第7話 エルポート


 マリアンヌは、辺境伯領を西へと馬車で進んでいた。


 車窓から外をながめていると、単騎で走るオスカーが目に入る。


 普通はありえない光景だ。


 護衛はいるにはいるが、なにかあったときに間に合う距離にはおらず、遠巻きに追走するばかり。


 貴族として乏しい知識しかないマリアンヌでも、これは異常だとわかる。


 だがそれで良い、いやどうしようもない、とキースが語っていたことを思い出す。


 馬上のまま迂闊に近づけば、恐怖心で手綱の操作を誤るおそれがあり危険である。


 落馬が心配だが、オスカーの身体強化魔法は、落馬程度では傷ひとつ負わないほどのものだ。


 そして魔獣は人と同じどころか、それ以上にオスカーを恐怖し逃げていく。


 なんとも都合のよい魔除けだが、それでも露払いの役目は、主人の心を幾分か軽くしてくれるものだからと。


 そう語るキースの横顔は、苦虫を噛みつぶしたような表情で、納得しているようにはみえなかった。


(普通の動物には効果がないのが唯一の救いだなんて……)


 馬の背にまたがり、街道の脇を駆ける姿をみる。物語から飛び出してきたように凛々しく、時折こちらを向く、美しくも苦悩がにじむその横顔。


 マリアンヌは唇を引き結んだ。


(なにかお力になれることは……)


 歯痒さと胸に燻るくすぶる熱を感じていると、馬車に同乗する対面のソフィアから声がかかった。


「そろそろ到着致しますので」


 領内最大の港町エルポート。出発から半日、今回の目的地は目前だ。


「奥さま、失礼致します」


 旅装といえど、辺境伯家のものとしての衣装は、気をつかう箇所が多い。


 ローブに汚れがないか、崩れた箇所はないか、ソフィアが細やかなチェックをはじめた。


 問題がないことを確認すると、ソフィアは化粧道具を取り出し、マリアンヌの目元を薄く彩った。


 そして、つばの広い帽子をのせる。


 子爵家にいた頃とはかけ離れた、美しい貴族令嬢が完成し、それと同時に馬車が停車した。


「到着にございます」


 コンコンと馬車のドアがノックされると、キィと少しだけ鳴いて開く。


 ソフィアが先立って馬車から降り、マリアンヌへと手を差し出す。


 その手をとり、馬車のタラップを踏み降りる。


 顔を上げた先には白亜の宮殿。


 港町を見下ろす丘に建つそれは、ブラッド領の領主館よりもさらに豪奢ごうしゃで、王侯貴族の離宮と言ってしまって差しつかえない。


 それなりに距離は離れているのに、見上げなければ全体が見渡せないほどの大きさである。


「エルポートの行政府だ。はるか昔、ブラッド家が小国の王であったころの宮殿を利用しているので少し大げさな建物だが」


 呆然とそれを見上げるマリアンヌに、声をかけながらオスカーが近づいてきた。


 ごく自然な動作で、ソフィアが持つマリアンヌの手を引き受け、説明を続ける。


「約三百年前、当時はエルポートではなくブラッドポートと呼ばれたこの街は——」


 しかしマリアンヌにその説明は上手く伝わらない。握り合った手に視線は釘づけだ。


(帽子で顔が隠れていて良かった……)


 少しだけ遊んだ親指が、オスカーの手の甲をなでる。


「——ああ、すまない、強かったか?」


「違いますっ……そうではなくて」


 マリアンヌは、離れようとするオスカーの手を両手でとり、もじもじとまごつく。


 そうこうしているうちに、宮殿の入り口から使用人たちが現れ、馬車へ続く道に整列をはじめた。


 使用人たちで作られた歓迎の道だ。


 そこを宮殿から現れた身なりの良い壮年の男が歩いてくる。


 男は二人の前まで颯爽とたどり着くと、片足をついた。


「お館さま。奥方さま。ようこそエルポートへおいで下さいました」


「……ああ、レスリー。楽にしてくれ」


 相手の恐怖心を駆り立てないよう、オスカーは短い返事に留め、手を少し払う仕草で楽にするようにと男に伝える。


 男は顔を伏せたまま、すっと立ちあがった。


 オスカーと手慣れたやりとりの様子をみせる男は、【レスリー男爵】とマリアンヌに名乗り、館の中へと一行を招いた。


 レスリーの案内で宮殿を進む。


 磨かれた石床の上を歩く。マリアンヌとオスカーの手はまだ離れていない。


(顔が熱い……帽子でよかった)


 紅潮する頬を帽子で隠しながら通路を進むと、開放的なバルコニーを備えた一室へと辿りついた。


「年次報告と商会からの提案書及び住民からの嘆願書になります。お目通しを」


 オスカーはマリアンヌの手を離し、部屋にある執務机に座ると、レスリーから紙の束を受取り、書類を確認し始める。


「奥方さまはあちらに。準備させて頂いたものがございます。ソフィア……ああもう始めていたか」


 レスリーが合図するまでもなく、すでにソフィアは、海を臨むバルコニーに建つガゼボへ移動していた。


 備えられたテーブルなどを整えつつマリアンヌを待っている。


 レスリーに案内され、ガゼボの中へと進む。


 促されるまま腰をおとした長椅子の座面は柔らかく、革の手触りが心地よい。


 ローテーブルには、透明なグラスに注がれた赤く澄んだ液体が置かれている。


「ココ・ブラッドの果実を絞ったものでございます。すっきりとした甘みですので、きっとお気に召していただけるかと」


 マリアンヌは、ソフィアに勧められるままグラスを手に取り、口に含んだ。


 甘さの中にほんのりとした酸味。どちらかが主張すれば崩れてしまう、完璧なバランスの味わいがマリアンヌを潤していく。


「美味しい……」


 喉が渇いていたのもあるが、マリアンヌは一息に飲み干してしまった。少しばかりはしたない自覚から、ほほを赤らめながら空のグラスをソフィアに手渡す。


「いかがでしょうか?」


 レスリーが、にこやかにマリアンヌに問いかけた。


「わたし、こんな美味しいもの、飲んだことがありません」


「この街の名産、いえ、ブラッド領の象徴ともいえるものでございます。お気に召していただけたのはなにより。それと……こちらも御覧頂きたく」


 レスリーが日よけの布を上げた先に景色が現れた。


 大小さまざまな海竜がけん引する船舶。それらが出入りする港と、白一色で統一された街並みがそこには広がっている。


 そして街と船とを浮かび上がらせるような、緑青の海。


「こちらもお気に召して頂けましたな」


 マリアンヌは帽子をとってレスリーの呼びかけにうなずいた後、言葉もださず輝く瞳を街にさだめ続けている。


 レスリーは大きく頷き、ソフィアがいる場所へ顔を向ける。


 事前に知らされていた内容、マリアンヌの人柄は誇張なくその通りであると、レスリーは満足な様子をソフィアに示した。


 そしてもうひとつ、レスリーは気付いた内容を共有しようとソフィアに近づき、マリアンヌには聞こえない小さな声で話しかけた。


「奥方さまは不思議な魔力をお持ちだ」


 レスリーは、高位の魔法使いである。


 ひと目見れば、その者が持つ魔力の大きさや質を見抜くことなど、たやすい程度に魔法には精通している。


「魔力? わたしどもは何もわかりませんが……」


 ソフィアは驚きを口にした。


「ではお館さまの呪いが、ほんの僅かだが軽減しているのも感じておれぬな?」


「まさか……」


 ソフィアの目が大きく見開く。


「ごくわずかだがな。奥方さまの魔力が関係しているとワシは思う。さらに軽減される可能性もある」


「どういうことでしょうか」


「奥方さまの魔力が上手く動いておらぬからだ。通常、魔力は小川のせせらぎのような速さで全身を巡るのだが、奥方さまはほぼ流れておらず停滞しておられる。魔力を上手く扱えない者たちの症状と同じだ」


「では、奥方さまが魔力を扱えるようになられれば」


「そうだ。だが、どうやればこの症状が改善されるのかは人により違う。色々と訓練をするなどして

、お試し頂く必要がありそうだが。——お館さまがお見えだ」


 今後の見通しを話す最中、背後からオスカーの気配を察知したレスリーは、ここからはまた別の仕込みと会話を切り上げ、ガゼボからそっと離れた。


 ソフィアもテーブルの上に新たなグラスを準備するとその場を退く。


 頭を下げる家臣たちが手を向ける方向へオスカーは進み、ガゼボの前で立ち止まると、声を漏らした。


「綺麗だ……」


 マリアンヌはオスカーの声に振り向くと微笑んだ。


「ええ、とても綺麗です」


「気に入ったようだな」


 オスカーは、平静を装いながらマリアンヌに話しかけた。


 綺麗だといったのは、街を眺めるマリアンヌに向けてだ。


 だがマリアンヌにはそれが伝わっていないようで、オスカーは少しばかり安堵した。


 しかし、同時に自問が浮かんだ。


(……おれはいま、伝わらなくて残念だとも考えていなかったか?)


「あの海竜はなぜあんなにも大人しいのでしょう。わたし、竜は危険な生き物だとばかり」


 マリアンヌの声がオスカーを引き戻す。


「……あ、ああそれか。稀に、親が死んだかはぐれたかで、幼体があそこの砂浜には打ち上げられる。それを助けてやると人になつくのだ」


 目の前の女性は、まっすぐに自分をみつめてくる。貴族的な駆け引きもなく、思った気持ちを素直に口にだす。


 オスカーは、心地良さが胸にあふれていることに気づき、すこし戸惑った。


「不思議な景色ですけど、とても綺麗で……。それと、この果実水も信じられないくらい美味しくて」


「取れたてのココ・ブラッドが味わえるのは、この街ならではだ」


(楽しそうに笑うのだな……)


 その日、オスカーとマリアンヌは日が沈むまで語らい続けた。

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