萌芽

 穏やかな川辺は時の流れもいっとうのどかで、水辺の草木も道端を挟んだ向こうの林も、まだ春の季節になりきらない。


 馬車を停め、馬がこくりこくりと水を飲む傍らに、何事か佇む三つの人影がある。片腕の少年、露出の多い少女、そして何事かを唱える年かさの馭者である。


「《やじりの宛名、風の足跡、巡る光の会う空よ》」 


 豊かな髭に隠れた口から、朗々と呪文が流れ出る。低く、それでいて小気味の良い調子の詠唱。気後れした様子もないあたり、随分慣れているらしい。


「わ……」


 最初に少年、すなわちケルハに見えたのは、泡のような弱い光。しばらくすればそれがぱちぱち弾けて、馭者の節くれだった手のひらの上で短い枝がくるくる回る。ゆっくりゆらゆら速度が落ちて、最後には宙に浮いたままぴたりと枝は止まってしまう。ケルハは、昔に旅人の見せてくれた水盤と磁石に似ていると思った。


「見事だねえ。テモータくんといったかな」


 にこやかに拍手をしている少女は当然ディンツェだ。あいも変わらずのどこか不吉な笑顔だが、慣れているのか中年の馭者……テモータは気にもしない。ケルハとてもそんなものだともはや納得しつつある。


「記憶が確かならこれは《辿る星》という名前だったよね。正確に目的地を指し示す、道案内の魔法。よくできているよ」

「これも含めて二つ、三つしか魔法は覚えておりませんがね。儂も人を運ぶ仕事ですので、万が一の時に」

「ふむふむ。なかでもキミは貴族に仕える身だしね、習得は当然といった具合かな。たぶん《杖訪ね》の発展形だと思うのだけれど、そこまでは……ああいや、今の目的はそちらではないのだった。ケルハくん、どうだい?」

「……あ、えっと、はい」


 ついていけない話を聞き取ろうとするに必死だったが、水を向けられて慌ててこくこく頷き返す。

 わざわざ馭者という立場のものに《辿る星》を使ってもらったのは、迷ったわけでもなければ、馬車に不慮の事故があったわけでもない。馬と人との小休止がてら、ケルハの能力を確かめるためであった。


「ええと、たしかに。集中して見つめてたら、なんだか、ぽこぽこって光るのが見えましたね。はっきりとではないけど……」

「ほほう!やはり!なあ、言ったろうテモータくん!」

「――なるほど。確かに、訓練もせずに見えるというのは」


 そうして揃って見つめられると、ケルハは気恥ずかしくでしようがない。百歩譲ってディンツェの病んだ深淵の瞳は少し慣れたにしても、年上の馭者が髭を撫でつつ感心する様にはどうにも照れてしまう。


「いいかいケルハくん。それは紛れもないキミの資質なんだよ。例え魔法使いであれど、必ずしもできるわけじゃあない。例えばあの晩。戦いの始まる前に、オレがこっそり魔族ミメクの一団に近づいた時。覚えているかい?」

「まあ、はい。僕が初めて勇……じゃない、ディンツェさんを見つけた時ですよね」

「そこなんだよ」


 黒手袋に覆われた指先が、ぴしりとケルハを指さした。ディンツェの人差し指はそのままこつんと少年の額にぶつかって、とんとんと二、三度叩いて離れていく。

 なんだかよくわからない行動だけれど、おそらく彼女は上機嫌であるらしいというのがケルハの見解で、結局はなすがままになるしかない。


オレはね、魔法を使っていたんだよ。一つの精神的指向性を与える魔法だ。あの時の効果はオレに気が付き難くなる――より正確には、視覚や聴覚で感知したとてといったところかな」

「えっと……つまり、例えディンツェさんを見つけても、どうでもいいと思っちゃうような……?」

「そう!良い理解だ!」


 痛めつけられていた村人達、元軍人たる魔族ミメクの一団。彼らがそろって注視すらしていなかった。ケルハが彼女を見つけるまでは。


「だがキミはオレを見つけ、あまつさえ魔族ミメクだと気がついていたそうじゃないか?これがどういうことかわかるかな?」

「え、えっと。魔族ミメク云々にしては正直なとこほとんど勘で、」

「勘の導く答えってのは、大概経験に基づくものだぜ。あの時キミはたくさんの魔族ミメクを目の当たりにして、無意識下で彼らの特徴を覚えることができたわけだ。すなわち人間とは異なる魔力の流れ。キミが魔力を見れるというのは、たったいまキミ自身が確認したばかりだろう?」

「ええと、そう……なの、かな。あれ?でもそうだったとして、僕はディンツェさんのことを魔法のせいでどうでもいいって思ってしまうんじゃ……」

「そう!普通ならそうだった。良い理解だ!その点も大事なことではあるけれど、一端後回しかな。今重要なのはキミの魔力視の才を磨くことだ。さあ、見てみたまえよ。さあ、さあ!」


 くるくる回る勇者の姿は、まるで幼子のはしゃぐようだ。その一方、胸元も腹部も大きく露わなその姿は、昔に旅人から聞いた踊り子の格好をケルハに連想させる。

 無邪気さと妖艶さ、締まった肉体を這う木の根。退廃的にも見える表情――


(違う違う、余計なことを考えるな)


 異種族、異性、そして命の恩人。ある程度の情動を取り戻したケルハにとって彼女は刺激的にすぎるものの、だからこそ期待に答えたいとも思う。目を凝らす。集中する。長い長い数瞬の間、息を止めて思い出す。文字通り必死に彼女を見つけ出した、あのときの感覚。


「…………あれ」

「見えたかいオレの魔力!?どう!?」

「あ、いえ、その……そっちもいくらかはわかった気はするんですけど」


 つい、と奥を指さした。

 ディンツェの後ろ。浅瀬を超えて、水の深さも見通しきれない流れの真ん中。


「そっちの川底のほうも光ってたような」


 ケルハの言葉の終わる前に、ディンツェは背中の剣を振り終わっている。少女の背丈ほども長さのある、肉厚の、鉈じみた大剣。それを片手でくるくる軽やかに操る姿はいっそ戦闘にも見えぬ動きであって、少年が事態に気がついたのは遅れて音の聞こえた時だった。


「――ッ、テモータさん!危ない!」


 バジッ、ジジジジジジッ。重なる異音は勇者の刃がを防いだ音であり、続いて弾いた余波で馬車の半分が砕け散る。ケルハの叫ぶ声すらかき消される中で、むしろテモータは咄嗟に手を掴んで避難を助けようとしている。額から浅く血を流しながらも、迷いなくケルハを引っ張っていく。当たり前のように、少年よりずっと荒事での役割を知っている。


(僕が足手まとい……いや、そんなこと考えてる場合じゃない!今出来ることは……邪魔にならないこと……!)


 促されるまま、馭者と共に馬に乗る。野盗?それともまさか、の仲間なのか?いつから?どこから?どうやって。逃げる間も疑問は尽きない。だが、考えるのは自分の役目じゃないのだと、ケルハは無力さを噛みしめる。間違えるな。


(逃げる――しか、できないのか。本当に……!)


 馬の二人乗りすら初めてで、その場を上手く離れられたのだって奇跡なのかもしれない。それでも、ケルハは振り向いた。何か。無いのか。


 集中せねば見えなかった魔力の光は、今や奔流となって勇者の姿を隠していた。


                *


(しくじったな)


 戦闘の愉悦と並列に、己の未熟さをディンツェは思う。気配を消しての襲撃。自身が行ったこととそっくりな作戦に、寸前まで気がつくことができなかった。


 自身が同胞たる魔族ミメクの間で知られているのは理解している。この襲撃の理由は今は脇に置いたとしても、襲われる可能性というのはもっと鑑みるべきだった――否。鑑みてはいた。ただ、一人で行動する分にはどう襲われようが構わなかっただけだ。現状、それでは到底足りないのだ。勇者として誰かを守るのなら。


(ま、後悔は後回しだ。必要なのは推測。この攻撃を防ぐことは可能だ。だが、この攻撃の意図を知らねば再び後手に周りかねない。敵の目的と正体はなんだ?)


 攻撃手段は魔法。攻撃者の位置は不明。川底に魔力反応あり。襲撃された箇所は、一帯の領主たる辺境伯の住む街へ続く街道だ。幸いにして人通りはほとんどない、というよりも交通の便に優れた新しい街道が今は主流であって、もとよりディンツェのようなを運ぶのに都合が良いと選ばれたらしい。


オレ達がこの道を行くのを知っていた連中は限られている。あの馭者が襲撃者の手のものだった――おそらく無いな。彼は辺境伯のところで何度か見た。あの男の観察眼は確かだ。肝心要の領主閣下がオレを裏切ったのなら話は別だが、彼はそんなことはするまいな。オレを嫌ってはいるかもしれないが)


 酷薄な笑みで、不可視の魔弾を刃で切り裂く。

 剣舞の冴えるその一方で、攻防はぎりぎりの紙一重だ。ただ目に見えぬことに頼った乱暴な攻撃手段ではない。わかりやすい大玉と、それに隠した高速の弾丸。狙いすました速射をかろうじて反らし、着弾の結果を横目で見やる。川べりに大小のクレーター、炸裂した土と石で被害はさらに広範囲だ。街道も半ば崩れてしまっている。


(威力が高いな。どちらの魔弾も、そこらの旅人を襲うには不相応なほど高威力だ。まず間違いなくただの野盗ではありえない。我々の乗ってきたあの馬車。あれは貴族用に防護の魔法が加えられていたと聞いた。つまり、あれごとに全員を殺す算段で用意した攻撃魔法か)


 守るべき対象の二人は攻撃範囲を抜けたらしい。これで戦闘に巻き込まれて死ぬことはあるまい。だが、分断させられた状況は楽観視できるものではない。速やかに相手を倒さねばならぬ。


「……ふ、ははっ」


 ふと、口元の笑みが裂けるように深くなる。

 ディンツェの感情は、良きも悪しきも笑いとして出力されることが殊更多い。自戒。後悔。焦り。それら全てが、攻撃的な衝動と一緒くたになってほほえみになる。


「くつくつくつ」


 笑う。笑う。傍目には愉しんでいるだけのように見えるだろう。


 不吉な笑いを携えて、剣舞は正確さを増していく。長大な刃で弾き、反らし、あるいは切り裂くことで炸裂地点をずらす。防御、防御、防御――そのうちに、刃の触れる前に弾丸が炸裂し始める。


 少しずつ舞はゆるやかに。しかして攻撃は確実に届かず。だが、襲撃者とてもさるものだ。川が破裂するように大きく膨らんで、魔力の渦が唸り始める。それは不可視性を犠牲にしての、圧殺の構えである。


「―――水中なのは、オレの探知と干渉を避けるためだったのかい?」


 ぴり、と。

 空気が一層張り詰めて、眼前の勇者を破壊せんとする魔法にまったがかかる。

あるいは、敵対者の奥の手を警戒してか。


「花粉も枝も、水を纏えば生半には届かないと思ったのかな。さらにこれほどの威力と連射。詠唱を隠れた状態でしっかり済ませて置いて、たらふく魔力を込めたんだろう?そのせいでケルハくんに見つかったわけだがね。ああ、彼のことまでは想定外だったのかな――ふふ、くくく」


 外套が翻り、細身の少女の肉体がめきりめきりと膨れ上がる。木の根はずるりと伸びだして、舌なめずりするように白い肌の上を蠢いている。《狂奔の勇者》。彼女の能力は、大剣の習熟、それを操るだけの筋力、精神への干渉。


 


 ディンツェ・トゥールサンは、生来より魔法に親しい魔族ミメクの勇者である。


「隠れての不意打ちは意趣返し。先日に屠った魔族ミメクの一団とキミは繋がっている、と考えるのが自然なわけだけど……さぁて」


 今や膨れ上がる魔力の渦は二つに増えた。

 衝突寸前の二種の奔流は、遠目にも明らかな恐るべき破壊の前触れである。


「終わったあとに、話ができればいいのだけどね?」


                *


『――分断が確認できた。これより二匹の羊を追う』


 耳飾りに手を当てて、男は思念で返答する。《歌う鏡面》は便利な魔法だ。媒体が小さくていいことも、隠密行動には随分有り難い。


(化け物共め。勝手に潰し合っているがいい)


 通信を切って、心のなかで吐いて捨てる。魔族ミメクとの和睦。魔族ミメクとの交流。あげくのはてに、魔族ミメクの勇者。馬鹿馬鹿しいことこの上ない。あんな戦いをする連中など、人間の国の内に引き入れるべきではないのだ。


(個体ごとに魔法を備えた種族だぞ?どんな問題を起こすかもわからんのだ。百歩譲って和睦はいい。だが、このイカーフト王国の地を……否!四大国の内のひとつたりとも、やつらが踏むなど許されんのだ!)


 これは正義であると男は確信している。

 散っていった勇者や英雄、数多の兵士。全ての人間の歴史において、正しき行いであるのだと。人々を守るためならば、致し方ないことなのだと。


(ああ、そうだ。正義だ。そのためならどれだけ我々が汚れたとて構わない。そうとも。例え、そう)


 足元の新芽を踏みつけに、男は影のように林を進む。

 枝にも幹にもぶつかることなく異様な速さで走り抜けるのは、なんらかの魔法の恩恵であろうか。そうしてこともなげに目標を視界に捉える――馬に乗った中年の男、そして片腕のない少年。


(例え魔族ミメク共と手を結んででも)


 男は、次の通信を開始した。

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