第2話 轢かれそうになった男


「いやぁぁ~いい眺めだ!」


 ベラージオのレイクビュースイートの窓から噴水のショーを見ていた池田涼は同じ部屋のリビングでiPadを手に仕事をしているかおるにミネラルウォーターのボトルを持って行った。


「もう明日にしなよ、ほら噴水のショーが綺麗だよ。せっかくベガスに来たんだから楽しまないと!」

「仕事で来たんだぞ。こんな豪華な部屋は必要ないのに・・」


「いいじゃないの! お金なんて腐るほど持ってるくせに」

「そういう問題じゃない。それより明日の予定は?」


 涼は両手を広げて得意げに言い放った。「明日はオフ! 時差ボケで大事な取引先と会う訳にいかないでしょ? 僕は優秀な秘書だからね、ちゃんとその辺を考えて・・」


「本当は自分が遊びたいだけだろ、明後日からはきっちり働いてもらうからな!」


 半ばあきれ顔でかおるはボトルの水を勢いよく喉へ流し込んだ。冷たい感触が喉を流れていく。長時間のフライトで重くなった頭がスッキリしてきた。


 



 今回の商談はさほど難しくも面倒な事もない。昔から我が五瀬いつせ家と取引のある相手だ。昔と言ったって10年、20年じゃない。ベガスが何も無いただの砂漠だった頃からの付き合いだ。


 もうひとつの商談もしかり。ベガスの小さなローカルTV局がヒットさせた番組を・・・早い話がパクらせてくれ、という物だった。十分な金額を提示してある、相手も乗り気だ。


 問題は日本に帰ってからだ。会長は帰国したら俺を何が何でも結婚させるつもりだ。

 全く冗談じゃない。後継者は妹の結花の子供にしたらいいと何度も言ってるのに・・。


「そのため息は水が美味かったってため息じゃないな」


 俺の大きなため息を聞きつけて涼は言った。


「水は美味かったよ・・」

「会長にせっつかれてるのか。見合いが待ってるんだっけ?」


「だな」

「会長にはっきり言ってしまえばいいだろ。お前は女嫌いなんだって」


「いや、あの頭が固い親父には理解できないよ。結婚すればなんとかなると思ってるんだろ。五瀬家の跡継ぎは長男の血筋じゃなければならん、とか時代錯誤だよ」


「じゃさ、誰でもいいから結婚するのはどうだ? 別に会社の為とか家同士の繋がりがどうとか、しがらみがあるわけじゃないんだろ? とりあえず結婚しとけば会長は満足するんじゃないか?」


「さあな」


 俺はそう言ったきりまたiPadに向かって仕事を再開した。



________




 翌日は晴れてまだ午前中なのに気温はすでに36度に達していた。

 それでもベガスの観光を満喫しようと、涼に引っ張り出された俺は大通りの信号待ちで前に立っている男の後姿を何とはなしに見ていた。


 両手にショッピングバッグを下げていたが、中身はおみやげ物のようだった。


(そうだ俺も結花に何か買っていかないとな)


 そんな事を考えていると信号が変わった。歩行者がいるのに強引に角を曲がろうとした車がいて、他の歩行者は立ち止まったが、前にいた男はそのまま歩き出そうとしていた。


「Wach out!」俺はそう叫ぶと、男の腕を右手で掴んで左手は男の背中の服地を掴んで後ろへ力いっぱい引いた。


 男は持っていたバッグを落とし中身が散らばった。そのまま男は振り返ると礼を言ったが、どうやら日本人らしかった。しかも声が・・男と思っていたのは女だった!


(まさか女だとは思わなかったな・・)


 こちらを振り返ったその姿も実に女性らしくない。


 今の世の中こんな風に言うと差別だ何だと言われそうだが、170センチほどはある背丈に髪はほぼスポーツ刈りの短髪、紺とグレーの地味な色合いの大きめのTシャツに太い麻のパンツを履いている。体型が全く分からない服装だ。


 その上、顔の半分はあろうかと思われる大きな丸い黒縁の眼鏡は、顔そのものよりずっと目立ってしまっている。


 何故かは分からない・・ただの気まぐれか‥この女性を感じさせない容姿のせいかもしれない。見た目はガサツそうな男っぽい印象が、喋るとおどおどしながらも優しい声を出す、目の前の日本人。


 それともこの暑いラスベガスでフラフラになりながらお使いに必死になっている姿が気になるからか。


 俺はこの女にほのかな興味が湧くのを感じた。


 

 

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