態で脳への刺激を極限まで減らして朝が来るのを待った。
そして、街が太陽に白み、ハイウェイ上を急ぐ通勤車両のクラクションが鳴り響く頃。
ツルギの脳は、寝ぼけたゾンビが立てるような足音を外部刺激として受け取り、音のする方向には、半開きの目でタバコを買いに行こうとするアリッサの姿があった。
その格好は数日間は買えていないシャツとジーンズのみという軽装で、衣擦れが放つ音からも歩いていける距離内で活動を済ませようとしている事を疑う余地はない。
そして、ツルギはは特に会話を交わすこともなくアリッサを見送ると、覚醒のついでにテレビのスイッチを入れた。
選んだチャンネルは、ネオシティ・ピーピング。この街独自の局を持ち新鮮で身近なニュースを伝えるチャンネルで、ナナとの会話でリソースとなりそうな話題を探す事にした。
短いニュース番組を2本見終えた彼女は、ゆっくりと体を起こし、ナナのこもっている部屋の戸をノックする。
「ナナ。起きているか? アリッサは出掛けた。何が食べたらどうだろうか?」
戸の向こうで微かに動く気配を感じるが、どうやら無視を決め込み、息を潜めた動作のようだった。
そこでツルギは猿田彦が天照大神に披露したように、顔を出したくなるような催し物で気を引こうと、仕入れたばかりの話題を持ちかけることにした。
時事問題は会話の潤滑剤となると彼女の所属していた部隊で学び、同じく、若い子はホットな話題を好むとも聞いている。このどちらも自身にはあまり自覚がないが、形から始めるのも上達には必要な要素だと信じている。
つまり、ツルギの中では、今しがた仕入れたニュースに、ナナは必ず食いつきついと部屋から出てきてしまうと考えたのだった。
「そういえばな、ナナ。6ブロックほど東の公園で銃撃事件があったらしいんだ。
どうだろう……朝は空気が綺麗だから、一緒に見に行かないか?」
ツルギ表面上は普段通りの内心に、どうしようもない鉄火場を無我夢中で生き抜いているような混沌極まる静と騒が対流を起こす。
末端神経にまでは反映されない動悸がいくつかの内臓にも影響を及ぼしていく。
……ツルギは自発的な交友の誘いにドキドキしていったのだった。
「見に行くものですか? それ」
しかし、固く閉ざされた戸の向こうからの声は、締め出すよに冷たく、ツルギの心に水を打つ。
「む。戦闘地帯を見ておくのはとても重要だ。どのような決断が生死を分けるか知る事ができる。銃撃に巻き込まれた時にどう行動すべきか見えてくるはずだ」
ツルギは自分の完璧な理論を語るが、その動機にあるのは我儘が通らない時の八つ当たりに近い。
「……………あの、それなら銃撃されない生き方を教えてくれませんか?」
「そんな生き方はない。この世界では誰が何を考えてるか分からない以上、本当の意味での味方は自分しかいないからな」
ツルギの返答は売り文句に買い文句の構図をとった。自分の中の何かを否定されたストレスに、否定そのものを感情的に否定していた。
“銃撃されない生き方”をツルギは知らない、知らないから存在するかどうかすら考えた事がない。さらに、ツルギは“銃撃を受ける生き方”を生き抜いてきた。ツルギの思考は、一般とはかけ離れた環境で熟成されているが為に、答えが食い違う。
「そうですか……良い言葉ですね。これは皮肉です。
自分しか味方がいないなら、私はこう考えます。ツルギさんは敵で、私を安全圏から誘き出そうとしてる、とね」
明確に信用できる人間が区別でき、それを当然としてきたツルギにとって、ナナが言っている事は、言葉として理解できても、その意思は全く理解できずにいた。
「私は敵ではないし、そこは本当に安全とは言い切れない——」
「ツルギさんも今は私の敵ではないでしょう!」
戸を震わせるような慟哭にツルギは唖然とし、続く言葉がさらなる混乱を招く。
「でも、私が怒ってアリッサを殴ってしまったみたいに、あなたも私の事が気に入らなくなったら殴るかもしれません。
あなたの身体は凶器で、その前では私なんて紙コップの強度しかありません!」
「ナナ。私は君を殴らない」
それが額面通りに言葉を受け取ったツルギの返答だった。
「なぜです? 殴られて当然の人間は殴られる。アリッサとあなたの会話は聞こえてました。
それにツルギさんだって必要な場面で不適切な行動を取ればそれは死んで当然と考えてるから、事件現場を見に行こうって誘ったんですよね」
「君は間違えてる」とツルギは冷静にズレの修正を訴える。
「リソースが足りないから間違えるでるのかもしれません。
いまの私はほとんどのパラメータが未入力。Nillです。だから挙動が安定しません」
「……………私は口下手だ。少し考えさせてくれ」
ツルギはそこで口を黙み、この混乱の原因を究明しようとしたが、同時に不可能だと結論付けてもいた。
「考える? アリッサが帰ってくるのを待っているのでしょう?
……それなら無駄です。アリッサはしばらく帰ってこないと思いますよ」
「帰ってくるさ。ただタバコを買いに行っただけだ」
「……私も………そうなら良いなと……思います」
「…………!」
不穏な物言いに何かを言いかけたツルギだったが、それよりも遥かに強力な不吉を部屋外部に聞きつけた。
それはくるぶしまで固定された靴の重厚な踏み込みと階段を駆け足で登る事に慣れた軽快なテンポの足音。さらにそのリズムはほとんど崩れる事なく絶え間なく階段を登り続けている。
前者2つならただオシャレな肉体労働者で説明がつく、しかし、それに持久力と安定した速度が加算されると民間人の可能性は低くなる。編上靴に履き慣れ、肉体の疲労に明確な予想を立てて運動できる人物が、自分たちのいる階まで一気に登り、階段フロアからこの部屋のある外通路まで迷いなく向かってきている。
ここの住民ならまず必ずエレベーターを使うだろうし、階段を使うにしても常に駆け足の同じペースで登り続けるほどの必要性があるとは思えない。
この違和感を、ツルギは被害妄想とは捉えず、虫の知らせと警戒心を抱いた。
「ナナ、静かにしていろ」
慌てた足音は徐々に部屋の前まで近づき、立ち止まると激しいノック音に変わった。
ドンドン! ドン!
「誰かいるか?! 俺だファルコンだ!」
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