湊 と 兄 と 思い出と
涼たちが居酒屋で飲み食いしている時の、一方そのころなディアちゃんのお話
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母の料理は不味くはなかったのだが、だからといって母が料理が上手かったというと微妙だ。
その料理は最低限不味いと感じず口に運べる味――というレベルだったからだ。
そしてそれは母自身が料理にさほど思い入れもなく、日々必要だから自分が不味いと感じない程度の物を作って口に入れる為だったからこその、味だったと言える。
母は毎日同じモノでも気にしない。
それでも、日々の料理が違っていたのは、湊と、湊とは歳の離れた兄の二人が毎日同じ料理だと文句を言っていたからに他ならない。
あるいは、母なりに子供の栄養を考えてのことだったかもしれない。
ともあれ、当時の湊からすれば、それが日常の味だった。
歳の離れた兄が一人暮らしをする為、家を出たあとも続く、いつもの味。
それが自分の中で覆ったのはいつだっただろうか。
確か、自分が十歳くらいだ。
すでに成人済みの兄が、母の帰りが遅い日に、食事に連れ出してくれた時のこと。
どこだったかの雑居ビル。
エレベーターもなく、狭い階段をわざわざ五階まで昇ったところにあるお店。
五階の踊り場にある――まるで家の裏口のような、あるいは非常扉のような見た目の扉に、手書きで……しかもマジックペンにいよるミミズのような文字でお店の名前が書いてあったのは、子供心にビックリだった。
今思うと、あれはマジックペン風だっただけかもしれないし、店のロゴもイタリア語やフランス語の筆記体だったのだろう。
ドアノブに木の札が引っかかっていて、「やってます」と少し雑な文字で書かれている。
兄はそれを確認すると、ためらわずに中へ入っていく。
手を引かれた湊も、遠慮がちにその扉をくぐり抜けて――ビックリした。
とてもお洒落なお店だったのだ。
テレビで――遅めの時間にやってる大人向けのドラマで、カッコいいお兄さんやお姉さんがお酒を飲んでいるような、当時の湊の目にはそういうお店に見えたのだ。
こう言っては兄に失礼かもしれないが――兄は、気弱な感じで、ちょっと猫背で、メガネをかけた……太ってこそいないけれど、どこか垢抜けない雰囲気の人である。優しくて、いざと言う時は震えながら前に出てくるような素敵で尊敬できる兄ではあるのだが。
とはいえ……というか、だから……というワケではないのだが、今にして思うと、あまり兄が通い慣れるとは思えないお洒落なお店だったなと思う。
「予約してないけど大丈夫?」
「大丈夫ですよ。あちらのカウンター席へどうぞ」
大きなカウンターの向こうにいたお店のおじさん――お兄さん?――が、にこやかに席を示す。
「今日この店で食べたコトは母さんにはナイショな?」
湊が少し高めの椅子に座ろうとして苦戦しているのを見た兄は、そう言いながら、湊を抱き上げて乗せてくれる。
小柄とはいえ、十歳の湊の足が届かない椅子。少しだけ大人になったみたいで嬉しかったのを覚えている。
「何にします?」
湊が椅子に喜んでいる横で、メニューを眺めていた兄が店員さんに問われて、悩んでいた。
「どうしようかな……湊は食べたいものある?」
「……わかんない」
「まぁそうか」
その時点ではまだ料理に興味のなかった上に、この店で何を食べられるのか分からないのだから、湊には答えようがない。
今思うと、とてつもなく勿体ないことをしている気もするが。
「湊は、鶏肉、豚肉、牛肉――どれが好きだ?」
「んー……」
その時に頭にあったのは、唐揚げと豚汁と牛丼だ。その中でなら牛丼が好きだな――と思ったのを覚えている。
「牛かなぁ」
そして恐らく、その選択こそが湊の趣味を決定づけた瞬間だった気がするのだ。
「よし。ならせっかくだし、妹にはこの65gのステーキを。飲み物は赤ブドウのジュースで。
俺は、こっちの椎茸と地鶏のステーキを。白ワインで」
「かしこまりました」
「妹のを先にお願いします。ライブクッキングなんて初めてだろうし」
「はい」
兄の言葉に、店員さんはにこやかにうなずいた。
それから、その店員さんは、別の若い店員さんを呼んで何かを言う。
若い店員さんはどこかへ行って、お肉を持って戻ってくると、湊の前にきた。
「じゃあお嬢さん。これを見て」
若い店員さんが見せてくれたのは、お肉の塊だ。
ブロックのような、分厚いお肉。
「これから、お嬢さんの為にこれを焼くからね」
そう言って、若い店員さんは湊の目の前にある大きな鉄板に軽く油を敷くと、その上にお肉を乗せた。
「!」
ジュージューパチパチと音を立てるお肉。
火が入ることで立ち上り出すお肉の香り。
それらは今でも鮮明に思い出せる。
鉄板に触れている面が赤から茶色とも灰色とも言えるような色合いに変化していく。
今ならそれが、熱に反応して色の変わるメイラード反応だと、専門的な言葉がでてくるかもしれないけれど、当時の湊には初めて見る光景だった。
お肉を焼いている横に、ピーマンやニンジンなどの切られた野菜が置かれていく。
どうやらお肉と一緒にやいているようだ。湊は子供心にお肉だけでいいのに――などと思ってしまった。
お肉に、軽く焼き目がついたらひっくり返して、お肉の周囲に少し野菜たちを寄せてから、なにやら液体を掛けた。
ジュージューバチバチという音が大きくなって、湯気がぶわっとなって……そこに、野菜もろとも蓋がされる。
目の前で赤かった肉が、ステーキへと変わっていく光景に、湊は目をキラキラさせた見ていた。
蓋がされて変化が分からなくなっているのに、水分や油の弾ける音をずっと聞いていたいと思った。
やがて蓋が開き、湯気とともに焼けたお肉と野菜が顔を出す。
そのお肉と野菜を店員さんはささっと切り分けると、ヘラに乗せて、鉄板の上から湊の目の前のお皿へと映す。
「お待ちどうさま。こちらのソースと一緒にどうぞ」
「中、まだ赤いの?」
「そういう焼き方なんですよ。見た目は生っぽいけどちゃんと火は通ってますよ」
店員さんは湊の質問をバカにしたりせず、にこやかに答えてくれた。
「いただきます」
そして湊はそのお肉の一切れを、フォークで刺す。
今の湊は知っている。
あの肉を口に入れ、噛みしめた瞬間に、自分の世界が広がったことを。
世の中にはこんな美味しいお肉があったんだということを。
この出会いが、湊が食材を、料理を、意識するきっかけになったことを。
あの味は、今でも覚えていて。
モンスターのお肉と比べても遜色がないくらいの美味しいやつで。
自分の口の中へと肉を招く気配を感じながら思う。
今になってこうやって思い出してみると、気がつくことだってあるな、と。
――どう考えても、もしかしなくとも、このお肉って……
・
・
・
「……あれ? お肉、は……?」
ふと目が覚めた湊は、自分が今どこにいるのか一瞬理解できなかった。
「わた、しの……部屋?」
日が落ちて暗くなってしまっている為、窓から僅かに入ってくる街灯や星明かりで、何とか場所を把握する。
寝ていたのはベッドの上ではなく、部屋に強いたマットの上。クッションを抱きしめながら寝てしまっていたらしい。
「…………」
床で寝ていた経緯を思い出そうとしているうちに、ウトウトしてきてしまい、慌てて立ち上がる。
部屋が暗いままだとまた寝落ちてしまいそうで、湊はとりあえず部屋の電気を付けた。
「……六時半過ぎ……」
昼間、涼ちゃんねるを見ている途中で大号泣して、見ていられなくなったらしい白凪に、家まで連れてきてもらって――
「――そうか、そのまま寝ちゃったのか」
帰ってきたあとも落ち着かず、クッションを抱き抱えて寝てしまったようだ。
とりあえず涼が無事だったところまでは見たので、不安のようなものは特にない。本当に良かったという安堵はあるけれど。
湊は小さく息を吐くと部屋を出てリビングへと向かう。
どうやら家には誰もいないようだ。
リビングの電気を付けると、テーブルの上にメモと五千円札が一枚おいてあった。
「母さん夜勤か」
夕飯を用意する時間がなかったから、これで何か食べて――ということらしい。
それなりに稼いでいるから、こういうのは気にしないでいいよ……と、言ったことはある。
だが、母なりのプライドなのか――それはそれ、これはこれ……と言ってはばからない。
『夕飯も用意せず、夕飯用のお金も置いていかない上に、子供が自分で稼いだお金へ頼りるとか、それって最低な親じゃん!』
――とは母の弁である。
そういう意味では、きっと湊の母は真面目な母なのだろう。
若いときはバリバリ全開のギャルで、今もその気が抜けきってない母親だけれど……その本質的なところは真面目なのだ。たぶん。
「とはいえなぁ……」
五千円札の端を摘み、ペラペラと仰ぐようにしながら、天井を見上げる。
「何を食べようか」
ファミレスやファーストフードの気分ではない。
何より、小さい時の夢を見てしまったのだ。
最高級でなくてもいいので、お肉の塊を食べたくなっている。
可能なら兄と行ったお店に行きたいが、兄と行ったお店がどこなのかは全く覚えていないし、そもそも当時住んでいた土地からは引っ越してしまっているのだ。
「時間が時間だけど、とりあえず駅前に出るかぁ」
個人店などは予約客で埋まってしまっている可能性は高いのだが――
「どこも入れなかったら、その時はその時ってコトで」
湊は身なりを整えたあと、目を軽く冷やして腫れぼったいのを落ち着かせてから、家を出るのだった。
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【Idle Talk】
湊は別にファーストフードやファミレスも、何ならインスタントやスーパーのお総菜なども嫌いじゃない。
万人受けするように計算された味の数々は敬意すら覚えるほど。
フライドポテトって美味しいよね。
スーパーのお総菜や、コンビニのチルド系やレンジアップ系とかは、そういうのを食べたい気分の時に大量に買い込んで、結局食べきれずに途方にくれたりすることもある。
食べきれない時はだいたい母に叱られる。
「何で自分で食べきれる量でやめないの? またママが太っちゃうじゃん!」
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