第17話 綱渡り
力強いエンジン音と共に走り出したクーペの車内は、前オーナーが残した安物芳香剤の中にほのかに香水が混ざり始めていた。
「変わった香水ね」と助手席からわざとらしく匂い嗅ぐアリッサ。
「そう? 店にいたから、たぶん他の娘のが移ったの」
「あれ? 普段はつけないの? どうして?」
アリッサは怪訝な顔をするクレハに向け、ニヤニヤとタールめいた笑みを浮かべる。
「……………あなたに好かれると困るからよ」
はぐらかす返答にアリッサは満足気に、しかし意味深に眉を吊り上げる。
アリッサが定めたこの駄弁のターゲットは、目の前のクレハではなく後部座席のツルギだった。
2人の会話を聞いたツルギが、“夜の蝶が香水を避ける、そんなの不自然だ”と違和感を覚えればそれでいい。
芳香という無条件に存在をアピールする道具が、目の前の遊女の本職に、非常に相性が悪いがある事もすぐに勘ぐるだろうと。
「気を惹いちゃうのが怖いのね。
鹿の狩猟シーズンに無香石鹸が売れるのと同じ理由だわ。
そんな話はさておき、どこに向かっているの?」
一つ会話に2つの意味を込めてアリッサは尋ねる。
「……ミドルサウスのトーフマンション。中立地帯のあそこなら誰の手も届かないわ」
運転手と客の温度で言葉を交しながら、車はギオンマチ・タウンの主要道を外れて、南方面のルートであるノレン・ロードへと移った。
そこは赤い暖簾と疑似ハダカ電球風LEDが、道の両端を照らす飲屋街であり、外は無造作に喧しく車内にまで賑わいが流れ込んでくる。
「クレハ。聞き間違いじゃないと思うけど、ミドルサウスが中立地帯? あそこは誰も掌握できない無法地帯じゃない。
そんな因縁をふっかける顔を赤提灯に照らし出し、アリッサだけが舞台の主役のように夜の中に浮かび上がる。
「変な言い草ね。“商売”をしなければ、あそこの連中は寛大よ。大人しく過ごすはずの貴女には好都合でしょ?」
「好都合と言えば、そうね。
あそこで女が2人死んでも、誰も気に留めないもの」
「誰かに狙われてるなら教えて? 女の子の保護なら私たちが専門よ」
そう投げかけた時の運転手の相貌は、逆光で脚色され真っ黒な影そのものに見えた。
「じゃあ、今夜、色町の人喰い蜘蛛が何を巣に掛けたか教えて?」
無貌の人影をなじりつつアリッサは毅然とドアに腹杖をついた。
「蜘蛛はね、獲物の振動を感知するの、だから巣に入り込んでも下手に動かなければ噛まれないわ」
運転席の影は誠実なまでに勝手に高まっていく場の緊張感を鎮めようと、友好的に振舞う。
「ふむふむ。勉強になったわ。
で、それは私の振動は伝わってるってこと?」
アリッサの追い討ちのような質問は、被捕食者が捕食者を挑発する構図だが、アリッサが優位に立っていた。
「……言伝は届いてる。クズノキ様からね。………心当たりはあるでしょう?」
アリッサは手で拳銃を模して、自分のこめかみに突きつける。
「クズノキは、私たちの世話しろって?」
「ばきゅーん!」紛い物の銃声と共に、激鉄を模した親指が下り、銃身を模した人差し指が反動を再現する。
アリッサは、無駄に生々しく頭部被弾の演技を始めてクレハの膝に倒れ掛かり、膝枕される形になった彼女は、外灯が曝け出す運転手の呆れ困った顔をそこから見上げた。
「はぁ………運転中よ危ないでしょ。
クズノキ様からの通達は“無傷で送り届けろ”よ。
それに殺せって命令なら私は姿を表さないわ。ウチは子蜘蛛たちが優秀だもの」
諭す口調の説明に、アリッサは話者の顔を真似て困り顔を作る。
「私もそう思った。でも、あなたたちは天下のホワイトヴァイパー。私の考えの裏の裏をかいてるのかも」
運転手の顔色が強張る。膝の上で重しになっているアリッサの言語が何に着火したのかを理解して、不良品のおたふく面を思わせるしかめ面で睨み返した。
「アリッサ。もうやめて。あなたの冗談は私より先に別の人を怒らせそうよ」
「ふふっ。冗談って何のこと?」アリッサは目を見開き運転手の目を見つめる。
見上げるアリッサと俯くクレハ。2人とも全く前方など見ていないのに関わらず車体は安定して走り、クレハに至っては死角のはずの後部座席にも反応を示していた。
「笑えない悪い冗談の事よ………。それも冗談よね? ツルギさん?」
そう背後に尋ねる言葉は落ち着き払い、表情も芯の強さと幽玄さを兼ねたいつもの美貌が固定されている。
しかし、下から見上げているアリッサには、白い首筋の真ん中で緊張で嚥下される喉の動きがよく見て取れていた。
アリッサが言葉でばら撒いた不安の種が、クレハの後頭部。ヘッドレストを挟んだ20cm背後で実り、そこにはツルギの無機質な殺意と完全な静寂の中で、攻撃体勢を整えた短刀が突きつけられていた。
「ツルギさん落ち着いて。アリッサがおちょっくってるのは私じゃなくて、あなたですよ。
だから、その研ぎ澄まされたドスを向けるのはやめてちょうだい」
「ふふっ。私の相棒ヤバいでしょ?」アリッサ。
顔は勝ち誇り後部座席に回した腕は、ツルギにサムズアップを見せる。
「ツルギ。彼女の言う通りよ。
この女はとても怪しいけど、実は信用できる。だから、あなたは私の後ろに来なよ」
アリッサは体を起こし、連動するようにツルギものっそりと席を移る。
この小競り合い以前の
アリッサの狙いは、その中間に立つことで、この場に擬似的な三すくみを形成し、物事をうまく進める為の下地を完成させる事だった。
「優れた攻撃性と判断力。アリッサはハイスペックな相棒を見つけたわね。
このクラスの
クレハは褒め称える言葉とバックミラー越しのウィンクを見せたが、ツルギは無反応を貫き、会話のバトンがアリッサとクレハだけで回るように立ち回る。
「でしょ、でしょ。私ってカリスマ性があるから」と、キラリと光りそうな笑顔を見せるアリッサ。
対するクレハも朗らかな笑みと友愛を感じさせない目でアリッサへと視線を戻す。
「でも、寡黙なタイプね。接客業には向いてないかも。
それなら私とあなたの話をしましょう。
……ハイスペックといえば、あなたのグレードアップしたの手。それなりに高かったんじゃない?」
「まぁね」と溺れるタコのような指運びで技手の滑らかさを披露するアリッサ。
「良い仕事には良い道具が必要だから。商売の鉄則よ」
クレハの目線が蠢く指先から肘、肩、胸を経て、先程のアリッサ同様に
「でもさ、アリッサ。それで………仕事が入ってくるかどうかは、それとは少し別の問題よね」
アリッサは手を枯れ果てた百合のようにしおらせた。
「……何? 私の税理士にでもなるの?」
「いえ。クズノキ様のところにいると良く聞く話よ。投資した金が思ったように返ってこないので、支払いを延ばしてくれってね」
アリッサは口を尖らせて頬杖をつく。その態度は思ったより褒められなかった子供そのものだった。
「まぁ、計画性がないとそうなるわね」
「計画性ね。ふーん」と運転手は目を細める。その表情は先ほどのアリッサの顔と同じ目的で誂えられている。
「……何が言いたいの?」
その問いを待っていたかの如く、運転手の目に怪しげな笑みが浮かべる。
「借金を担保にして、また借金するのって計画としてどうなのかなーーって思ってね」
「…………あなたには分からないでしょうねぇ」
アリッサは仕返しが始まっている事に気づき、突然外の景色を眺め始めるという逃避行動を選んだ。
「確かに分からないわね。でも、分からないなりに疑問を持つ事はあるの。
アリッサ。あなたカルロから借りた金を担保にウチの金借りたわよね?」
パワーウィンドウを下げるアリッサ。だが、運転席のスイッチで妨害される。
「えっと………その順番だっけ? どっちにしろ大金が必要だったから、少し危ない橋を渡っただけよ。結局チャラになったわけだし」
「間違いなく私の言った順番よ。そうなると、最初にカルロからは何を担保に借りたの?」
「金融の勉強に熱心ね。あなたクズノキから独立するつもりなの?」
アリッサは相変わらず外を見ていたが、背中には生コンクリートのような圧がのし掛かかっていた。
「話を逸らさないで欲しいわ」
「逸らすなんて、そんな。
………担保も何も、カルロとはコネがあって、しかも奴は馬鹿だった。だから口車に乗せたのよ」
「あなた口八丁は得意だもんね」
アリッサは逃避を諦め、苛立ってるとアピールしながら振り返る。
「何? 私の伝記でも書くの? じゃあ、生まれた時の話から始める?」
アリッサが喧嘩腰に出れば、必然的に雰囲気が悪くなる。そうなればクレハはツルギの動向も注力しなければならなくなる。
そんな無謀をクレハは避けるだろうと考えて、わざとこの怒りを演出した。
「分かった。怒らないでよ。少しデリカシーが無かったわね」
案の定クレハは表面上の態度を和らげ……。
何かを思い出したように、ハンドルを軽く叩いた。
「そうだ。2人に是非聞いて欲しい面白い話があるの」
アリッサにはその行動の意図が戦略を再編成にしかみえなかった。
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鬼蜘蛛衆について
鬼蜘蛛衆は、白蛇会内部の部組織で諜報組織的な立ち位置にある。
白蛇会の表の収入源は性的サービスを含んだ接客業であり、この店員の警護と教育を鬼蜘蛛衆が担い、また従業員が接客中に、客がつい口を滑らした情報を鬼蜘蛛衆は秘密裏に集めている。
これに加え、従業員には就労中に手に入れた秘め事について強力な守秘義務があり、この管理も鬼蜘蛛衆が行っている。
このシステムにより、白蛇会の施設での密会や会合は第三者に対しての非常に高い秘匿性を持ち、企業関連の常連客が多い。
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