第76話 人間不信同盟




 俺のいままでの人生で、はたしてここまで気まずい現場に遭遇したことはあっただろうか。いや、たぶんない。ないと思う。


 シャワーを浴びてからリビングに向かい、扉の前で室内の音を確認してみたところ、三十秒ほど無言が続いていたので、おそらく通話はもう終わっているのだろうと判断した。漫画でも読んでいるんじゃないかなと思った。

 だから、扉を開いたのだけど、


「あたし別に、有馬のこと異性として見てないし、別に好きじゃないから」


 はっきりとした口調で、そんな言葉が聞こえてきたのだ。

 いったいどんな話の流れでその話題になったのかは想像できないけど、言葉の意味はとてもわかりやすい。勘違いのしようもないぐらい、他の意味にとらえようとしても不可能なぐらい、はっきりとした意味を持つ言葉だった。


 俺は熱海に告白したわけではないし、確定的な好意を自覚しているわけでもない。だけど、やはりショックだった。ショックを受けるような資格があるのかはさておき、心にとげが刺さったということは、事実として存在した。


「ご、ごめん陽菜乃。続きはまた明日ね! おやすみ!」


 慌てた様子で通話を終えた熱海が、下唇を噛みながら俺の目をチラチラと見る。

 俺はたしかに軽くショックを受けているけども、そもそもそれがおかしいんだよ。熱海には好きな人がいて、それは俺も知っていて、彼女が先ほどした発言はいたって普通の、当たり前のことなのだから。


 それをしっかりと頭で理解すると、穏やかなため息が出た。やれやれという感じの。


「なんで熱海が申し訳なさそうにしてるんだよ。お前の運命の人は別にいるんだから、当然のことだろ」


 タオルで髪の毛をわしゃわしゃとこすりながら、キッチンに向かう。コップにお茶をそそぎ、それを一息に飲み干した。先ほど聞いた言葉を、上から下へと流すために。


 リビングに戻っても、熱海は相変わらずどんよりとした雰囲気を持っていたので、俺は隣に腰を下ろしてさらに話を続けた。


「まぁあれだ。俺は熱海や黒川さんに嫌いに思われてなかったら、それで十分嬉しいよ。蓮や由布以外に、初めてできた仲のいい友人だからな」


「……嫌いになんてならないわよ」


「そうかぁ? 最初はどうだったよ。気に食わない気に食わない気に食わなーいって感じじゃなかったか? いや、それどころか『最高に嫌い』とか言ってたような――あぁあれは、黒川さんに言わないことに対してだったか」


 ニヤニヤとからかうように言うと、熱海は唇を尖らせて拗ねたような表情に変わった。こういう表情を、王子様に見せてやりたいなぁと思いつつも、いまは俺だけが独り占めできていることに、ある種の優越感を覚えたり。


「そ、その時のことはごめんってば! だってあたしまだ有馬のこと、なにも知らなかったんだもん! ちゃんと有馬の話を聞いてからは、違うから! というか、最初から尊敬はしてるわよ。あんたのこと」


 尊敬……? あぁ、そう言えば黒川さんを助けたことに関しては尊敬しているけど、伝えないことは納得できない――みたいな感じだったなぁ。まだあれから三か月ぐらいしか経っていないというのに、俺と熱海の関係も随分と変化したもんだ。


 ここで『俺はそんなに大層なもんじゃない』といえば、熱海が反論してくるのは目に見えているので、俺は手早く矛を収めることにした。


「だいたいな、さっきの発言で俺がショックを受けるとしたら、俺が熱海のことを好き――ってことになるんだぞ? その辺りちゃんとわかってるのか?」


 微妙にショックを受けた俺は、微妙に熱海のことが好きなのだろうか。そんなことを考えながら熱海に言った。


「ち、違うわよ! で、でも、誰だってそんな風に言われたら嫌な思いをするんじゃないかと思って……」


「その優しさを普段の握力にも籠めてほしいもんだなぁ」


「それとこれとは話が違うのよ!」


 熱海はいつもの調子に戻って、俺に反論をしてきた。そして、変わらぬ握力で俺の頭をつぶそうと試みる。そんな『いつも』の行動で平常心を取り戻した俺たちだったが、意外と俺の胸に刺さった棘は、簡単には抜けてくれないようだった。



☆ ☆ ☆ ☆ ☆



 久しぶりに熱海は夜の十時まで我が家にいて、それから「また明日、おやすみ」という言葉を残して帰って行った。

 十時半ごろに母親が帰宅し、少し話してから自室で就寝準備。その時になって、由布から着信が入った。


「もしもし? どうしたんだこんな時間に。蓮と喧嘩でもしたか?」


『全然~。相変わらず私たちはラブラブだよ~』


「そりゃよかった。じゃあおやすみ」


『待て待て待てーい! ちょっとお話をしようじゃないかアリマン』


「なんかテンション高めだなぁ」


 時刻は十一時半。いつでも寝れるような時間なのだけど、彼女の雰囲気は『まだまだ夜はこれからだぜ!』とでもいうような雰囲気だった。明日は月曜日だぞ。


『今日は楽しめた?』


「……誰から聞いた?」


 別に口留めされていたわけではないが、俺は蓮や由布にも今日のことは話していない。

 なにしろ、この動物園デートの約束が交わされたのは、金曜日の夜。そこから蓮たちとは連絡をとっていなかった、知るすべはないと思うのだが。


『誰にも聞いてないよ? みっちゃんが私と蓮に日曜日の予定を確認してたから、そういうことなんだろうなと思って。ヒナノンとみっちゃんの二人とでかけたの? それともヒナノンと二人きり?』


「黒川さんと二人だけど……そもそもこれは『プールの授業でのお礼で奢る』って話だったからな。変な勘繰りはやめろよ」


 実際は、ジュースのみ奢ってもらった形だけども。


『なるほどなるほど~。思った以上に頑固者だねぇ……だからこそ、こんなことになってるんだろうけど』


「頑固者……? あぁ、黒川さんか。お礼のことなんて、別に気にしなくていいのにな。一番に気付いたのが俺だったってだけなのに」


『……アリマンだなぁ』


「なんだかすごくバカにされてる気がしたんだが、気のせいか?」


 気のせいじゃない気もするけど、バカにされている内容がわからない俺はやはりバカなのかもしれない。由布より勉強はできるんだけどな。


『気のせい気のせい! それで、最初の質問に戻るけど、楽しかった?』


「楽しかったよ。緊張して少し疲れちゃったけどな」


『そっかそっか。それは良かった』


 本当に良かったと思っているのか疑わしい平坦な口調で言った由布は、続けて言う。


『もしも困ったことがあったりしたら、私や蓮に相談してね。くれぐれも、ひとりで抱え込むようなことはしないようにするんだよ? 私たちは人間不信同盟の仲間なんだから!』


「嫌なネーミングだなぁ」


 ともあれ、彼女が俺を心配してくれているということはひしひしと伝わってくる。

 だから、「ありがとう」と返事をしていおいた。蓮や由布を頼らなければいけない事態にならなければいいなぁと、ぼんやり願いながら。


 


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