第8話 愛を告げる

 長い夢を見ていた、気がする。


 夢の中身はおぼろげにしか思い出せない。

 顔を知っている誰かが鼓膜が破れそうな金切り声でポラリスを責め立ててきて、取り囲むすべての人はけたけた気持ち悪い薄ら笑みを浮かべていた。


 それだけしか思い出せない。


「大丈夫か?」


 ゆっくりとまぶたを開けば、心配顔のリヒトがいた。どうしてこんなに不安げな表情をしているのだろうか。

 車の中にはすでにビアンカと男性騎士の姿は無かった。二人きりだ。


「眠りながらうなされていたんだ。悪い夢でも見てしまったか?」

「……大丈夫ですよ」


 ――平気、平気、大丈夫。


 怖い夢を見てしまって、本当はちっとも大丈夫なんかじゃなかった。

 でもさっき思い切り甘えてしまったばかりなのに、また怖かったなんて、心臓に鳥肌が立ったようだなんて言えない。


『強くなれ、でないと生きていけないぞ』


 いつだったかの父の言葉が蘇った。確か母に殴られて泣いていたらそんなことを言われて、耐えなさいとも言われた。


「さっき助けて欲しいと言ってくれたばかりじゃないか。怖かったり痛かったりしたら、何なりと言ってくれ」


「それではあなたに負担がかかるでしょう?」


「俺は君の守護騎士だ。大水晶からも君を守れと言われているし、誰に言われなくても俺はそうしたい。騎士としての鍛錬はちゃんと積んできているしな。だから安心して話してくれ」


 迷い無い口調で言い切られて、かえってポラリスは戸惑う。


 ――良いのですか。


 こんなに他者から丁寧に扱われることは随分久しいことだった、というのもあるが。


 ――私の恐れや苦しみを聞いてくれるのですか。


 強くなれ耐えろと言われ育って来たのに、弱さを打ち明けてしまって良いのだろうか。


 ――あなたは私の、初めて恋した人であって。


 この人にさらけ出してしまって良いのだろうか。シャボン玉が宙を舞ったあの日のように。


 ――今は私の守護騎士様であって、婚約者。


 そこであまりに重大な事実に気づいてしまって、ポラリスは赤い瞳を限界まで大きく見開く。


「私はリヒトさんと、結婚することになるのですよね……」


 婚約者、と言葉で言い表すのは容易いことだ。


「そうだ。君のパートナーとして尽くしたい。怖いことから君を守りたいんだ」

「…………」

「もしかして、嫌か?」


 実際に婚姻を結んで夫婦になるということは、ポラリスにとってもリヒトにとっても人生の大きな節目を迎えるということになる。


「いえっ……。そういうわけではっ」


 ただでさえ実家を離れて神殿に入り、これから次期聖女となるポラリスにしてみればコインの表裏がひっくり返ったような変化だ。


 いくら昔馴染みで仲が良くて……密かに恋い慕うリヒトとはいえ「今日から婚約者同士ですよ」と告げられて素直に「はい、分かりました」と受け入れられるはずが無い。


 世の中結婚や恋愛の在り方が多様化して自由になっている現代で、聖女は守護騎士となる人とくっついてくださいというのもあまりに前時代的であるし。

 現にエテルノの国内外でも、この婚姻の在り方には批判の声は少なくないという。


 そういう風に考えてみれば、むしろポラリスの守護騎士が大好きなリヒトというのは実に有難い話だったのだけど。


「何でも良いんだ。言いたいことは遠慮しないでくれ」

「…………私、色々と不安で。今も怖い夢を見ていて」


 ――上手くいきすぎているのです。


「やはりそうか。何が不安?」


「その、今まで毎日生きるのにも必死で。なのに急に次期聖女などという恐れ多くみんなのお役に立てる立場に立たせていただくことになって。それでリヒトさんとまたお会いできた上に結婚できるだなんて、私にとって嬉しいことなのでなんだか逆に不安になってしまって……」


 ポラリスにとっては空から札束が降ってきた以上の幸運が続いていた。それが逆に怖い。今にもイヴォンが追っかけてきて実家に連れ戻されてしまうのではと、考えるくらいには。


「私は良くてもリヒトさんは嫌なのではと、考えてしまって」


 相も変わらず蚊の鳴くようなか細い声量で、おまけに早口になってしまったポラリスだけど、リヒトはちゃんと聞いていてくれたらしい。

 鋭く息を呑む音がして、彼の碧い瞳が見開かれる。


「リヒトさん?」


 ポラリスはこわごわと彼の名を呼んだ。リヒトの顔がほんのり赤く色づいている。


 ――私。なんということを。


 そこでさりげなく「あなたと結婚できることが嬉しい」と伝えてしまったことに気づく。いつも誰かの言いなりになっていた彼女らしからぬ大胆な言動。

 恥ずかしくなってしまって、穴にでも入りたい気持ちになる。


 リヒトは何も言わない。なんとも言えない沈黙が流れたあとで、ようやく。


「君は……俺が君との結婚を嫌々すると思っている? 結ばれることを嫌がってると、そう思う?」


 深みある声が震えている。


「それはその……もしかして騎士としての義務だから渋々引き受けたのかと」

「そんなわけ無いだろう!」


 異様なくらいに焦った声に遮られ、ポラリスはきょとんとする。

 続けてリヒトの口から、あまりにも嬉しすぎて信じられない言の葉が紡がれた。


「俺は君しか抱きしめたくない。騎士として夫として君を支えたかったから、守護騎士に名乗り出たんだ」

「…………っ」


 どう考えても、最愛の人に捧げるべきことを真っ直ぐな瞳で告げられた。


 ポラリスが頭で理解するより早く、体が反応する。


 さっきまで悪夢の恐怖に怯えた心臓が正反対の感情に支配される。激しく心音が脈打って、顔が体が燃えるように熱い。


 こんな感覚、生まれて初めてだ。


「ポラリス、君が好きだ」


 真剣そのものの表情と声で、青年は愛を告げた。


「君さえ良ければ、俺と結婚して欲しい」

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