第2章 あたらしい日々
第10話 神殿の妖精猫侍女
ポラリスとリヒトが並ぶ神殿の人々に近づくと、一斉に綺麗なお辞儀をされた。
「ポラリス・クライノート様、いらっしゃるのをお待ちしておりました」
一人、二十歳頃の、リヒトと同じくらいの年頃の女性が一歩前に出た。
ダークブラウンのロング丈ワンピースの上にフリルの付いたエプロンドレス、頭には可愛らしいヘッドドレス。いわゆるメイド服姿だ。
肩までの黒髪にくりっとした黒い瞳。頭には黒の猫耳、腰の後ろからは細長い尻尾。
この魔法世界アタラクシアでは数多くの種族が『人間』として人権を認められて生きている。
学校でも道行く人々の中にも、ちらほらとたくさんの種族を見かけることができる。ポラリス自身は特に彼らと接点を持ったことは無かったが。
かつては人類種を絶対的な上位存在とし、他の種を『
だが五十年に終結した『大戦』の後からはすべての種を公平に扱おうという国際的な動きが活発化し、そこから紆余曲折あって現代に至るという訳だ。
それでも世界唯一であった西洋のとある軍事主義国家がやはり人類種至上主義を掲げた上で、監視社会や独裁政権を行使して国民を苦しめていた。国際機関をも巻き込んだ大きい市民革命が起きて国のすべてがひっくり返ったのは二年ほど前のことだっただろうか。
エーテルの世界として他とは切り離された印象の強いエテルノ王国だが、今は情報社会だ。ポラリスも国内外の大きな出来事くらいは存じていた。
「お初にお目にかかります。わたしは今日付けでポラリス様の専属侍女となりました、アリス・ロサと申します。どうぞこれからよろしくお願いしますね」
はきはきと明るく話す妖精猫アリスに、ポラリスは緊張しつつ軽く頭を下げる。
「お、お世話になります」
「今日はもうお疲れでしょうから、
他者に丁寧に接してもらった経験が人と比べて少ない次期聖女は、アリスの対応にきょとんとした。ビアンカといい、この神殿の面々は妙に自分に優しい。
「ポラリス。アリスは信頼できる人間だから安心してくれ。俺は少しやることがあるから、またあとで部屋に行くよ。寝る前におやすみも言いたいし。アリス、頼むぞ」
リヒトのお墨付きなら、安心して良いだろうか。
「は、はいっ」
「もちろん、リヒトくん。それではポラリス様、行きましょうか」
リヒトと一時的とはいえ離れることを不安に思いつつ、ポラリスは侍女アリスの後をついていった。彼女が歩調を合わせてくれるお陰で、疲れていても歩くのが楽だ。
「このクレアシオン神殿は大水晶を
職員用の宿舎は木造だった。中に入ると、白と木目を基調としたナチュラルテイストの内装が広がる。壁にはちょっとした絵画が飾られていたりもして、温かで
――やさしそうなばしょです。
そう思うと、同時に。
――私なんかが、このような所にいても良いのでしょうか……。
人は良くも悪くも慣れてしまう生き物だ。たとえそれが虐げであっても。
ポラリスには母に愛された記憶が無い。機嫌良く接してもらえたことは何度かあったが、それはポラリスへの愛情からでは無いことくらいは理解している。
物心ついた時には物置部屋で生活し、固いパンと水ばかりを口にしていた。
小中学校の義務教育期間では給食があったので餓死は回避できた。
何よりリヒトと一緒に過ごした四年間があった。…………それと中学ではたった一人、僅かな期間ではあったが女友達もいた。彼女との関係は不幸な結末を迎えてしまったし、リヒトとも離れてしまった時期はあった。それでもそうした思い出のお陰で生存することができた。
そんな酷いことがほとんどの人生が『当たり前』だった。
生きて生きて生き抜いて、リヒトとの再会を果たした。まだ公式にでは無いが婚約の約束もした。
真っ暗闇に慣れきっていたあかいろの瞳には、一縷の光すら眩しすぎて顔を背けたくなってしまう。
幽霊屋敷に閉じ込められたのに、急に安らいだ陽だまりの中にぽんと出されたようなものだった。
長らく思い続けた人と理想的な展開を迎え、少なくともこれまでよりは良い暮らしになるだろう。
本来なら素直に笑って喜ぶべき場面なの、だろう。
でもポラリスがその幸福になれるのには、少し時間がかかりそうで。
――この場所に馴染めるようになるまでに、幻滅されてしまったら。
思うだけでぞくっと悪寒がした。リヒトが気落ちする顔なんて見たくない。
聖女になるのならきっと、自分自身が常に微笑みを絶やさないでいる必要がある。
「ポラリス様?」
アリスが心配そうに眉を下げ、こちらを振り向く。無意識にポラリスが立ち止まってしまったらしい。
「す、すみません」
これがイヴォン相手だったら、さっさとなさいと怒鳴られ何か物を投げつけられている。
「私、その、気が緩んでしまっていて」
何とかそう返答する。
人との会話の仕方が分からなくなってしまっていた。
これまでのことを考えればこうなるのは人間としてはむしろ正常だったりはする。叩かれ殴られ無視されて、まともなコミュニケーションを取れた相手はリヒトとかつての女友達くらい。
リヒトと同い年のポラリスの兄シリウス・クライノートも心では味方でいてはくれたのだが、兄は兄で酷い目に遭っていたのでこちらを庇ってくれる余裕も無かったのだ。
「……ポラリス様のこれまでのことは、リヒトくんからよく聞いておりますよ」
アリスの優しい声音がポラリスの耳朶を打つ。
「リヒトさんが……」
「これまでは大変だったでしょう。ですがこれからは、リヒトくんもわたしも、神殿の人たちはみんなあなたの味方なのですよ」
どこか儚げな笑みで、妖精猫は言う。ひび割れた
――この方も……ロサさんも、何か傷を抱えているのでしょうか。
だから自分にも優しく接してくれるのかと、ポラリスは察する。
「最初はわたしたちのことも信じられないと思います。今まであなたは『人を信じる』ということが難しい状況にありましたから」
「ええ……。でも、私にはリヒトさんがいますし……」
『俺に、俺たちに、任せてくれ』
でもポラリスにはリヒトがいる。だから。
「リヒトさんの仲間であるあなたがたのことも……私は信じられるようになりたい、です」
「ふふ。なら良かったです」
柔らかく微笑むアリスを見て、ポラリスも頑張ろうと思った。
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