八月七日 東京 「甘」

 六時間前。

 辻塚留佳は、一人電車に揺られていた。自分の中の論理が、事件の真相へと届いていることを自覚しながらも、その組み立てた論理の正当性を、懸命に確認していた。

「正しくないことを願ったって、仕方ないのに……」

 町田市に着くと、一度、駅の分煙スペースで一服した。夕方の予定もあるので、急がなければならないことは承知していたが、車谷宅へと向かう足取りは重かった。

 結局二本吸い終えてから、辻塚留佳は車谷宅へ向かった。

 インターホンを押すと、車谷明子が出た。

「はい?どちらさまで?」

「以前、お伺いさせていただきました、辻塚留佳です。」

「ああ!この前の!」

 ドアは開き、留佳は招かれた。

「この前はありがとうございました。悠介が連絡先を交換するなんて、最初はすごく驚きが大きかったんですけど、あの日以来、悠介がすごく本を読んだり、あれこれと考えたりしている様子が見えて、以前のベッドに包まっていた時とはもう全然違って!留佳さんのおかげです!」

 車谷明子の饒舌ぶりに気押されながら、留佳は自分の用事が一層重たく感じられた。

「いえ、悠介君は元々読書家で聡明です。私も悠介君とお話ができて光栄でした。」

「そんな、滅相もない。それで、お住まいは群馬だったかと思いますけど、今日はどのようなご用件で?」

「そうですね、お伺いした身でたいへん申し訳ないのですが、あまり時間がないので、単刀直入に申し上げると、悠介君に捜査の協力をと思い、来ました。」

「悠介ですか?留佳さんなら出てくるかもしれないですが、捜査の協力とは……?」

 気が重い。心が苦しい。だからこそ、蛇足は抜きに進めるべきかもしれない。

「悠介君は、神田先生殺害事件に関与していると考えています。」

 一瞬、明子が留佳の言葉を理解する時間が流れた。

「そんなはずありません!悠介ですよ!?それに、事件のアリバイは確認してくださったじゃないですか!」

「はい、悠介君が殺したとは言っていません。事件の関与について、お話を聞きたいんです。」

「関与って、何ですか?」

「留佳さん、お久しぶりです。」

 奥の階段から、車谷悠介がお辞儀をして姿を見せた。

「悠介君、お久しぶりです。」

「遠路はるばる、今日はどうしましたか?」

「神田先生の殺害事件について、悠介君に話があってきたの。」

 車谷悠介は、表情を変えることなく、留佳に応対した。

「何か協力できることがあるか分かりませんが、ぜひあがってください。ぼくの部屋にどうぞ。」

「悠介がいいなら……では、どうぞ。」

 明子に出してもらったスリッパを履き、悠介についていく形で二階へ上がった。


「最近すごく読書に努めているってお母さんから聞いたよ。どんな本を読んでいるの?」

「今は、留佳さんの話に出てきた、ドストエフスキーの「罪と罰」を読んでいます。今は第四章まできました。なかなかハードです。」

 このタイミングで「罪と罰」は、あまりよろしくないな、と留佳は静かに思った。

「そういえば、少し前に、悠介君の三年二組の教室に行ったんだよ。そしたら、教室の後ろに、神田先生からのメッセージボードがあって、悠介君の少年の主張について、神田先生が素晴らしいっていうようなことが書いてあったのだけど、悠介君は、少年の主張に何を書いたの?」

「別に、大したことじゃありません。父が死んで、世界は、思っていたより暗いと感じたんです。町は、テーマパーク程ではなくても、木々が道路に沿ってきれいに植えられ、桜や銀杏、葉桜が季節ごとに彩ります。デパートでもショッピングモールでも、いろんな商品がいろんな人の気持ちを嬉しくさせています。でもネットの世界は、そういう彩りがなく、人間の言葉ばかりが並びます。一番ごまかしの効かない人間的な場所だと思います。そこでは、誹謗中傷が溢れています。だから、人間の世界は思っているより暗い、ということです。でもそれに気付かずに生きていけるのは、商品とかの人工物や、木々や星の自然物など、物が小さな明かりをたくさん照らしてくれているからだって、そんなような意見文です。」

「神田先生は、その明かりだった?」

「ぼくにとって、人間は親以外明かりにはなり得ません。けれど、そうですね、一瞬、そう感じたのかもしれません。だからこそ、裏切られて消された時、真っ暗闇を痛感したんだと思います。」

「そっかそっか、うんうん。なるほどね…。」

 

 留佳は、前置きを終え、本題の話を切り出した。

「悠介君、この人、知ってるよね?」

 留佳が見せた写真は、公園の木の影でブルーシートを敷き、その上でお弁当を食べている神田龍弥とその妻、神田咲、そして龍弥におぶるように乗っかる娘と、咲の腕に眠るもう一人の娘の家族写真だった。

「この男性は、神田龍弥さん。悠介君にとっては、神田先生かな。八月二日、何者かによって突然命を奪われました。隣にいるのが、龍弥さんと結婚した咲さん。そして赤ちゃんと、世界でたった一人の父親くっつく、三歳の琴音ちゃんです。」

「そうですか……。先生の家族写真を見せられて、僕にどうしろと?」

「昨日、初めて悠介くんの家に行った日の翌日、遺族の神田咲さんに会わせていただいたんです。神田龍弥さんの思い出等について、少しお話しできたらと思ったのですが、私はまだまだ人生が薄弱でした。学生時代、バスケ部で大会に負けた日は、ベッドで泣いて一日過ごしました。高校受験の結果発表で不合格を突きつけられた日から、三日は部屋から出られませんでした。そういう経験から、辛いことがあれば、悲しむ時間があると、確保されていると感覚的に思っていたんです。でも大人は、咲さんは、最愛の旦那さんを亡くしても、0歳の赤ちゃんと、三歳の娘さんを子育てしていて、泣きじゃくる赤ちゃんをあやしたり、葬儀の手続きに電話を取り続けたりと、忙しなくて過ごしていました。悲しむ時間は、与えられないんですね。それでも、悲しみは深く、涙は止まっていませんでした。」

 車谷悠介は、静かに、伏目に留佳の話を聞いていた。留佳はその様子を見て、話を続けた。

「きっと、咲さんにとっては人生の地獄のような日々だと思いますが、少しの時間、話をさせていただけました。神田先生は、琴音ちゃんや、0歳の結ちゃんを、それはもう時間の限り、遊んだり抱っこしたりしてくれていたそうです。平日も必ず一緒に食卓を囲むことを約束して、ご飯の後は食器を洗って、寝かしつけも咲さんと一緒にしていたそうです。土日には、必ず色々な所の公園に連れていってくれたそうです。娘たちにとって、また咲さんにとって、立派で誇らしいお父さんだったことと思います。咲さん自身、龍弥さんと過ごすそのような時間が、とても幸せだったと話してくれました。」

「そんなこと…知らない。そうだったとしても、神田先生はお母さんを苦しめる存在だったことには、変わりない…」

「お母さんの苦しんでいる姿が、耐えられなかった?」

「何が……言いたいんですか。父さんが死んで、その時お母さんは本当に辛そうだった。ご飯も食べないし、作る時も、父さんの分も勘定に入れちゃうのか、作りすぎちゃって、できた途端僕の分だけお皿に出してあとは捨てたり、洗濯物がどんどん溜まったり、本当にぽっかり穴が空いて、本当に、出来の悪いロボットみたいでした。それでも、だんだん笑う時間が増えてきて、母さん自身気持ちが切り替えられるようになったんだなって思ったんです。でも、ちがった。母さんは、ぼくといてニコニコしてくれる時が増えたけど、夜一人になると、リビングで声を出さないように泣いていました。僕は階段の真ん中で姿を隠しながら、母さんの泣く姿を見ました。ぼくの前では、気丈に振る舞ってくれていた。でも逆に言えば、ぼくといれば気丈に振る舞える。まずは、形からでも……。そうやって、二人で頑張ってきたんです……」

「悠介君は、お母さんのために、たくさん考えてきたんだね。」

「でもそれが神田先生に崩されました。本当に、母さんの気持ちは順調に良くなってたんです……。ぼくが学校に行けなくなってから、ぼくがそばにいても、母さんは父さんを亡くした時のように、みるみる弱っていきました。」

「明子さんが弱まっていったのは、神田先生に原因があると?」

 留佳は、核心につく質問をする前に、「母さん」から「明子さん」に言い方を変え、悠介から心理的距離を僅かに離した。

「はじめは、学校に行かなくなったぼくに責任があると思って、すぐに学校に行こうと思いました。でも、母さんが、神田先生の対応が普通じゃないことを教えてくれて、数日休んだことで後に引けなくなって、学校にもう行けなくなっていたぼくとしては、ほっとしました。ぼくがこうなのは神田先生のせいなんだって。それと同時に、母さんがストレスから衰弱していくことが、本当に許せませんでした……」

 悠介は、以前話をした時のように、静かに、だが昂る感情が声色から漏れる調子で語感を強めた。

 ここだ、と留佳は思った。

「だから、神田先生が死ぬことを望んだ?」

 二人だけの部屋に緊張が走った。それは、元々張り詰めていた糸を、指で弾いたような、互いに、予期していたような緊張感だった。

 数秒の沈黙の後、悠介が口を開きかけたその時、突然部屋の扉が開かれた。

 そこには、お茶をもった車谷明子が、立っていた。

「すみません。さっきから聞いていたんですけど、悠介に一体何を聞かせてるんですか?神田先生の家族の写真まで見せて、いい人だって話をして、挙句「神田先生が死ぬことを望んだか?」なんて……。もう聞いていられません。まるで悠介が殺したんじゃないかって疑ってかかってるみたいです。いい加減にしてください。」

「悠介君と、話す必要があるんです。お気持ちは十分に分かりますが、どうか明子さん、もう少し待ってはいただけませんか?」

「そもそも、悠介は神田先生を殺してないんです!それは玄関でもお話をしたでしょう?それに、悠介が人を殺すなんて、殺人犯なんて、そんな罪深いこと、するはずがないでしょう?!悠介は私がずっと育ててきたんです。そんなことする子に育ててなんていません!そんな話をしにきたなら、出て行ってください!」

 その言葉はまずい、と留佳が思った瞬間、悠介は、大きな、しかし言葉にならない声で叫んだ。

 明子は突然の悠介の声に驚き、持ってきたコップの麦茶が、僅かにこぼれた。

「明子さんの気持ちは分かります。ですが、その言葉は……」

 悠介は、叫び声の後、泣きじゃくるように、感情が爆発した。

「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい……」

「悠介……?」

 明子は、当惑していた。

「もういい。もういいよ。もうやだ。ごめんなさい母さん……」

「なに、やめて悠介!やめなさい悠介!」

 車谷悠介は、謝罪の言葉を闇雲に繰り返した。

「悠介が、先生を…?」

「いえ、悠介君は、神田先生を殺めてはいません。」

「そうよね?そうよね?をってなんですか?そんな言い方やめてください!」

「ぼくは、母さんの子どもになれなかった……」

 車谷悠介は、咽び泣き、自責の言葉を吐き続ける。ある種、狂気を感じられる様だった。

 留佳は、この狂気の中、真実に手を伸ばした。

「悠介君、君は、群馬県に住む島田宗吾に、手を下したのですか?」

 悠介は一瞬、目を見開いたが、その表情に力はなかった。

「島田宗吾って、だれですか?どこの誰ですか?」

 事の顛末をまるで分かっていない明子が、留佳と悠介を交互に見ながら、息を切らしている。

「悠介君は、群馬県の島田亜美という三十代女性と交換殺人を企て、それに則り、群馬県のとある一家庭の夫を、手にかけました。」

「悠介?!悠介が?!悠介が、知らない人を殺したの?!答えて!悠介!!」

「やめてください!!!失礼ですが、悠介君が本当に殺意をもって、行動にうつしたのは、明子さん、お母さんによってですよ。悠介君と話をして、分かりました。悠介くんは三年生とはいえまだ中学生。中学生以下の善悪判断は、親の判断によるところが大きいんです。明子さんは、悠介君に神田先生の、先生としての至らなさをたくさんお話しされたようですね。」

「それは、神田先生が悠介をちゃんとみてくれないから……!」

「中学生以下の子たちの世界には、大人はほとんどいません。何かクラブに入ったり、活動的でなければ、学校の先生か親くらいでしょう。でも学校の先生は、主観の良し悪しは語りません。あの保護者はだめだ。あの先生は足りない。そんなこと言いません。教師という職業の上で、子どもと関わっているんですから。ですが、親は親です。自分の主観を子どもにさらします。子どもたちにとっては、それが包まれていない真実のように映るんです。道徳で先生が語る綺麗事とは違う、社会の真実のように。明子さんは、神田先生はダメな先生だという偏見を、世界の狭い悠介君に真実のように言い聞かせた。そして、その真実に悠介君は苦しんだ。」

「ダメな先生だから、殺してもらおうと思ったっていうの?!そんな飛躍おかしいでしょう!!」

「ちがう!!!もう分かんない!!やめてくれ!」

 明子と悠介の、金切り声が東京の狭い一室に、響く。

 留佳は、一呼吸置いて、温かい目で悠介を見た。

「うん。悠介君、ちがうよね。明子さん、あなたは、悠介君が苦しみ、学校に行けなくなっていく姿に、焦り、不安に駆られ、少し痩せ、今は通院されているそうですね。悠介君にとって真に許せなかったのは、悠介君の世界を創ったお母さんを、神田先生が壊したと思ったからです。大切なお母さんを傷つけたと、そう感じたからです。勝手に言ってごめんね。私は、悠介君の気持ちは、そういう気持ちかなって捉えています。」

「分からないです。ぼくがなぜそこまでの思いになったのか、今では分からないんです。でも、お母さんが苦しむ姿は、耐えられなかった……」

 泣きながらも、悠介は少し理性を取り戻してきたようだった。対して、明子はつい今し方突きつけられた真実を、息子が殺人犯だという真実を、飲み込めずにいた。

「やめてください!悠介は何も悪くない!!何もかも、悪いのは神田先生なんです!神田先生が、悠介が学校に行かなかった日に、友達に手を出しちゃった日に、もっと寄り添ってくれていたら……!」

「東京へ向かう途中、大学時代の同期で、神田先生と前任校で同じだった方から、神田先生がどのような人物か聞きました。神田先生は、四年前に、同業の方とご結婚され、現在は三歳と0歳の娘たちに恵まれ、幸せな家庭を築いていました。その家族写真を、私は悠介君に見せました。明子さん、神田先生のご家族のことはご存知でしたか?」

「知りませんでしたが、私と悠介には関係ないです。奥さんがいたら、子どもが幼かったら、仕事をサボっていいんですか?悠介を放っといていいんですか?!」

「神田先生は東京都内での子育てとなり、田舎の両家の親に頼ることも難しかったため、前任校の頃にはとってこなかった年休を、ギリギリまで使っていたそうです。普段も子育てを手伝うために、定時には帰るようにしていたそうです。いえ、神田先生にとっては、手伝う、という考え方ではなかったのかもしれませんが。神田先生が、早くに学校にいないのは、このような理由からです。それでも、忙しなくて、家族にもなかなか父親としてのいい顔をできていないと感じていたらしく、そのことを嘆いており、また、何より、クラスの子たちと全然心を全然通わせられていないと感じて、大変苦心されていたそうです。」

「言うのは簡単です。それでも、それでも悠介を見てくれなかった事実は変わりません。」

 明子は、悠介が殺人犯であるという話題から、内容が少し逸れたため、落ち着きを取り戻している様子だった。

「見てくれない、とは、いったい何でしょうか?」

「友達に手を出した悠介の気持ちを考えてくれないってことです!その後も、学校に行かなかった悠介の気持ちを分かろうとしてくれなかったことを、言ってるんです。」

「いい加減にしてください。」

 留佳は、静かに、とてつもなく冷淡に呟いた。

「神田龍弥さんは、「先生」である以前に、一つの家庭をもつ父です。咲さんの夫であり、琴音ちゃん、結ちゃんのたった一人の父親です。」

「でも、「先生」の仕事というものがあるでしょう?私はそれを言ってるんです。子どものために寄り添う仕事を放棄して、先生の給与をもらって、幸せな家庭をなんて、おかしな話なんです!」

「なぜ世の中はこうも学校の先生に甘えるんですか?今明子さんがおっしゃった通りです。先生は、仕事です。だから、定時までは子供のために考え、寄り添い、勉強を教えています。神田先生は定時で帰った後、家でも、結ちゃんを抱きながら、クラスの子たちのための授業の準備に努めていたそうです。悠介君のように、学校という選択権のない閉鎖空間に思い悩む子たちは、個性重視と多様性理解の教育の転換によって、とても増えました。だから、フリースクールなどのような、その子たちのための、専門の機関ができ、その人たちが懸命に寄り添い努めています。なぜそこにもっと目や、責任を向けず、一人の担任の先生に何もかもを望むんですか?夜中に外で遊んでいる子どもたちに指導しに行くのは先生の仕事ですか?家で居心地が悪くて苦しんでいる子どもの心に寄り添うために、その家に足繁く通うのは、先生の仕事ですか?それは、親、社会の本分でしょう?」

「そんなこと言ったって、……」

「社会とは、明子さんや、刑事の相模原さん、悠介君、もちろん私を含め、個の集合体です。一人一人の選択・判断が、社会を形成します。今、その社会が、考えなしに学校の先生に甘えすぎなんです。子どもを生むと選択したのは親ですよね?「親ガチャ」なんて言葉があるように、生まれてくる子どもは、生んでくれなんて一言も言ってないんです。勝手に生んだからには、親には絶対的に子どもを愛する責任があるはずです。なのに様々な理由を並べて、世の中は先生という一人の人間から愛を搾取しています。愛する行為は、無限通りあります。愛することは、親の努力義務です。先生が時間と共に搾取されるべきものではないはずです。」

 留佳は熱を込めて言い放った。僅かな沈黙が流れる。

「私と同じくらいの時間、悠介と過ごしていた神田先生に、同じように求めるのが、そんなにおかしいことでしょうか?当たり前のことでしょう……?」

「勤務時間であれば、仕事内なので当たり前だと思っていただいて構いません。それすら私は疑念を抱きますが、それは今は置いておきましょう。ですが定時以降は、搾取です。明子さんは、悠介君に対する愛を搾取する側ではなく、完全に注ぐ側でいなければならないはずです。法律では、子どもたちの第一責任者は、保護者であり、先生は第二責任者です。子どもの責任を取ることは、愛の一形態です。第一責任者が第二責任者に愛の責任を要求するなど、おかしいんです。」

「私は悠介に愛をそそいできました!!」

「失礼。もちろん、悠介君が文学を深め、ここまで元気に育ったのは、明子さん、また旦那さんの愛の蓄積でしょう。ですが今の明子さんは、悠介君を愛しているようで、甘えているだけです。悠介君の気持ちと言っていますが、家で神田先生の悪口を聞かせている時、悠介君が反論することなんて、一切、考えすらしていなかったんじゃないですか?明子さんが何を言おうが、悠介君は「そうなんだ」と思ってくれる前提で話を聞かせる。悠介君が、神田先生をどのように思っているのか、悠介君自身はどうしていきたいのか、詳しく話したことがありましたか?明子さんの振る舞いは、親の意のままに子を洗脳している、もしくは絶対に受け手でいてくれる我が子を使って心の自慰行為をしているだけです。親が、子どもに甘えすぎなんです。」

「なんて……こというんですか…。私は悠介を愛しています。」

「心で愛していることと、動詞系の意味で、「愛する」ことは違います。心で愛情をもっているか以上に、「愛する」ことができているか否かが重要です。実践の問題なので、勝手に生んだ親は、愛する行為をしなければならないんです。責務です。ですが世の中は、愛することと甘えることを混同している大人が多すぎます。また、明子さんが神田先生を敵視したように、子どもに対して随分過保護な社会になりました。ですが、現代の過保護は、子どもに何かあった時に、自分の責任にしないための、「責任逃れの過保護」です。真に深い愛から生ずる、かつての過保護の皮を被っている責任転嫁でしかありません。悠介君に学校に行かなくていいと言ったのは、明子さんですよね?でも、実際に自分の息子が学校に行かないとなると、そこに不安や焦り、「自分の子どもが不登校である」という社会的立場も気になり出し、結局は明子さんが不安定になっていった。明子さんが不安定になっていった理由に、悠介君の将来を思っての気持ちは、どの程度あったんですか?その気持ちが真に大きければ、神田先生の批判に収束など、しないはずです。」

 感情と理性の微妙なバランスの中で、今この瞬間も苦しんでいる明子に、不要な言葉を選ばずにぶつけたことに、大きく後悔しながらも、自分の言葉の内容に、留佳は後悔はなかった。

 明子は、留佳の言葉に、憤り、怒るのではなく、涙を流し始めた。これは、悲しみではなく、不安の雫だった。

「私は、どうすればよかったんですか……」

「悠介君は、明子さんに神田先生の批判をして欲しかったわけじゃありません。ただ、愛して欲しかったんです。大丈夫だよって、悠介は悠介だよって。それだけで、悠介君の世界の色は、きっと全く違ったはずです。」

 留佳の静かな言葉と、明子の啜り泣く音の中、車谷悠介は母の涙を見ながら、口を開いた。

「母さん、僕は、母さんにとって考えられないことをしました。母さんの子ども失格です。別に、神田先生が死ねば母さんが喜ぶなんて思ってないよ。でも、母さんの苦しむ顔がもう見たくなかったんだ……」

「島田宗吾を、殺したのは、悠介君ですか?」

 留佳は、静かに、しかしはっきりと悠介に問いた。

「はい……。ぼくが、神田先生を殺してもらう代わりに、島田宗吾を包丁で刺しました。怖くて、怖くて、何度も包丁で刺しました。」

「ああ……」

 明子は、悠介の部屋のドアの前で、泣き崩れた。

「悠介、悠介、悠介は何も悪くない。何も悪くない。私が悠介を追い込んでしまったの……。ごめんなさい。ごめんなさい。悠介は私のことを大切に思ってくれていたのに……」

「母さん……」

 明子は、顔を覆いかくし、息子の姿を見ることが出来ずにいた。

「留佳さん、あれから、どれだけ経っても、あの瞬間の記憶が消えません。震えが消えません。もう、おかしくなりそうでした。いえ、おかしくなっていたのかもしれません。何とかならないかと、前に留佳さんと話したドストエフスキーの話を思い出して、没頭しようと決心して読みました。先程、嘘をつきました。一.二章で読むのが限界でした。あまりにもラスコーリニコフがぼくすぎました。母さんを思えば、ぼくは絶対に捕まってはならないのに、今日留佳さんが来て、きっとぼくのしたことを分かっていて来たんだと思って、ほっとしてしまいました。ぼくは……耐えられませんでした。」

「よく、耐えたよ……」

「罪の、対義語……」

 悠介は、かつての留佳との会話を思い出しながら、息をつくように言った。

「ん?」

「はじめて留佳さんがきた時、ぼくは罪の対義語は何かと聞きました。人殺しの対義になることを、それをすれば、自分の中で気持ちの帳尻が取れるんじゃないかと、この苦しみから何とか抜け出せるんじゃないかと思って。けれど、留佳さんは愛だと言いました。それはもうとてつもないショックでした。僕は愛というのがきちんとはよく分からないけれど、母さんがぼくを愛してくれているのは伝わっていて、それでぼくはそれに応えたくて、ぼくも母さんが大切だからやったのにって……。」

「ううん、悠介君の気持ちは間違ってないよ。私も、未熟者です。悠介君の人生を、世界を、想像する力が足りませんでした。悠介君は、この車谷家の、暗い世界の部分を、何とか明るくするために、頑張った。この事件はその結末です。悠介君の言っていた通り、罪と愛は、同義語なのかもしれません。」

「ぼくにはもう分かりません。母さんが今目の前で泣いている姿を見て、留佳さんが僕のしたことにたどり着いて、それでほっとしてるんです。まともじゃない。」

「それが、罪と愛は対義語だということじゃないかな。」

 愛が罪へと導く。しかし、愛が罪を罪とたらしめ、救う。

 留佳は、改まった表情で、二人を見た。

 明子は、出る涙は出し尽くし、咽ぶ声は吐き尽くして、どこか虚脱感が見られた。

 留佳は、真剣な表情で

「先ほども言いましたが、私は刑事ではないので、この自供をもって、逮捕はできませんし、しません。私が今日ここにきて、このようなお話をした上での願いは、悠介君の自首です。警察は悠介君の犯した罪に辿り着きます。自首すれば、罰は軽減されます。犯した罪は、許されないものです。奪われたものは、取り戻せないものです。悠介君が奪ったのは、「先生」ではありません。咲さんの最愛の夫であり、琴音ちゃん、結ちゃんのの唯一の父です。悠介君は、犯罪を犯しました。ですが、悠介君には、まだまだこれから人生があります。その人生を、どう生きるか、よく考えてほしいのです。では。」

 と言って、そっと、明子に歩み寄った。

「悠介君を、愛してください。これから、とても辛く苦しい未来が確実に待ち構えているでしょう。悠介君を、そのまま愛するのは、明子さんの役目です。どうか……」

 明子は、目を閉じたまま、激しく頷いた。

 先は言わず、留佳は丁寧に頭を下げて、車谷宅を、辛く苦しくも、愛に満ちはじめた家を出た。

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