第6話 俺が守るから

 それまでの堅苦しい敬語を崩し。他人行儀だった『ポラリス様』ではなく、親しげに『ポラリス』と呼ばれて。


 本当にリヒト・アンブロワーズと再会できたのだなと実感する。

 温かなものが胸の奥でほのかに広がっていき、ポラリスはほう、と安堵の息を吐く。


「来るのが遅くなってしまってすまない。本当はもっと早くに迎えに来たかったんだけど。騎士としても男としても不甲斐ないよ」


 深みある声は慈愛に満ちて。ポラリスの心に残る戸惑いと衝撃を優しく溶かしていく。


「そんな……謝らないでください。私こそリヒトさんとまた会えて嬉しいです。こうして二人でいられることがまだ信じられません」


 ポラリスは純白の素直な想いを伝える。

 まだリヒトと再会して三十分も経過していない。

 それだけ短時間のあいだに十八年もの月日を過ごした実家を連れ出されたということだが、不思議な程に家に対しては未練は無かった。


 ただ父も兄も不在の中、これで娘を追い出せると喜んだ実母の歪んだ笑みだけが、心に鈍い痛みを与える。


 すでにポラリスの心には、見渡す限り古傷とあざばかりに覆われていて。けれども初恋の男の子への想いが優しくすべてを包み込んでしまうから、ここまで生きてくることができた。


 何もかもから追い詰められた現実で、必然的にリヒトの存在はどんどん大きくなっていくのは当然のことだった。

 いつしか実在する彼とは別に、ポラリス・クライノートという少女の想像からできたリヒトが心の内側に住み着いていた。


 心の中のリヒトはどんな時もポラリスを慰め、励まし、一緒に生きようと勇気づけてくれた。あのシャボン玉の日のように。


 今日目の前にいるリヒトは、どうだろう。

 ポラリスの味方でいたいと、思ってくれているのだろうか。


「どうした?」


 悩んでいたら、心配の声が降ってきた。

 僅かな逡巡しゅんじゅんのち、ポラリスは口の端を持ち上げて無理やりに微笑みを形作る。


「いえ、何でもありません」


「そうやって君は、また何か抱え込んでいるんじゃないのか?」


「それは、」


 呆気なく見抜かれて目を泳がせると、リヒトの大きな手がポラリスの銀糸の髪をでた。

 幼いころも、よくこうやって慰めてもらったものだった。


「リヒトさんはシャボン玉の日のことを……、子どものころ最後に会った日のことを、覚えているのですか?」


 自然に緊張がほぐれて、言いたいことが唇から紡がれていく。


「もちろん」

「それでは」


 思い切って、問うてみる。


「今でも私の味方で、いてくれるのですか?」


 一拍置いて。


「昔も今も、俺はポラリスの味方だ。だからこうして迎えに来たんだよ」


 リヒトは目を反らさない。その煌めく碧眼がかすかにうるんでいるのを、ポラリスは見逃さなかった。


 万感ばんかんの想いが、ポラリスの胸を満たしていく。


 ――嗚呼ああ、リヒトさんも。

 ――私に会えて嬉しいと思ってくれているのですね。


「いきなり現れてしまってごめんな。君が戸惑うのも仕方のない話だ」

「そうですね。驚いてはいます」


 その割には上手くスムーズに話せていることに、ポラリスはやはりこの人はリヒトさんなのだと安堵する。


 今まで緊張しっぱなしだった。

 多忙で無関心な父、この世すべての毒物をかけ合わせて人の形にしたような母、味方でいると言いながら妹を見捨て一人実家から逃げた兄。

 ある事件を機に、敵しかいなくなってしまった学校の生徒、教師たち。


「……………………」

「……ポラリス」

「ご、ごめんなさい」

「…………良いんだ。泣きたい時は泣くと良い」


 気づけば両目からぽたり、ぽたりと、小雨が降るようにして涙が流れ出していた。止むことはなく、次から次へ。


 泣くのは本当に久しぶりだった。

 基本笑えば怒られ、泣けば疎まれてきたポラリスだ。


 改めて自分のいた場所の酷さを思い知る。

 こうして久しぶりに、人の優しさ温かさに触れたからこそ。


 家族は本当に家族なのかと疑うような人たちだったし、学校に至っては毎日いじめられるためだけに通っているようなものだった。


 前線の兵士と張り合えるのではないかというくらい、暴力にまみれた生活を送ってきた。それも兵士と違ってポラリスには武器も無いし戦いを生き延びるための訓練も受けていない。


 そのことに今さらながら気づいて、泣くのが止められなくなった。



「リヒトさん。私、ずっとつらくて。でもずっと考えないようにしていて」

「……うん」


 彼がうなずいて肯定してくれたので、流れる涙の量が増えた。


「今も、怖くて。いろんなことが、怖くて」


 母が追いかけてきて家に連れ戻されるのではないか。

 神殿で次期聖女にふさわしく無いと、失望されるのではないか。


 他にもいろんなことが怖くて、ポラリスはむせび泣く。


「大丈夫だ」


 リヒトのたくましく成長した両腕が、ポラリスのか細い身体を壊さぬようにそっと抱きしめた。


 ――あったかい。


 リヒトのつけたウッドテイストの香水があえかに香る。

 初めて感じたかもしれない温もり。

 今まで感じてきた痛み、絶望、苦しみ、悲愴。


「リヒト、さ、ん」


 泣きたくても泣けなかった日々。


「もう俺がいるから……もう君を守れるようになったから。だから大丈夫だ。ポラリス」


 耳元で囁かれ、驚きと嬉しさが心身を駆け巡る。

 だから、今なら。今なら言える。



「お願い、します。私を助けて、ください」



「分かっている。俺に、俺たちに任せてくれ」


 より強くぎゅっと抱きしめられて、ポラリスはリヒトの胸に顔を埋めて泣き続けた。


「だから大丈夫だ。今度こそ俺が君を守ってみせる」

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