第35話 初期化

 アリッサはナナを呼び戻しモニターの前へと座らせた。

 ナナの報告によると観測された雲の数は47だったらしい。


「これを解読するんですか?」


「えぇ。けっこう面倒くさいけど、出来そう?」


 モニターに写されているのは一見すると記号と文字が羅刹されただけの落書きのようなもので、その実文字を対応する別の文字へと置き換える事で成立する暗号文だった。

 アリッサは、“けっこう面倒くさい”と評したが、事実上彼女らこの問題を回答不可能と匙を投げている。

 暗号とは解き方を知っている人にしか読めないようにする秘密保守の手法だ。しかし、ホームズが挑んだ踊る人形、ドイツ第三帝国が使ったエニグマ式暗号しかり、かならず解が存在する性質上、第三者でも解読する事は不可能ではない。

 特にあらゆるものが電子化されたこの世界では、通信技術の大半に暗号化処理が付随し、情報屋としてそれらを悪用するアリッサにとって暗号解読は身近で必須の能力だ。

 そんな彼女が匙を投げたという事実は、口に出している言葉より遥かに重い。

 画面に何が写されていようとも、解読方法が分からない以上は寡黙な造語症患者の頭の中と変わらず、何も得る物がない。しかし、積み上げた状況証拠だけが、暗号の中身の重要性を示唆していて、破壊不可能なガラスケースの中の金塊のように諦めるには惜しく、諦められないジレンマを抱かせていた。

 

「確かに文字数が多いですね」


 アリッサが直面している難題に対し、それがモニターを一瞥したナナの感想だった。

 アリッサもその意見には賛成する他ないが、文字の羅列を素直に受け取ってしまったかのような反応を示されると期待を裏切られたと思わずにはいられなかった。


「建設的な意見をありがとう。とても役立ったわ」


 役立たずを椅子からどかそうと腰を上げたアリッサ。


 「このページだけだと16パターンの解釈が出来てしまいます」というナナの呟きに動作の一切を中断した。


「16?」


 ありふれた数字が聞き返してしまうほど異質な返答だ。

 無限の可能性の中から、この僅かな時間で暗号分の解を16分の1まで絞れたとするのなら、その処理能力はこの時代に存在する計算機の30年は先行していると言えてしまうだろう。


 そんな偉業をナナはあっさりと肯定した。


「はい。英語圏内の製作者が携わったとした場合ですが、決めうちから逆算してみると、プログラム用の言語としては4種類。そから派生した規格のどれかとすると、恐らく16のコードのうちのどれかだと思います。

 無根拠ですか一番臭いのはC言語バビロンです。それに従って解析すると、このコードはMリミッターという名の制御パラメータのようですね」


 決め打ちならばそれは勘の話だ。

 勘の性質によっては信憑性は0に等しいものだが、個人の経験と人格内にのみ存在する論理回路によって出力され返答と捉えてみると、その勘というのもあながち馬鹿にできない。

 ナナの頭の中で、影絵を読み解くように、モニターの意味不明な文字と、積層した知識の何が、指示しなくても履行されるプログラムによって水平思考的に結びついたのなら、それはある種の職人技だ。


「…………なるほどね。私もそう思ってた……」


 圧倒を払拭できないままにアリッサはナナの意見を首肯した。

 確定する要素はなく、導き出したその答えも擬似餌の可能性があるが、代替意見は見出せない。

 それならこれを奇跡として享受するのもアリだろうと。


「ですが、このデータはところどころ破損してます。保存完了とする前に電源線を抜いたみたいです」とナナは露骨に面倒そう、やれば出来るけど、それが面倒臭いと言いたげに顔を歪めた。


「想定してたわ。

 でも、レジストリからでも復元システムを使って全体を見れないかしら?」とアリッサはナナの肩を抱き、期待と信頼、“やれ”という命令を体温と共に注いだ。

 

「これ、ブロックチェーン型の保護システムじゃないですか? そうなると一つ一つ調べないといけません」


「とりあえずは出来るとこまででいいわ。試しよ試し」


 嫌そうながら、向けられた期待に応えようとするナナは、重力加速度を彷彿させる意欲を持ち出していき、食い入るように画面をスクロール。


「あ! このMリミッターというのは全体から見ると突出した後付けのようです。

 それなら元データとの接続チャンネルを変えてしまえば、システムをまるまる迂回できます」


「入り口の鍵じゃなくて、壁を壊すって事ね。

 それでもいいけど接続コードが絡んでる範囲と通信方向は? それ次第では最悪データを取り出せなくなるわ」


「影響を及ぼしてる範囲は、一区画だけのようです。

 伝達は双方向ですが一本化されています。セキリティと言うよりは安全装置と呼ぶ方が妥当かもしれませんね」


「つまりはハーネスタイプの犬用リードみたいな仕組みってことね。

 なるほどなるほど………ツルギはどう思う?」


 アリッサの例えに、半透明の疑問符を浮かべるナナ。

 部屋の入り口で邪魔な甲冑飾りのようになっていたツルギは、突然振られた話題に「分かるわけない」とぶっきらぼうに答えた。


 今出来る事を決定できるのはアリッサだけ。そうなると彼女の指針は独断専行で決定していく。


「………まぁ、システム自体はローカルで、スタンドアローン独立型とみなしていいでしょう。

 間違えても下部システムには影響はでない」


「はい。アリッサさんの言う通りで、メインからMリミッター側への一方通行なので、リミッターを除けばメインへのアクセスは可能です」


「奇抜な見た目なだけで、堅実なシステム構成ね………。

 それにしてもナナ。あなたはすごいわ。私が16時間かけて分かったのは、“なんか重要そう”ってくらいだったわ」


「それも間違いではありません。

 どの程度重要なのか………リミッターをすれば、に確かめる事が出来ます」


 ナナは進言の中で一瞬の淀みを見せた。

 アリッサから見れば分かりやすい違和感で、その正体もおおよそ想像がついてしまう。

 ナナは検分して報告するという作業の中に、誰にも提案されていないオーバーライドによるプログラムの変更を提案した理由が、好奇心だと分からないのだ。

 

「なんだかやりたそうね。それならやってみましょう。機器との接続はマニュアル? ダイレクト?」


「………それはなんですか?」


「信号を脳に繋ぐか、キーボードで打ち込むかって話よ」


「……自由に動かすなら“ダイレクト”ですね。その手法なら慣れ親しんでいます」


「その代わり、壊れるのはCPUじゃなくて、脳よ?」


「このプログラムには、その機能はありませんよ」


 念の為とアリッサはピアスの一つを外し、それをアダプターに取り付け、神経接続用コードに取り付けた。


「私の保護回路を分けてあげる。これで万が一の時もあなたの脳は守られるわ。ただし、コイツは使い切りのくせに高価だから作動させたら弁償よ」


 ナナは過保護を嫌う素振りを見せつつも、後頭部の髪をたくし上げ、機器から伸びた信号線をうなじの接続ポートに挿入した。


「接続確認。取り掛かります」


「こっちでもモニタリングしてるわ………ってすごい速さね」


「みてるだけですから……と言う間に照査完了。

 オーバーライドした後のデータはなんという名前にしますか?」


「どうせ不要だから、“不要品”でいいじゃない?」


「了解です。Mリミッターを上書きし、“不要品”という名で、システムから切り離します。

 入力完了。実行—————…………」


 ナナが脳で処理している情報をアリッサはモニターで追い、決定的な変更を開始するのを確認する。

 ここまで来ると緊急停止は不可能だったので、アリッサは贖罪も兼ねてナナの手を強く握った。


「ナナ。良くやったわ」


「まだ書き換え終わっていませんよ」


「中断不可、ここからはもうラグも同然。数秒後には完了する。

 だから、このタイミングで言うのだけど、このMリミッターってのは、たぶん、


 モニターには完了の文字が表示され、誇るように点滅を繰り返す。


「えっ?…………」青天の霹靂とナナはその言葉の意味が分からないまま自身の脳を再構築を完了させた。

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