第5話 「良かった」

 ――まるで、夢の中にいるかのようです……。


 ポラリスの蒼白だった顔色が、明かりがともったかのようにほんのり赤く色づく。生気せいきを取り戻していく。

 夜明け前の一番暗い空に差す朝のひかりのような、厳しい冬が過ぎて、春風の温もりで冬眠から目覚めた子栗鼠こりすのような。


 リヒト。リヒト・アンブロワーズ。かつて心許せた唯一の人。ずっと密やかに恋慕を寄せていた人。その彼が騎士としても、婚約者としても現れる。


 誇張無しに夢のような、奇跡のような再会だった。


 最後に会った日はまだお互い小学生だったし、親の方針もあって携帯端末の類は持たせてもらえなかった。

 だから連絡先さえわからなかったし、リヒトは小学校卒業後実は引っ越していたため、家を訪ねていくこともできなかったのだ。


 それが今こうして。目の前にいてくれるなんて。


 彼に向かって、一歩を踏み出した途端に。

 ふわん、と浮遊感に似た立ちくらみがポラリスを襲った。か細い体が前方に傾く。


 咄嗟に逞しい腕に支えられて、ポラリスはおずおずと顔を上げた。年月を経て大人の男性に成長したリヒトの、これは変わらない碧い瞳に自分が映るのが見えた。


 彼の世界に自分がいるということが分かって。少女の心に幾年かぶりに温かなものが満ちていく。


「大丈夫ですか」

「は、はい」

「ポラリス様、少し失礼しますね」


 ポラリスの体がひょいっと、リヒトの両腕に横抱きにされた。俗に言うお姫様抱っこである。


 中学高校とずっと女子校育ちであり、そもそも家族以外の男性とは会話もしなかったポラリスには無縁だったシチュエーション。ロマンス小説のヒロインを思わせる扱いに、胸がときめきの音色を奏でた。

 

 ずっと恋い焦がれた人に触れられて、変な声が出そうになる。


「ポラリス様。神殿にお持ちしたい荷物はありますか」

「段ボールだけあれば良いです。その……中に、服が……」


 男性相手に下着と言いにくかったので、ぼかして答えた。


「ならば私が運ぼう」何かを察したらしい表情のビアンカが、うなずいて見せる。「リヒト、君は彼女を」


「分かっております」


 リヒトははっきりと神殿長に答えたあと。ポラリスに対しては優しい声音で言う。


「俺はこのままあなたをお運びします。外で迎えの車を待機させているので、それでクレアシオン神殿まで向かいましょう。お母様もそれでよろしいですね?」


 リヒトはイヴォンに向かって「よろしいですか?」と問う形では無く、「よろしいですね?」と念押しをした。

 抱き上げられたポラリスからは母の顔を見えなかった。


「え、ええ……、そうね」


 いつも高飛車たかびしゃなイヴォンの何となく上ずった声のみが、耳に届く。


「先に行け、リヒト」

「神殿長?」

「私は少しだけ、ポラリスの母君ははぎみと話がある」


 リヒトが息を小さく呑む音がした。


「……了解。車の中でお待ちしています」


 妙に湿っぽい返答をしてから、リヒトがポラリスを抱きかかえたままその場を歩き出す。


「あ、玄関。出られないかも……」


 クライノート家の玄関ドアは、ポラリス以外の家族の生体認証でしか開かない。


「お父様からその辺りのご事情はうかがっております。事前に準備はしてありますので、ご安心ください」

「お父さんが?」


 急に父ベネデッドが話に出て、ポラリスは目を白黒させた。二人が玄関に到着すると、五十代半ばと見られる男性が立っていた。リヒトと同じ、神殿騎士のための紫黒しこくの制服。


「リヒト、大丈夫だったか?」

「俺は大丈夫です。ですが彼女が」

「嗚呼……その子か。確かに大丈夫じゃないな」

「……ブランカ神殿長がクライノート夫人と話をしています。長くなるといけないので、俺は二人で車に向かいます」

「分かった。俺たちも早めに行く」

「了解」


 男性騎士とリヒト。上司と部下らしき関係性の会話を淡々と済ませて。

 男性騎士が手にしたカードをドアにかざすと、カチャとロックが解除された。


 ――あれは、お父さんの。


 確かベネデッドが所持するカードキーに良く似ている。生体認証が何らかの理由で使えない時のためのものだ。


「行きましょう」


 リヒトの声に、ポラリスは目を瞬いた。

 外に出ると、寒い空気がひやりと頬を撫でる。すでに太陽は沈んで薄闇に包まれた庭園を小走りにリヒトは進んでいく。


「上着が必要でしたね」

「大丈夫です。寒いの、慣れていますから」


 そもそもポラリスはコートを持っていない。一応学校指定のものは持っていたのだが、とある理由で手放した。

 どのみち通年通して気温差が低めのエテルノ王国では、夏でもジャケットを羽織る人、冬でもノースリーブ姿の人はそこまで珍しくは無い。


 なのでポラリスの発言も、不審というわけではないのだが。


「…………………………そうですか」


 妙な間をおいて、低い声が降ってきた。


 門の外側に黒くモダンなデザインの公用車が停まっていた。一目で高級と分かる車のナンバープレート部分には、ナンバーでは無く翼を広げたペガサスがモチーフのマークが記されていた。


 ゆっくりと腕の中から地面に下ろされ、促されるまま車内後部座席に着く。


 ――車に乗るのも、久しぶり。


 隣の席にリヒトが身を滑り込ませると、小気味よい音を立ててドアを閉める。


「また会えて、良かった。ポラリス」


 海の色の瞳が、ポラリスをじっと見つめた。

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