第9話 分岐点
「私は……何を迷っているの?」
アリッサは、速度計のガラスに映る自分に問いかけた。
車体は弾痕で、トランクはシュレッダーのせいでズタズタのボロボロだが、エンジン温度、燃料、油圧計、全て正常値。車の中身は生きている。
問題があるのは、アリッサ本人だ。
逃げるしかないと思う自分とそれを否定する自分。脳が2つの人格を宿して議論している。
冷静に、合理的に考えればネオンシティから逃げるしかないが、形而上学的権威を持った感情が頭の片隅でその結論を否定しようと画策していた。
「ダメダメ。さて、合理的に、よ。
何度も計画してたじゃない」
アリッサの越境計画は、万が一の保険として用意周到に練られていた。
逃避行に必要とされる資金は、実は隠し持っていたし、メキシコでもカナダでも可能な限り安全な道程が設定されている。
「今更何を迷っているの……? 新天地で新しい人生を始める。ここにいたら殺されるだけだ。
1秒だって……無駄に出来ない……のに」
しかし、計画はあくまで仮定の話だ。
街からの逃避行は文字通り最終手段で、彼女の人生設計にネオンシティを離れるという選択肢は想定以外にあり得ず。
街の脱出。砂漠越え。越境。定住という数々の要所は、その一つ一つに奇跡が必要なほどの危険が伴う。
さらに、アリッサはそれを実体験として既に懲り懲りしている。
「クソッ。クソッ、クソッ!
責任転嫁の為の行動の粗探しに伴って、忘れ去ったはずの後悔と葛藤が心のひび割れから滲み出る。
「そもそも。あの女が手を出さなければ、サンズとこんなふうにこじらなかった。
あいつがいなければ………全部上手くいったのに」
アリッサが極端に“逃走”に拘るのは、彼女が過去に犯罪組織に命を狙われ、絶対に勝てない戦いを経験しているが故の洗練された生存戦略。
ありきたりな言葉でツルギへ説いた復讐の無意味さや犬死により生き恥の哲学は、彼女なりの本心からのアドバイスであり、少なくとも彼女自身はその経験を活かして今ここに生者として存在している。
「そうだ。あの女が全部悪い」
彼女の自己中心的な振る舞いは、辛酸を舐め続けて得た知見とその過程で身につけた、危機との測距能力とも呼べる状況分析、把握能力の賜物であり、今朝から立て続いた借金に纏わる数々の問題に関しても、アリッサにはいくつもの打開策を持っていた。
彼女は冗談めかして言っていたが、ツルギというイレギュラーを除けば。今日1日、昨日とさほど変わらず過ごす事が出来ていた。
「やっぱり全部、お前のせいじゃない」
計略で危ない橋を渡ってきた彼女が、唯一見逃したイレギュラーを細分化していくと、その原因はツルギの精神性に行き着く。
30秒前まで友人だった者同士が殺し合うネオンシティという街で、騎士のロマンス劇に出てくるような騎士道精神を公然と振りかざすアジアからの流れ者。
アリッサに言わせれば、そんなのは甘い夢に夢見がちな真性の馬鹿だ。
「あぁ! そうだ。あの馬鹿は馬鹿くせに物凄い強い! なのに頭の中はファンシーなふわふわが詰まったクソガキだ。
私があいつなら、あの身体があれば、もっと上手くやれたのに!」
神の殺意すら感じる不毛な砂漠の端で貴重な時間を湯水の如く浪費する独自は贅沢な無駄だ。
アリッサはフーリガンのように口汚ない独り言を放ち、遊び足りないのにチャイルドシートに固定された子供のように暴れた。
側から見れば、何かしらの精神疾患か致死性の臓器不全でも起こしたように見えるほど暴れ、それがひと段落するとタイ仏教の神聖水牛のようにスンと落ち着いた。
「さて、私は1秒でも長く生きながらえたい。だがしかし、地球上のどこにいても一定確率で私は死ぬ!
なら、生きる死ぬなんて今考えてもそんな事を考えても意味はない!
クソッ! マシな死に方が出来るのはネオンシティだけだ!」
アリッサは、ギアを後退に叩きん込んだ。
「あいつが真性の馬鹿なら、私は真性な恥知らずだ。どっちもイカれてる」
アクセルを踏み込み、砂埃を纏いながら車を旋回させる。
「なら、そのイカれ具合に賭けてみよう。私の人生を。華々しいネオンシティライフを!」
そして、ネオンシティへ向かうツルギを追った。
ツルギの歩行速度は、戦闘時歩調であり出発した時点で既に地平線の向こうにいたが、アリッサはややあってから追いつく。
「ツルギ……探したわ。道に迷ってない?
今日は暑いから散歩に向いてないわよ」
タイヤが砂をさらにすり潰し、アリッサの笑顔がツルギの視野の端に滑り込む。
「…………」
怒りを静かに表す表現技法として、アリッサは完全なシカトを受けた。
「……その、私、ネオンシティまで行くけど、乗ってかない?」
「…………」
無言で歩き続けるツルギをノロノロ運転でナンパするように追うアリッサ。
終始ツルギの視界に顔が映り込むように、合わせ、その顔は、殴りたくなるような、けれど何か自信に満ちた考えがありそうな、ムカつくが興味を惹かれる、何か自分に言い訳をして一言だけ聞いてしまいたくなる笑顔だった。
「逃げた奴が…………どういう風の吹き回しだ?」
アリッサの口角が僅かに上がる。声を掛け返される事で言葉の応酬。会話が始まるからだ。
アリッサにとって言葉は武器であり、僅かな時間で契約を勝ち取る手法は、彼女たちがいる地点からわずか数キロ北上したサンフランシスコで発達した、アメリカ人の十八番だ。
「私に任せて協力してくれれば、2人とも助かる方法があるの。この件が片付けば、貴女はじっくり復讐相手を探せるわ」
「私がそんな手に乗ると? お前は都合良いことばかり言うが、全部嘘ばかりだ。
そんなお前を今更信用しろと?」
「えぇ。そうよ。一つ訂正するなら貴女に話した事柄にはいくつか本当の事もあるわ。
例えば、2人とも助かる方法がある、とかね」
ツルギは無言でアリッサを覗き込む。
その昏い双眸は冷やかで、アリッサの首筋に生存本能由来の冷たい汗を滴らせた。
「信用させてみろ」
「その言葉、もう貴女は私を信用してるわ。あとはその理由が欲しいだけ。あなたが聞くべきは私の話じゃなくて、あなたの内なる声よ」
「……………」
アリッサは力みのない無害そうな笑みを浮かべ、それを光学レンズ以外の要素を廃した目がじっと覗き込む。
重たい沈黙の中で、窓を抜ける風だけが鳴いていた。
「ふん。そうだな」と会話と独り言の中間の呟きと共に車体が助手席側に傾いた。
「…………乗ってくれるんだ……」
アリッサの自白に似た心情の吐露に対し、流麗な流し目が答える。
「アリッサ。あんたは自己中なクズだ。だけど今のあんたの目は信用できる。自分の行くべき道を覚悟した目つきだ」
向けられたこの言葉を、アリッサは奇跡の類として認識していたが、同時に嬉しい誤算の安堵を覚える。
「ははは………あなたチョロいって言われない?」
「チョロいかどうか……これ以上試さない方がいい。
内なる声とやらは、“乗れ”と言ったと思うが、“
自覚があるのかツルギは少しムスッと無愛想に呟き、梅雨時のカビより簡単に増長するアリッサに釘を刺す。
「分かったわ。それに一番チョロいのは貴女がこなす仕事よ」
アリッサはハイエナのような笑い声で、厚顔無恥な笑顔を浮かべた。
「その顔。気持ち悪いぞ。絵に描いた餅にヨダレを垂らしてるみたいだ」
そんな客観的な指摘に、溶けかけの蝋人形のようにヌルッと首を向けたアリッサは、絶望的な誤算の連鎖を嬉しい誤算で帳消しにかかる奇策を告げた。
「鬼に金棒。私に相棒。今から私たちは電話を一本かけて仕事を取ってネオンシティに戻る。
そうすれば、明日からは私たちは確実に、大手を振って通りを歩ける
「電話? どこの誰に?」
相棒がアリッサに向けるのは、堕落者に向けられる不審と蔑みの眼差し。
相手にはアリッサの姿はラリッた麻薬中毒者のように見えているのかもしれない。
そんな視線に化学反応するようにアリッサの中では“関係者全員に、目に物見せてやる”という反社会的な行動意欲が湧き起こる。
「電話相手は私のもう1人の借金相手。ホワイトヴァイパーのボス。クズノキさんよ」
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設定として、サイボーグ化に伴う問題として、熱処理というものがある。
熱処理はそのまま取り付けたパーツが体内で発っする熱の問題で、一般的には動作環境気温として氷点下30度から50度。検査時の気温は35度としている。
しかし、実践運用に際しては、砂漠のような高温地帯では、サイボーグとしての機能に制限がかかる。言ってしまえば、サイボーグとて暑い環境で過度な運動は危険なのだ。(寒冷地おいても、電子機器の性能低下などの問題があるが、作中で寒冷地はでない予定などで省略)
熱処理の問題に関してアリッサの場合、腕の部分は神経コンバーターと人工筋肉による伸縮で動作しているので発熱量は度外視していい程度。出力リミッターをつけてそもそも過度な操作は受け付けない(このリミッター自体は、熱処理というよりも強度で勝る人工部品で自分の体を傷つけない為のもの)
次に続く。
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