第9話 ポラリスの応え

 紛れもないプロポーズ、だった。

 二人とも何も言わぬまま、ゆっくりと数秒が経過する。


「けっこん……」


 意味の知らない単語を無理に口にしたような調子で『結婚』を呟く。


「リヒトさんは、本当に私との結婚をお望みなのですね……?」

「そうだ」


 きっぱりはっきりと言い切られて、信じられない想いでポラリスはぽかんと口を開いた。

 あまり抜けた部分を他者に見せてはならないと、慌てて口を閉じる。


 笑っても泣いても母には厳しく叱責され、学校では気持ち悪がられていた日々だった。

 気づけばポラリスは常時無表情で生きることが日常となっていた。


 つい先ほど突然神殿からの迎えが訪れ、大好きなリヒトとの再会を果たしてあれよあれよという間に神殿の前まで来て。


 愛を告げられ、プロポーズを受けている。


 ――けっこん。

 ――私が、リヒトさんと、結婚。

 ――それにリヒトさんも、私との結婚をお望みだなんて。


「リヒトさん……私は夢を見ているのでしょうか?」

「だいじょうぶ、現実だよ」


 深みある声で優しく言われる。

 ポラリスの頭の中で、嬉しさと同時に混乱まで発生していた。


 膨大の量の思考と感情が無数の小さな泡となっては消え、泡となっては消えを繰り返していた。


「すみません。私、戸惑っていて」

「どうして?」

「こういう時『嬉しい』と言っても、よろしいのでしょうか……? その、あまり『嬉しい』に慣れていなくて」


 何とかそう説明してみる。初恋の人は優しく笑んだ。


「君はこれまで、本当に大変な生活をしてきた。だから……嬉しさや楽しさ、喜びがよく分からなくなってしまっているんだと思う。神殿での暮らしにも慣れるには少し時間がかかると俺も神殿長も予想はしているし、心配はいらないよ」

「は、はい」


 神殿で始まる新たな生活がどのようなものなのか。到着した今も想像がつかなかったが。


「だからこそ、俺がここにいる。守護騎士というものは聖女や聖者をお守りするために存在するが……俺は騎士としてだけでなく、リヒト・アンブロワーズという一人の男としても君を守る」


「リヒトさん……っ」


 ――この人がいてくれるというのなら。


 リヒトが、長くポラリスの生きる支えとなってくれていたこの青年が隣にいてくれるというのなら。


「私、まだ結婚などの実感が沸かないのです」

「それはそうだろう。何もかもが急すぎたのは分かってるさ」


「でも、リヒトさんがいらっしゃるのなら。他の方が全員敵だとしても頑張れます」


 実際に周囲のすべてから攻撃を受けていたポラリスが言うと、重みがある言葉だった。


 ――リヒトさんの愛に、応えなければなりません。


 ただ優しくされて、愛されるだけで終わりにしないのがポラリス・クライノートという少女であった。


 かつてリヒトとの日々が教えてくれたのだ。

 愛や優しさというものは、ただ受け取るだけの一方通行では物足りない。


 大自然の摂理のように与え与えられ循環させていくものなのだと。


 ――それに、私だって。


「私もずっと……ずっとリヒトさんのことが好きでした」


「…………ずっと?」


「ええ、ずっと。出逢ってしばらく経ってからは」


 ――言った。言えた。


 好きだと、言った。

 好きな人に、好きだと言えた。


 怖いけれど、愛されるだけではいたくなくて、愛した。


 愛は循環させようとするのに、今まで虐げられたから他者にも同じだけ痛みを味わせようとはしないという美点を持っていることに、彼女はまだ気づいていない。


 聖女候補の証の一つたる赤い瞳で、リヒトの青い瞳をまっすぐに見つめて。ポラリスは応えた。


 愛に、応えた。


「なので結婚したいと言ってくださりありがとうございます、リヒトさん。どうか……これからよろしくお願いします」


「ポラリス……ありがとう。嬉しいな」


 声と表情からリヒトが本当に喜んでいることが伝わってきて、ポラリスも嬉しくなった。


「じゃあ、行こうか。みんな待ってるだろうし」


 差し伸べられた手を迷わずに取って。車から下りる。


 駐車場から少し歩いて行くと、大きな白壁の建物の前に、数名の人が並んで二人を待っているようだった。

 ビアンカと先ほどの男性騎士、メイド服姿の女性の姿もある。


 冬の夜の冷えた空気の中。ポラリスはリヒトの手の温もりを頼りに歩み出した。

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