第72話 動物園にて
少し気恥ずかしくなったまま――だけど、繋いだ手はほどかないままにして、俺たちは園内へと入った。あ、もちろんお金を支払うときとかは一度手をほどいたけれど、その時だけ。
彼女は入園料を『おごらせてよ!』と言っていたけど、丁重にお断りさせていただいた。
二度目に彼女の手を握るときは、一度目ほどの緊張もなくなっていた。とはいえ、緊張が全くなくなるなんてことは当然ないので、少々体は強張ってしまう。
「あ、有馬くん! レッサーパンダがいるんだって! こうやって威嚇するやつっ! ガオー」
黒川さんはそう言いながら、両手を上げてバンザイのポーズ。ガオーとは言わないだろ。
人間視点では全く威嚇に見えないと評判のポーズを披露する黒川さん。俺は『人間がやっても威嚇には見えないな』という知識を得た。まあそれは、やっている人が黒川さんだということが大きな問題ではあると思うが。
というか、俺の手も一緒に持ち上げてしまっているから少々恥ずかしいんだが……。
「驚かせないようにしてあげような」
「そうだねぇ。威嚇するってことは、びっくりさせちゃってるってことだもんね!」
うんうん、たしかにそうだ――納得したように黒川さんはそう言うと、レッサーパンダのいる目的地に向かって歩き出す。
「有馬くんは『この動物が見たい!』ってリクエストあったりする?」
「んー……とりあえず定番だけど、ライオンとペンギンは見ておきたいかな。でも動物園なんて小学校の頃に行ったっきりだし、昔行ったところは△△県にあるここより小さな動物園だったからな。時間があったら、とりあえず色々見て回りたいかも」
この動物園は俺が行ったことがあるところより広いとはいえ、一か所に長い時間とどまらない限りは、全体を見ることができそうな大きさだし。
黒川さんは俺の言葉を聞いて、首を傾げながら俺の顔をのぞきこむ。
「△△県? 旅行で行ったの?」
「いや、小学校のころはそっちに住んでたんだよ。じいちゃんたちの家も近くにあったし。中学のころに母さんの仕事の都合でこっちに来て、高校入学のタイミングでもう一度引っ越したって感じ」
「そうだったんだぁ。そういえばね、道夏ちゃんのおじいちゃんおばあちゃんも、△△県にいるんだよ。道夏ちゃんは、生まれたときからずっとこっちに住んでるって言ってたけど」
「へぇ……じゃあもしかしたら、熱海の祖父母にどこかで会ったことがあるかもしれないな。まぁ人口百万人近いし、俺が住んでいたのは田舎のほうだからなぁ」
というか、そもそもあまり記憶がない。いざ昔に知り合った人と会ったとしても、憶えている自信が全くない。俺は熱海のように記憶力がいいわけじゃないからなぁ……いやでも、あいつはあいつで王子様の顔を覚えていないようだし、人の顔の記憶という意味では、あまり変わらないのかも。
その話題はそこで終わり――というか、目的地が近くに来たので終わらざるを得なかった。
「わーっ! 見て見て有馬くん! やってるよ! ガオーのやつ!」
レッサーパンダが近くに見えるような位置までやってくる。黒川さんの言う通り、レッサーパンダが威嚇のポーズをとっていた。どうやら、小学生ぐらいの子供が大きな声を出してしまったようで、それにビックリしてしまったらしい。子供は、一緒に来ていた母親に怒られていた。
「本当だ。やっぱり威嚇って言われても、可愛いよなぁ」
「うんうん、自分をおっきく見せようとしてるんだよね? あれって」
「たしかそうだったと思う」
真っ黒なお腹を正面にさらけだし、ぷにぷにとしてそうな肉球を母親に怒られている小学生に向かって見せている。太い縞々模様のしっぽは、バランスをとるために役立っている模様。
黒川さんは『ガオー』と無邪気にレッサーパンダのモノマネを披露してくれたが、どちらかというとこの動物は熱海に似ているような感じがするんだよな。
狂暴とかそういう意味じゃなくて、自分を強く見せようとしているような雰囲気が熱海にはあるから、なんとなく。もしも熱海に『レッサーパンダの真似をしてみて』と言えば、彼女はやってくれるのだろうか。
いやたぶん、恥ずかしがってアイアンクローをしてきそうな気がするから、やめておこう。
レッサーパンダを見たあとは、順路に従って様々な動物を見ていった。
俺が最初に見たいと言ったライオンとペンギンはもちろん、チンパンジーやフクロウ、シマウマ、ワニなどなど。これらを一時間近くかけて回ったけど、まだまだ順路は続くようだ。ここに来るまでだけでも非常にボリュームがあるというのに、料金は学生料金で三百円。すごくお手ごろだ。往復のバス料金のほうが高いぐらいである。
「足が痛くなったりしてないか?」
トイレ休憩を済ませたのち、足を休めるために俺たちはベンチに座った。
俺としてはまだまだどこまでも歩けるぐらい元気だけど、熱海に『適度の休憩を挟むこと』と指導を受けていたことを思い出し、黒川さんに提案したという感じだ。
「大丈夫! 歩きやすいスニーカーで来たからねっ! っていっても、私はヒールがある靴は苦手だから、こういう感じのしか持ってないんだけど」
プラプラ足を揺らし、俺に靴を見せてくれる黒川さん。俺と比べると、ずいぶんと細い足だなぁ。本当に痛くないのだろうか。
と、俺のそんな心配をよそに、彼女は「そうだ!」と手を叩いて立ち上がり、そのままトイレがあった方向に小走りで向かって行った。
ついて行ったほうがいい雰囲気ではないし……なにかトイレに忘れものでもしたのだろうか。そう思っていたが、彼女はトイレの入り口には向かわず、その近くにある自販機の前で立ち止まり、肩から下げた小さなバッグから財布を取り出していた。どうやら喉が渇いたようだ。
俺も何か飲もうかな――そう思ってのんびりと彼女のもとに向かっていると、自販機からはガタンと音がしたのちに、さらに同様の音が続いた。
首を傾げる俺に、黒川さんが両手に一つずつ小さなペットボトルを持って歩み寄ってくる。
「はいどうぞ! ジュースぐらいなら奢ってもいいんだよね!」
そう言いながら、彼女が俺に手渡してきたのはリンゴジュースだった。以前我が家で飲んでいたジュースの二百八十ミリバージョン。
「この前助けてくれたお礼のごくごく一部だけど、ありがとうございました!」
ニコニコと笑顔でそう言って、黒川さんはぺこりと頭を下げる。あれぐらい忘れてもいいのに……相変わらず律儀だなぁ。こういうところも、たぶん彼女が人気な要因の一つなんだろう。
「どういたしまして――これ好きだから嬉しいよ」
事実をそのままお礼に乗せて言うと、彼女はさらに笑みを深くして、
「うん、知ってるよ! だって私も好きなジュースなんだもん!」
自信満々に、俺の答えがわかっていたかのように、そしてすごく嬉しそうに、彼女は言ったのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます