あなたのヴァンパイア

鍵崎佐吉

ファーストキス

 どうしてこんなことになっているのか自分でもよくわからない。ただ一つ確かに言えることは、酒の味を覚えてから一年やそこらしか経っていない俺たちはアルコールの力を侮っていたということだ。全てをそのせいにできるわけではないけれど、素面では到底こんなことはできなかっただろう。

 最初はただ大学の友人たち三人と近場の店で飲んでいただけのはずだった。本当にその時は俺たちは友人でしかなかったし、別に彼女に対しても特別な感情なんて抱いていなかった。むしろ彼女の友達である佐々木さんの方が胸も大きいし、おしとやかな感じがして好きだった。だからといって何か行動を起こそうという気にはならなかった。そもそも女の子にどうやって好意を伝えればいいかなんてわからなかったし、俺の行動によって今の関係が崩れてしまうのが怖かった。結局俺は大学に入って初めてできた「異性の友達」という存在に浮かれているだけの童貞だった。

 一時間ほど経った頃、佐々木さんは家が遠いからという理由で少し早めに帰って、俺の男友達も自宅生なので終電前に帰っていった。残された俺たちは酔いのせいかそう気まずい空気になることもなく、むしろ同じアーティストの曲が好きだったことがわかって盛り上がっていた。盛り上がって、酒を飲んで、そしてついにお互いの性癖なんかも語りだして、その先の細かいやり取りは覚えていないが、気づいたら彼女は俺の隣にぴったりとくっついて二人で夜道を歩いていた。特に口説いたりした覚えはない。いや、「うち来る?」くらいは言ったかもしれない。それはもうそういうことなのだけれど、それでいいやという気分になってしまっていた。それでほいほいついてくるということは、彼女もまたそういう気分だったんだろう。今まで絵空事でしかなかったものも拍子抜けするほど簡単に手に入ってしまう。俺はアルコールの偉大さに感謝しながら体の底から滲み出るような全能感に酔いしれていた。


 俺の住んでいる狭いアパートの一室で俺たちはまた酒を飲んだ。飲みながらどうでもいいことを話し合って、体を寄せ合って、彼女が「なんかドキドキしてきた」と言うので、勢いに任せて唇を重ねて舌を押し込んだ。ファーストキスではあるが別に甘酸っぱかったりはしない。さっきまで飲んでいたウイスキーの味がこびりついていて、それをそぎ落とすように俺たちは舌を絡め合った。どれくらいそうしていたかはわからないが、口を離したときには俺の下半身は完全にその気になっていた。それを指摘されるのも恥ずかしかったので酔いに任せて俺は口走る。

「めっちゃ起ったわ」

 あるいはそれは最悪のセリフだったのかもしれないが、それを聞いた彼女は気恥ずかしそうに笑っていた。俺の中の生まれてこの方ずっと眠り込んでいた野生がやっと目を覚まし、俺の脳髄に向かって「いける」と囁いた。ゴールテープを体で引きちぎるように俺はそのまま彼女の体を押し倒す。押し倒しながら、そういえばゴムがないということに気づいた。幸いコンビニは近くにあるので五分もあれば買って帰ってこられるのだが、一度この流れを途切れさせてしまうともう二度とここまで来られないような気がした。

 思考を巡らせながら俺は曖昧に彼女の髪をなでる。こんな状況でも意外と冷静に物事を考えている自分が少し可笑しかった。もし目の前にいたのが彼女ではなく佐々木さんだったらここまでの余裕はなかっただろう。俺はただ、どうすれば安全で効率よく安上がりに童貞を捨てられるか、それだけを考えていた。

「噛んで」

 不意に彼女の声が聞こえたのはその時だった。何か今までとは違う、性欲をぶつけ合うだけの稚拙な戯れを超えた深い夜の空気を感じた。しかし困惑したりしどろもどろになったりして童貞を晒したくはなかった。俺はあくまで冷静に彼女に問いかける。

「どうして?」

「歯、ぎざぎざしてたから」

 それは多分答えにはなっていない。性癖に対して答えを出すことなんて人間には不可能なんだろう。だとしたらもう甘んじて受けいれるしかない。何より少し興味があったし、女性の要求を断らない方が余裕があって非童貞っぽいと思ったので、俺は彼女に従うことにした。

「どこを?」

「どこでもいい」

 どこを噛むのが適当かなんて見当もつかない。でもきっとこれは彼女にとっては必要なプロセスなのだろう。ただ自分の中に芽生えたどこか仄暗い衝動に従って、俺は彼女の首筋に噛みついた。柔らかくて張りと弾力のある女の肌。思っていたよりもずっと噛みづらい。力を込めればその分だけ溢れる唾液で歯が滑る。

「もっと強く噛んで」

 彼女の懇願が耳に届く。俺は噛みつき童貞を晒したくはなかったので、多少傷がついても構わないというくらいの気持ちで思い切り噛んだ。それでも血の味はしなかった。普段口にしている牛や豚の肉がどれだけ食べやすいように加工されたものなのか、俺は恋人でもない女の首に喰らいつきながら思い知った。それでもこの行為がやめられなかった。


 思えば脱童貞を目指したのはただ体裁のためだった。もちろん俺は人並みの性欲を持っているし行為自体にも興味はあったが、そのうえでどこか冷めた気持ちも拭えないでいた。ただ穴に突っ込んで腰を振って、それだけのことになぜ人はこんなに夢中になるのか。一人で済ませてしまった方が遥かに楽だし、色んなシチュエーションも楽しめる。現実の女性に触れられないまま思春期を過ごしてしまった俺はいつしかそんな思考になっていた。溢れかえるほどの性的コンテンツを手当たり次第に漁りながら、満たされない何かを埋めようとして藻掻いていた。でも大抵の場合、挿入シーンはスキップした。純粋に魅力を感じなかったのだ。自分がするのならまだしも、他人がセックスしてる様子なんて見ても何も面白くなかった。もっと淫靡で直感的で倒錯的な何かをずっと求めていた。

 以前彼女に「Sっぽい」と言われたことがある。多少の自覚はあったのでそうかもしれない、と答えた。彼女はその時、俺に何を見出し何を望んでいたのか。思えばその時から彼女のまとう雰囲気が少し変わったような気がする。俺の方はといえば女の子とそういう会話ができたということを内心で喜んでいた。つまり相手は誰でも良かったのである。俺にとって彼女はただ都合のいい存在で、それ以上の何かにはなり得なかった。


 圧倒的な征服感に全身が打ち震える。最も原始的な支配関係である捕食・被捕食に身を置くこと。その瞬間、俺は童貞のまま人を超えた何かになっていた。それでも彼女の肌はどれだけ強く噛んでも俺の牙を押し返した。もっと続けていたかったがもう顎の力が限界だった。

 自分の涎で汚れた顔を袖で拭う。彼女は恍惚とした表情でこちらを見上げている。爛れた静寂の中で彼女の体温に触れて、そうしたらなんだか無性に笑えてきて、その時俺は気づいてしまった。俺にとってそれはもう事後だったのだ。俺はセックスを知らないまま、セックス以上の愉悦を見つけて経験してしまった。入れたかどうか、出したかどうかなんて関係ない。未だ激しく主張し続ける下半身とは裏腹に、俺の心は緩やかに満たされてしまって謎の達成感だけが残っている。彼女を噛んだことで、俺は富士山に登った事がないのにエベレストを登頂した、というような倒錯した状態に陥っているのだ。しかしその余韻の中で彼女の熱はまだ冷めてはいないようだった。

「あなたが、私と付き合ってくれたらいいのにな」

 甘ったるい声でそう囁いた彼女にとって、それは必殺のキラーフレーズであり、セックスに至る最後の承認だったのだろう。しかし既に概念的賢者モードに入ってしまった俺にはその言葉は響かない。どことなく例の画面が頭の中に浮かび上がった。


あなたは18歳以上ですか?


はい      いいえ


これからやろうとしていることに責任を持てますか?


はい      いいえ


 つまり、煩わしいという感想以外何も出てこなかった。今まで脳の隅に追いやられていた理性が久々に顔を出してもっともらしく講釈を垂れる。いきなり噛めとか言ってくる女だぞ、メンヘラに決まってる。そもそもノリが軽すぎるだろ、他に男がいてもおかしくない。仮にこいつと付き合ったとしてその先に何かあるのか? いつか別れるのが目に見えてるのに、こいつに時間を割く意味なんてあるのか? 今更そんな苦労をしてまでわざわざ富士山に登りたいか?

 ここにいるのが佐々木さんだったら良かったのに、と俺は思った。そう思ってしまった以上、もはやアルコールの力だけではどうしようもないほどに俺は冷めてしまっていた。ただ単純に、より安全で効率が良くて安上がりな選択肢を取ることにした。いや、本当は最初からそうするつもりだったのかもしれない。どこまで行っても、俺は彼女のことを好いてなどいなかったのだから。

「ごめん。それはできない」

 俺はあなたの首筋に喰らいつくだけのヴァンパイアにはなれても恋人にはなれない。なんとなく彼女の好意を察して、それを利用しようとしただけだ。彼女と共に歩む未来なんて想像できなかったし、そこに幸福があるとも思えなかった。そんな俺には、多分恋をする資格なんてないし、だからきっと童貞でいるしかないんだろう。怒られるかな、と思ったが、彼女は少し寂しそうに苦笑いを浮かべただけだった。


 俺たちは二人並んで夜道を歩いている。まだぎりぎり終電に間に合いそうだったので、彼女を駅まで送っていくことにしたのだ。きっと今日のことだって酒のせいにされて、来月には今までどおりただの友人に戻っているのだろう。

「私がもっと可愛かったらなぁ」

 歩きながらどこか自嘲気味に彼女がつぶやく。そうかもしれない、と思ったがあえてそれを口にするほど俺も馬鹿ではなかった。

「そういうことではないよ。多分」

 これは果たしてフォローになっているのかどうか。ふった当人に何を言われても逆効果にしかならない気もするが。噛んだ相手をふるのと好きでもない相手と付き合うのと、どちらがマシかなんて童貞にはわからない。でもどちらにしろ、俺たちは始まった時から既に終わっていたんだろう。結局俺にとって彼女は誰にでも置き換えられる「彼女」のままだった。

 その首筋にうっすらと残った歯形が俺を嘲笑っているようで、それが少しだけ愛おしかった。

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