第36話 再起動

 アリッサは贖罪も兼ねてナナの手を強く握った。


「ナナ。このMリミッターってのは、


「えっ?…………」ナナはその言葉の意味が分からないまま、自身の脳を再構築した。


————————————————————


「あぁぁぁぁ!!」


 絶叫と共にナナの瞳孔は白目をはみ出さんと開き、目玉そのものが裏返えるように白目を剥いた。

 四肢は強烈な痙攣発作を起こし、手足はそれぞれが個別の生き物のようにのたうち、瞼や口が異音を立てるほど忙しなく開閉を繰り返す。


「アリッサッッ! 何をしたっっ!!?」


 置物然としていたツルギが怒鳴り声をあげ、アリッサに飛びかかる。が、アリッサはそれを言葉で制す。


「ツルギ! そんな事してる場合じゃないわ。彼女がケガをしないように押さえてあげて」


 アリッサに飛びかかる寸前だったツルギをナナの手足の暴動に対応させると、アリッサも意図しない自傷行為をさせない為に左手を彼女の口へと滑り込ませる。

 

「………これで歯を噛み砕いたり、舌を噛み切る心配はないわね………」

 

 機械化した右手ではなく、生身の左手を選んだのは、そちらのほうが柔らかい材質で、ナナの歯や顎を傷つけないから。

 その代償としてアリッサは、歯形に沿って焼けるように鋭く、同時に粘着質に圧搾するような鈍い痛みを味わった。

 覚悟はしていたが筋肉の痙攣で引き起こされる咬合力は子供の歯であっても皮膚を容易に突き破り、肉を抉り、骨に達するほどの力を誇る。

 痛覚は抑制装置で緩和できる。それでも皮膚や骨に異物が触れる感覚は気分の良いものではない。


「チッ。クレハにボールギャグでも借りとけばよかった!」


 アリッサが手を食い千切られそうになっている間、ツルギはナナの頭部以外全ての部位を保護しようと動く。

 ただ暴れているだけの凶暴な人間なら、関節を固めてしまえば拘束できる。が、ナナはそもそも自分の意思で体を動かしていない。 下手に関節を固定すれば、無謀にも自分で、その部位を破壊してしまうだろう。

 この状況では、技術ではなく、単純に暴れている以上の力で押さえつける以外の方法が選べなかった。


「……アリッサどうなってる? この子の体すごい力だ。自壊しかねないぞ」

 

「自分の脳を自分でイジって、ショックを起こしてる。

 今の彼女は何のフィルターのない視野で記憶の追体験し、制限さらていた感情の負荷に晒されてるの。

 夢を見ながら体が動く事があるでしょ、あれの喜怒哀楽ごちゃ混ぜバージョンよ」


 激しく暴れ人の血で口周りを人喰いサメのようにしているナナを目の前にしていながら、ツルギはアリッサこそ怪物だと言わんは分かりに避難の目を向けた。


「そんなの……トラウマを無理矢理思い出させるようなものじゃないか!」


「全然違うわ。彼女は言わば、究極の“親の言う事を素直に聞く良い子”に仕立て上げらていた。

 記憶力と二元論の判断しかできず、自由意志すらない血の通った機械だったのよ。しかも、ただ子育ての失敗でそうなったような奴じゃなくて、この子の感情を制限する事で人格形成を意図的に歪曲させられていた。

 それなら多少グレてもこっちの方がこの子の本来の姿。私たちの役にも立つ!」


 ツルギは、ナナを押さえつける事に力を割いていなければ、その場でアリッサを殴りつけていたであろう剣幕でさらに罵声を響かせた。


「ッッ!? “私たちの役に立つ”それだけがお前の本音だ!

 今の子の見てみろ! こんな状態の人間は、脳に榴弾片を受けた人しか見た事ない!

 お前はこの子を殺すんだッ! そうなったら私がお前を殺す!」


 頭に血の昇ったツルギの横で、アリッサはただ嵐が過ぎるの待っていた。

 結末は2つに1つで、選ぶのは運しかない。そこまで分かっているから、やるべき事は成り行きを見守るだけだ。


「ツルギ、冷静に。これは賭けよ。

 その子を形成した卵子と精子も賭けに勝ったんだから、もう一回くらい死線を越えるでしょう。劇的な体験って思春期につきものじゃない」


「ふざける……っ! 脈が下がってる」


「ただ正常に戻るだけよ。今までのは悪夢でうなされてたのと同じ。

 深夜窓を叩く幽霊も朝日に照らされれば小枝と気づけるわ」


 そう言ってアリッサはナナの顎をこじ開け血と唾液が橋をかけた手を抜き取る。


「発作は治った。その子は演算を終えた。

 認識に生じた齟齬の修正を終えたの。

 ね? ナナ?」


 アリッサの目線に倣ってナナへ目を移すツルギ。

 その先では見返すようにナナの目がツルギを見つめ。掠れたような声で呟く。


「ツルギさん……ありがとうございます。

 ……でも、とても重いので、どいてください………」


 四肢の末端にはまだ痙攣が残り、全身は水を浴びたように汗だく。それでも、ナナはよろけながらもゆっくりと立ち上がる。

 痛々しいほど気丈に背筋を伸ばして直立姿勢を作ると、一度大きく息を吸い、今度はアリッサへと頭を下げた。


「アリッサさん。あなたのおかげで、私は人生の中のたくさんの見落としに気がつく事が出来ました。

 生まれ変わったというべきなのでしょうか………。いえ、振り返ってみると、私は今ここで生まれ落ちたんだと思います………。

私の過去は歪でした。私の記憶は丁寧に編集された映画のように、意図的な方向性を持たされていたようです」


 再び恭しく頭を下げるナナに、アリッサは引き攣った笑みで答えた。

 何が起きているかは分かっていたアリッサだが、何が変化するのかは未曾有だった。

 そして、ナナのこの急激に大人びた、大人の対応に戸惑っていた。


「……う。うんうん。辛いかもしれないけど、それが人間の本来あるべき姿なのよ」


 アリッサの言葉をナナはゆっくりと頭で咀嚼するように頷いた。


「過ぎ去った過去を思い起こして、一つ一つに感情を付与していきました。でも、全て遅かったのです。

 私の記憶は、ただのレジストリ。人生の褪せ始めた破片群です」


「そ、それなら、新しく作ればいいだけよ」とナナの奇跡のような変化を受け止めつつ、アリッサは物事が上手く行き過ぎる時のジンクスを心配し始めていた。


「……はい! そうしたいと思います。

 ただ、ただ一つだけ私の記憶の中に、褪せていない記憶があります。それはあなたに関する事です。

 私は生まれて初めて、これを誰かと、いえ、あなたと共有したいと思います。

 ………私と共有してくれますか?」


 満面の笑みで答えるナナ。その笑顔は、今までの外部刺激への応答ではなく、内面から現れる感情を表現するための喜色満面そのものが見て取れる。

 しかし、アリッサはその一見喜ばしい激変を額面通りに受け取るのに戸惑った。


「あなたはれっきとした人間なのよ。許可なんていらないわ。言葉で投げかけてくれればいいのよ」


 そう応え、アリッサはハグ出来るように両手を広げるが、内心でら自分の戸惑いの正体を探すアリッサ。

 感情を抑制されていた少女が、感情を取り戻し見事に表現している。そこになぜ自分は違和感を覚えるのか…………まるで、“心のリソース全てで、喜んでいますよ”と宣伝するように感情が完璧に表現されているからだ。


 これはポーカーフェイスだ。


「いえ。言葉では言い表せないないので……——」


 アリッサはその瞬間に、自分の脳が危険信号を出していた事を悟った。しかし、その時には既にナナは拳を振り上げていた。


「——こう示します」


 直後、渾身の力を込めた拳がアリッサの顔面にめり込んだ。 

 アリッサは上体から仰け反り、電子機器の並んだテーブルに乗り上げ、その向こうへと転がり落ちた。

 配線コードを幾重にも体に絡みつかせながら体を起こすが、その視界の先でポタポタと床に浮き出る赤い水玉模様が飛び込んだ。


「何? 何? 何?」


 荒くなった呼吸に赤錆の匂いが混じる。赤色の正体は鼻血だ。しかもその量と顔面に走るはっきり鼻の形をした激痛は、打撲以上の負傷を高精度のフィードバック情報として脳に伝達している。


「はぁぁ! いい気味ですね。アリッサ!

 痛いですか? 私は少し気分が良くなりました!

 後6回で完全にデフォルトにまで下がると思われます。さっさと立ってください」


 ナナは抑制されていた感情を取り戻しただけに留まらず、それを他者が誤解するように表現する手法まで身につけてしまっていた。


「ナナ。暴力は良くないわ」


「あなたの謀略は許されるのに?」


「とにかく、か、顔はダメよ。血で鼻が詰まるとと脳の機能が低下して、痛みや苦しみを感じにかくなるわ。だから、これ以上は無意味だわ」


 アリッサは顔を覆って情けなく蹲り。その手の下で自分が騙されるた事を驚きながら、同時にこの次世代を自称する人造人間モドキの愉快さに驚嘆も抱いていた。


「私が実行したいからするのです。アリッサさんがどう思うかは関係ありません。お節介もほどほどにしてください」


 知能、思考力、理解力、社会性をナナはこの数秒で身につけ、そのわずか数秒後にはアリッサを殴るための布石を打ち始めていた。

 その行動力は天賦の才だろう。そして、今一番のアリッサへの脅威だ。


「ツルギ。止めて」とアリッサは手で声を反響させながら救援を求める。


「ツルギさん。止めないでください」とナナも支援を求める。


 2人の声に答え、ツルギは間に割って入った。


「ナナ。君の為に忠告する。素人がパンチなんかすると怪我をする。既に君の中指は腫れ始めているだろう。そのまま続けると下手をすると骨が変形してしまう」


「それでもいいんですよ。私は怒っているんですから」


 反論と共に丸々っているアリッサに少女の足音が躙り寄る。


「アリッサに似て頑固だ」


 ごちゃつく足音から察するに、再び拳を振り上げたナナをツルギが止めたようだった。


「かもしれません。だから、邪魔しないでください!」


 アリッサが顔をあげると、そこには手首を掴まれ、宙吊りにされかけているナナと吊り上げているツルギの問答が行われていた。


「やめろ、ナナ。これ以上彼女が傷つくべきじゃない」


「関係ないんですよっ——……」


 ナナの復讐の炎はそんな制止では枯れず、じっとりと煮えたぎり、強引にツルギの手を振り解こうとひったくる。


「……——あなたには! ——えっ!?」


 が、その力まるごと自分に跳ね返り、体がぐるりと宙を舞った。一瞬で天井と床が反転し、もう一度反転して再び足で床に立つ。

 何が起きたのか分からなかったが、頬を擦って揺れる髪や体に残る今日な重力の軌跡だけが何か得体の知れない技を受けたと告げていた。


「…………分かりました。私は馬鹿じゃないから、勝てない人を怒らしたりはしませんよ」


 生存本能が怒りを説得したのかナナの頭からすっーと血の気が引き、本当に怒らせていけないのは誰かはっきりと分かると意地っ張りの怒りも簡単に捨て置く事ができた。


「懸命だ。アリッサを許せるか?」


「…………渋々ですけどね……」


 ナナが他に選択肢がないからそうしただけ、と内心を隠さずに、上辺だけの和解を承諾するとツルギはただ頷き、少女を解放した。


「ナナは許すそうだ。……むしろその程度で済んで幸運だ。感謝するんだな」


 ナナからアリッサへターゲットを切り替えたツルギは、倒れている彼女の顔の横に立った。


「何が幸運よ………」と自動返信のように反骨するアリッサの口を、「生きてるだろう」ツルギは足で塞いだ。

 

「ナナが許さないと言ったら、私はこのままお前の頭を踏み潰していただろう。私もそれほど怒っている」


 アリッサの頭などツルギからすればアルミ缶と大差ない強度だろう。彼女は本当に人の頭部を踏み潰せる。

 その立ち振る舞いだけを根拠に、ナナはその想像を未来の現象かもしれないと確信した。

 確かにアリッサにはもう少し痛い目を見て欲しいが、頭を潰されるのは流石に望んでいない。

 

「いや、あの、別にアリッサに死んで欲しいわけじゃなくって………あの、たぶん、ここにいる人みんな馬鹿なんで、とりあえず現状を維持しましょう」


 自分の思いと見えているものをそのまま言葉に置き換えると、見えてくるのはまるで滑稽な風刺画から出て来たの3人組だ。

暴力を振るっておきながら他人の暴力を止める自分。殺人に躊躇がなく凶暴で快楽殺人そのものなのに、それを悪とも認識する超越した倫理観は備えているツルギ。

 そして、破滅願望を満足させたい自殺志願者みたいな行動をとりながら、自己愛に溢れたアリッサ。


 その3人がこの部屋で一同に会し、それぞれが奇妙なバランスで生存している。


 ツルギはアリッサを踏み潰そうとするのをやめ、当のアリッサはやれやれと潰れ気味の前髪を吐息でかけ上げていた。

 片方は人を殺そうとしていた事を気に求めず、もう片方は殺される寸前だった事をもう忘れているみたい。


「そ、そうです。それでいいんです。

 いえ、これでいいんでしょうか? リミッターがあったら、こんな……吐きそうなほど切羽詰まる事ってなかったと思います。

 もう、何も言いませんよ。皆さんも何もしないでください」


「命令は聞かないわ。あなたの事より、私が鼻呼吸を思い出す方が大事なの」


 そう言って立ち上がり、別の部屋へと向かうアリッサを、ツルギはただ無言で睨みつけ続けた。

 そんな状況をナナはようやく一言にまとめ、独り言としてこぼした。


「理解できない」

 




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