第10話 オスカー


 ブラッド辺境伯領内を凄まじい速さで風が駆け抜けた。


 その風を巻き起こすもの——騎馬で突き進むオスカーだ。


 そのあとを護衛たちが続く。


 領地の見回りを行う際は、魔獣たちを追い払うため、このような示威行為をしばしば行っている。


 その効果として領内の魔物による被害は皆無となった。


 なにせ人に会う仕事がないというのは領主としては役立たずに等しい。


 なので、この魔獣を追い払う作業はせめてもの慰み、いや、領主としての矜持を保つためにはオスカーには欠かせない儀式ともいえた。


(そろそろ帰るか。これ以上追い込むと他領の森へ逃げ込みかねん)


 ヴァルマーが主人の望みに応え、減速しはじめる。


 ほんのわずかな手綱の動きに反応し、館の方角へと転身。


 人馬一体の動き。その見事な躍動は、誰もが言葉を失う華麗さだ。


 並足で歩を進め、やがて駆け足となり、再び風の速度で帰路に着く。


 しばらくするとオスカーは、ヴァルマーのいつもと違う様子に気がついた。


「なんだ? やけに楽しげだな?」


 今日は何かあっただろうかと、オスカーは考えた。ヴァルマーの知能は高く、意志の疎通が可能だ。逆にいえば言葉を話さないだけといってもいい。

 

 背中から伝わる律動はヴァルマーの気分が高揚していることを主人に示している。


 そしてこのようなことは、特定のことに限られることがオスカーの記憶から呼び起こされた。


「ティア殿以来だな……。お前がこうして喜ぶなど」


 オスカーはヴァルマーのたてがみを撫でる。


 だが思ったような反応が返ってこないばかりか、速度がみるみると落ちていく。


「……どうした?」


 ついには脚は止まり、オスカーは下馬しながらヴァルマーに問いかけた。


「なんだ? なぜ怒っている」


ヴァルマーはオスカーの肩へ顔を押し付ける。怒りの意思表示だ。


「ティア殿の名前を出して、怒ることなどなかったではないか」


 押し付ける力がいっそう強くなる。


 オスカーがいったティアとは、前ウェンリー子爵夫人、ティア・ウェンリーのことである。


 オスカーはもちろんのこと、ヴァルマーにとっても命の恩人であり、その名前を出して怒り出す理由に、見当をつけるのは難しかった。


「ティア殿は、お前のお気に入り、マリアンヌの母でもあるし……」


 何気なく出た言葉に押し付ける力が弱まる。


「……そうか」


 そうだ。と、いうようにヴァルマーの嘶きが響く。

 

 オスカーは、蓋をしていた自身の心を、ヴァルマーに見透かされていたことに気付いた。


「いや、しかし——ぬぅっ! やめぬかっ!」


 ヴァルマーは後ろ脚で立ち上がると、前脚をオスカーに向けて振り下ろす。鈍いやつめと怒りが込められたそれは鋭い。


 本気か冗談かわからぬ力強さと速さに、オスカーは全力で飛び退く。蹄が地面に突き刺さり重い音が響いた。


 遠巻きにいた護衛たちが、焦りながら走ってくるのを手を向けて制止させながら、オスカーはヴァルマーに応えた。


「……わかった。オレが悪い。ちゃんと考えるから時間をくれ」


 ヴァルマーは鼻を鳴らして首を縦に振る。わかったのなら乗れというような仕草だ。


「館までの帰り道で考えるよ……」


 鞍に乗り直したオスカーは馬上で考え始めた。


 主人の思考を汲み取りヴァルマーは並足でゆっくりと進み始める。


(マリアンヌか……)


 オスカーにとってマリアンヌは恩人の娘だ。

 この十年で呪いの影響を受けない唯一の人物でもある。貴族にありがちな驕りもなく、慎ましい性格を備え、かつオスカーへ好意を抱いている。


 好条件どころではない。だが、だからこそ、その全てが自分では不釣り合いだとオスカーは考えてしまう。


(この呪われた身では彼女を幸せにはできぬ。子を成せるかもわからぬし、それにもし呪いが子に定着でもすれば……)


 実際、呪いが子に受け継がれる可能性は高い。爵位を受け継ぐなら、キースがいる。彼は分家筋だが、後継たる充分な血統と能力を有している。自分からリスクを取る必要はない。


 マリアンヌが魔法を使えない問題もある。本人の気質も含めて、貴族として生きるよりも平民として生きる方がどう考えても良い。


 ——いつもと変わらない考えがオスカーの脳内でまとまりかけたとき、マリアンヌにもらった飾り紐がふと浮かび、言葉が漏れた。


「いっそのこと、呪いも受けずに平民どうしで出会って……!」


 言葉を無理矢理止めて、胸の空気を全て抜き、大きく息を吸い込む。オスカーは爆発しそうな奔流が身の内から噴き出ていることに気付いた。


 自身の本音がこれほどまでとは思いもせず、ダラダラと汗が出てくる。


「ヴァルマー、駄目だ。これは俺の身勝手、浅はか、愚かな想いだ」


 最初は本当に恩を返すため、事情があったと言えど、己の不義理によって不遇に追いやられた女性を助けるためと。


 そしてその気持ちは、はじめてその姿をみた時、憧れの女性とよく似た姿と重なったことで、変容してしまった。


 呪いの影響を受けず、話しかけてくる彼女の笑顔、オスカーの内面へ寄り添う——。


「しかし、俺では彼女を幸せにできぬ」


 断ち切るような冷たい口調は自分に浴びせるためだ。何度も考えたのだ。今は自分の不甲斐なさで、この状況と関係に甘えているに過ぎない。


 本来なら早々に家から出し、街中で保護すべきだった。ウェンリー子爵家は利益さえみせておけばなにもいわないだろうし、自由の身にするならすぐなのだから。


 しかし、オスカーはそうしなかった。出来なかった。

 

「ははっ」


 オスカーは自身の浅ましさを嗤った。


 そうせねば心の平衡を保てないからだ。

 

(戦場の英雄などと持て囃されようと、ここにいるのは呪いに翻弄される情けない男が一人)


 オスカーの気が萎むとヴァルマーの脚も止まった。ちょうど遠くに海を望む丘に差し掛かり、潮風が吹きぬける。


「ヴァルマー、オレは……」


 波は幾重にも重なり、砂浜へ打ち寄せていた。


 人馬はしばらくの間、丘の景色の中に溶け込み、それを眺めていた。


 


 


 


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