第37話 再設定

 ナナが思考を放棄すると同時に、アリッサは傷の具合を確かめる洗面所へと駆け込んだ。

 そこに設置してある鏡に映るのは、知っている人物とはいろいろと掛け離れた姿をしている自分自身だ。

 鏡というものは左右反転して映ることに加え100%の反射率は有していないので、人は鏡を通して自分の容姿を確認したとしても、そこに映るのはあくまで虚像で、本来の容姿とは一致する事はないらしい。

 それなら鏡に映る自分へ違和感を抱くのはある意味当たり前だろう。

 そう納得して問題を無視したかったが、鏡に映っている彼女の顔は、とても無視できないほど鼻が確実に折れ曲がっていた。

 ちょうど絵手紙に描かれるアルプス山脈のように味わい深い角度で左に折れ曲がり、人相で鼻に該当する範囲は全て赤ワインを思わせる深い赤褐色に変色している。

 そして、触診する限りそれは虚像ではなく間違いなく鏡合わせの現実らしい。


「……医療用ナノマシンって、整形機能もあると思う?」


 自問自答とも質問ともとれない言葉をこぼし、鏡裏の棚からペン型の注射器を取り出すと、その内容物と針のカバーを取り外す。

 彼女の言った医療用ナノマシンとは、損傷を受けた細胞の回復を補助するようにプログラムされたミクロン単位の超小型ロボットとそれを活性化させる薬品をカートリッジで装填するペン型注射器の事で、負傷部に投与する事で臓器への銃創にすら有効とされるほどの治癒効果を示す。

 が、このハイテク医療品は、あくまで内服薬の立ち位置にあり、アリッサが必要としている整形外科的な効能は一切ない。

 それどころか外傷は治るが、骨折などはそのまま、周辺組織だけが治ってしまうという注意点があった。


「無いな」とツルギ。


「聞いてないわ。嘆いてるだけ」とアリッサ。


「……その顔も似合ってる。きっとモテるだろう」


 洗面所の外で、ツルギが珍しくそんな冗談を言った。その言葉は自慢気に不器用な笑みでナナに向けられていて、ナナが氷ついたようにドン引きしてる事は想像に難くない。


「はぁ。女が生きてく為には、ユーモアか美貌が必要なのよ?

 私はそれを2つも持って生まれてきたのだから、手放すなんてできないわ。

 ……触ると痛いし、なんかゴリゴリしてる。あんま顔はいじりたくないんだけど、医者に行くわ。ついでに皮下にプレートでもいれようかな」


 アリッサが歩くたび踵からの振動がラグなく伝達されて鼻の痛覚を刺激する。

 耐え難く一刻も早く医療機関に向かおうと決心して洗面所から出ると、そこにツルギが立ち塞がっていた。

 

「分かった。見せてみろ」


 今のアリッサは外部刺激の全てが鼻の痛覚に障り、近寄ってくるツルギがどれほど善良に満ちていようとも距離を取った。


「けっこうよ。近寄らないで」


「大丈夫だ。私は応急処置の訓練も受けている」


 が、ツルギは易々と距離を詰め、逃げようとするアリッサの顔を下から摘むようにして固定した。


「触んな」


 アリッサが何を言おうとも、ツルギは独自の観察を行い、やがて診断を下した。


「骨折じゃなくて、脱臼だな」


「なるほど、治療はセカンドオピニオンに頼むわ………」


 鼻がおかしいのはアリッサもよく分かっている。治せる者にも心当たりはついてる。

 それ故に彼女が出来ることは限定されており、取るべき行動は確定している。そこにツルギが出てくる幕はない………そのはずだった。


「大丈夫だ。いくぞ」


 ツルギはその言葉を掛け声にして、アリッサの鼻柱をつまんだ。

 その瞬間、熱波が波及するように全神経がざわめき立ち、その波形をなぞって灼熱の感覚が顔の中心に萌芽した。

 ……続いてグキッ錆びたラチェット機構を無理矢理動かした音が頭蓋骨に響き渡る。


「ぎゃぁぁぁぁ!」


 「骨が折れていれば修復を待つしかない。

だが、骨と骨の接合が外れた状態の脱臼となれば、ただパズルを組み合わせるようにすれば即治療が可能だ」


 ツルギの声は、アリッサに届いてはいない。ただ絶叫するほどの痛みに全身は無意識に萎縮し、ツルギに片手で支えるられながら言う事を聞かない体が思いっきり彼女を蹴り上げ、同時に網膜には、医療系システムが致死レベルの痛みの検出と痛覚抑制システムの上限突発を示す。


 しかし、話を聞かないのはツルギも同じで、何度もアリッサに蹴られてもびくともしないまま、「治っただろう?」と涼しい顔で問いかけた。


「分かんない。涙が止まらないんだけど」


 感覚的には理解できないが数値を見る限り、負傷は治りつつあるようで、少なくともシステム的には精査不能の全身規模の痛みから、頭部の負傷と大腿部の医療用ナノマシン注入時の個別の痛みを検知している。


「………私は医者ではないから、詳しい事は分からない」


「だから、触んなって言ったのに……もういいわ。全て元通りよ」


 お礼の代わりに捨て台詞を吐くと、彼女は負けかけのボクサーのようにゆらりと立ち上がり、ベランダに面した窓を開けて、そのサッシに腰掛けた。

 アリッサが窓を開けたのはタバコを吸うためのささやかな配慮だったが、高層階特有の強いビル風が部屋に吹き込むと、部屋に立ち込めていた血の匂いと怒りの余熱も徐々に冷えていく。

 そして、アリッサが怠惰にタバコを咥えると、場の雰囲気はどことなく何かが安定したように静まった。

 憂いたような眼差しで火種に息を吸わせると、口端から紫煙がたなびき、彼女の周りを囲う。

 両手は見えるところにあり、注目は煙の中身に割かれ、声色は落ち着きを含ませた。

 

「ナナ。少し話をしましょう」とアリッサは口火を切ると、飄々と言葉を繋げる。


「医療用ナノマシンってのは、地味に痛い。なんていうのかな、この細胞が治ってく箇所がチリチリと熱を持つんだよね。喚くほどでもないけど、不快ちゃ不快。

 まぁ、良い面があれば、悪い面もある。世の中なんでもそうよね。コレもそう」


 “コレ”とは指先で青白い煙を上げるタバコの事だった。


「とっても美味い。でも、癌の元だし、火事になる事もある。でも、とーっても美味い。………なんでも良い面と悪い面がある」


 ナナは、人を殴った右手を労りながら答えた。


「私の頭の中のリミッターを外したのは、良い面ですか? 悪い面でしか?」


 呼吸に合わせてアリッサの口元が明るく照らしだされ、タバコが口から離れる短い沈黙の後、手癖で動く指に従ってタバコの煙が八の字を描く。


「ちょっと違う。リミッターを外したことによって、良いことも起こるし、悪い事も起こる。

 悪い事は、貴女は私をぶん殴った。……リミッターを外さなければ私は殴られなかったでしょう」


「それは私が殴ったと言うより、あなたが殴られるような人間だと言うのが原因です。

 過程が違っていれば、リミッターが外されても私はあなたを殴らなかった」


 アリッサは片眉を吊り上げ、正答を讃えるようにナナを指差した。


「確かに。その意見には一理ある。

 では、何故私がこんな方法を取ったのかと言うと、私が、あなたもツルギも信頼していなかったからよ。

 あのリミッターがある限り、あなたは意図的にリミッターを外す事は出来なかっただろうし、正直にやりたい事を話してたら、あんな風にあなたが辛い目、それも下手すれば死ぬ可能性もある状況をツルギは絶対認めないからね」


「騙したのは、私の為だったって言うんですか?」


 アリッサはタバコを咥えると、ニヤリと笑う。

 それ強調するかのようにタバコが口端に寄り松明のように斜め上向いて規律した。


「いやいや。完全に私の都合の話よ。説得なんて面倒くさいから慣れたやり方をしただけ。

 ツルギがあんなに怒ったのだって、私の卑劣なやり口そのものより、それを見抜けなかった自分の不甲斐無さからきたものだからね。

 


 ナナを敵愾心を隠さない厳し顔で、アリッサを睨み、確認するようにツルギの表情も伺った。

 誰からも反論はなく、その結果はアリッサの言葉に信憑性を待たせただけだった。


「私はあなたの為じゃなくて、あのシステムがあなたを操って裏切らせるかもしれないと考えてたから解除したかったのよ。ただそれだけ」


 アリッサは再びタバコを手に戻し、濃霧を思わせる長い煙を吐いた。


「……そうですか。でも、私が私の意思であなたを裏切るかもしれませんよ?」


 アリッサは、か弱い脅迫を鼻で笑い、タバコフィルターの端を爪で弾いて灰を叩き落とす


「ツルギと私を裏切って、前の“自称次世代型”って名乗りたい?」


「…………さぁ、どうでしょうね?」


 ナナはアリッサに詰め寄ったが、アリッサはそんな事はどうでもいいとばかりに、片側の鼻を押さ、もう片方の鼻腔に溜まっていた血を吹き出すと、半凝固したドス黒い血が床に一点の水玉模様を作らせた。


「ふふっ。悔しかったら、次からは人に利用されないようにしなよ。この街には“人喰い”が多いからね」


 そう言って、今度はアリッサがナナの顔を覗き込むように詰め寄る。

 この時、ナナの視線は床に落とされた自分の成した暴力の証拠に誘導され、気がついたときにはアリッサの肉食動物の威嚇のような笑顔が目の前に迫っていた。


「……………あなたは……とても食えたものじゃありません。まるで毒のある芋虫です」


 アリッサはさらに頬肉を吊り上げ、ゴミでも吹き飛ばすようにナナに息を吹きかける。当然その吐息にま白煙が混じっていた。


「これからは負け惜しみもたくさん練習できるわね。何がどうあれ、あなたは自由になったのだから」


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