第2話 裏返りの円環(リバーシブル・メビウス)




 篠原純しのはらじゅんは異世界転生者である。


 薔薇色の出会いも、青春を賭けられるものもない、つまらない人生。そんな代わり映えのしない退屈な日常に飽き飽きしていたところ――彼は死んだ。


 死因は、工事中のビルの上から降ってきた鉄柱による圧死。

 あまりにもあっけない最期を迎えたが——次に彼が目を覚ますと、彼は異世界に居た。


 気がつくと、彼は幼稚園児ぐらいの子どもになっていた。

 驚きながらもあたりを見渡すと、ぱっと見は自分の元居た現代日本と変わらない世界。


 だが、彼はを見て、すぐに“自分は異世界に来たのだと”理解した。


 それは、彼の世界では決して存在しえなかったもの。

 その差異に気付いた瞬間、彼は確信した。


 ——俺は選ばれたんだ!


 異世界に来たことに気付いた直後、篠原は、いつの間にか自分に不思議な力が宿っていることに気付いた。そして、その事実が彼の病熱を悪化させた。


 この力があれば何でもできる。今日から自分が主人公、冴えないこれまでの人生とはオサラバだ!

 これまでの流れですっかり熱に浮かされた篠原。

 そして時は過ぎ、中学3年生になった彼は。



 ——とりあえず、邪魔だった転生者どうるいを殺した。




 たまたま出会って、たまたま転生者だと知った。殺した理由はそれだけだった。


 殺した相手がどんな人間だったのかなんて、微塵も興味がなかった。ただ、自分が好きかってやるためには邪魔でしかないということだけは分かったので、あっさりと手にかけた。


 しかし不幸なことに、その現場を見てしまった端役モブがいた。


 篠原純にとって、それは非常に迷惑極まりない事実だった。だから、彼——南氷牙のことも殺すことにしたのだ。



 しかし。

 それはひとりの少女ヒロインによって阻まれる。




   ◆   ◆   ◆



 氷牙は、理解が追い付いていなかった。


 帰ろうとしていたら殺し合いの現場に入り込んでしまって、口封じのために氷牙までも殺されそうになった。


 そこに助けに入ったのが、輪道めぐるとかいう少女だ。彼女の乱入によって、氷牙は今もこうして生きている。そこだけは素直に感謝せねばなるまい。


 まるで下手なライトノベルの様な流れのボーイミーツガールだ。

 氷牙が困惑している前で、肝心のめぐるはというと、手持ちのスマートフォンの画面に目を落として何かを読んでいた。

 そして、彼女はある情報を口にする。


篠原純しのはらじゅん15歳。分類——

「っ!なぜ俺の名前を⁉︎ 」

AMOREうちの情報網なめんじゃねえっての。それにしても、こうも派手にやるとは……どんだけ堪え性ないんだよお前。犬だって“待て”できるだろうに」


 自らの素性を速攻で看破された事に驚くブレザーの少年――篠原。


 めぐるはというと、篠原が犯罪を犯すまでのスピーディーさに、半ば呆れている様だ。


 そして、右手で指鉄砲をつくって篠原に向けると、まるで「どこか遊びに行こうか?」とでもいうかのようなノリで、彼女は訊いてきた。


「まあ現場見ちゃったし、殺人の現行犯ってことでいっちょ逮捕されてみる?」

「殺す!そして○す!」


 篠原の答えは、シンプルなまでに暴力的だった。


 氷牙とめぐるのいる階段の踊り場に向かって、10段近い高さを一気に飛び降り、品性をかなぐり捨てた罵声を吐き捨てながら、篠原はめぐるに向かって手を伸ばす。


 すると、篠原の手が輪郭を失い、ドロドロに溶けだした。


「ひっ⁉︎ なんだこいつ⁉︎ 」

「俺の能力は液状化!自分の身体と触れたものをドロドロにできるのさ!」

「なるほどねえ」


 頭部以外は人としての形を失いながらも、少年は自慢げに自らの能力を暴露している。


 液状化。

 誠に信じがたいが、これはトリックでもCGでもなんでもないことだけは確かだ。

 篠原の発言内容が真実だとするならば、彼に触れるのは非常にまずい。先ほどの学ランの少年のように、跡形もないほどにドロドロにされて殺されてしまう。それを想像した氷牙は、思わず身震いをする。


 しかしめぐるはというと、軽くうなずいただけで、特に驚いたり恐れおののいたりする様子は見せない。その態度が癪に障ったのか、篠原は、液状化した自身の身体を飛沫させてきた。


 篠原から分離し、飛沫した液体が、近くの階段の手摺や防火用の鉄扉にかかる。

 すると、手摺や鉄扉は液体がかかった箇所からグズグズに溶けだした。まるで常温下に置かれたドライアイスの様に、ジュージューという音と煙を立てながら溶けてゆくそれらを見て、氷牙はまたもや戦慄した。


鉄融液砲スチールクラッシャー!この状態の俺に触れたら最後、そこから溶けちまうのさ!」

「え、ちょ、嘘……」


 終わった、と氷牙は思った。

 下に向かう階段は、篠原が廊下の天井をぶち破ったせいで瓦礫で塞がれている。踊り場にある窓は、サイズや高さ的にとてもじゃないが高校生では通れそうにもない。


 万事休す。

 絶体絶命。

 再び、氷牙の心が絶望に染まり始める。

 それを止めたのは、めぐるの声だった。


「おいそこの少年っ!オレに捕まれ!」

「な、えっ⁉︎ 」

「何躊躇ってんだ⁉︎ 女の子と手を繋ぐのを恥ずかしがっている場合じゃあないだろうにっ!」

「いやちょっと」


 いきなり何言ってるんだと戸惑う氷牙だったが、有無を言わさずめぐるが氷牙の手を掴み、氷牙の身体を自身の元へと引き寄せる。


 その時は既に、あらゆる物をグズグズに溶かしてしまう液体と化した篠原が、めぐると氷牙の眼前まで迫っていた。今から逃げても、5体満足ではすまないだろう。


「終わりだよAMOREの女ァっ!お前を俺のヒロインにできないのは惜しいが、俺の邪魔をする様な奴はいらない!そこのモブ野郎もろとも今ここで死ねっ!」

「……悪いけど、オレ男に興味ないんだよね。特にお前みたいな、きったねぇ欲望丸出しのクソ野郎にはね!」


 自身に向かって飛び込んでくる篠原に向かって、めぐるは啖呵を切るが、それを篠原は鼻で笑った。


 篠原が異世界転移と共に手に入れた能力・鉄融液砲スチールクラッシャーは、非常に優れた腐食力を持つ。掠りさえすれば人間程度、数秒でドロドロに溶かすことができる。その強さゆえに、彼は完全に勝ち誇っていた。



 ——この瞬間までは。



 全身を腐食性の液体に変えた篠原がめぐる達に接触する瞬間。


 ブワンッ‼︎ という音が鳴り、


「なっ……⁉︎ 」


 勝ち誇っていた篠原の表情が一瞬にして崩れ、驚愕に変わる。


 横殴りの雨の如く降り注ぐ鉄融液砲スチールクラッシャーが、めぐるの手前で弾かれていたのだ。まるで、見えないバリアかなにかでも張られているの様に、篠原の攻撃が完全にシャットアウトされていた。


「なんなんだよ……お前、今何をした⁉︎ 」

「え……俺生きてる⁉︎ 」

「うん、生きてるよ」


 戸惑う氷牙に、めぐるはそう答える。

 そして、


「ちょっと捕まってろ、跳ぶぞっ!」

「え、なに⁉︎ なにがおき」


 氷牙がそう口にしきる前に、めぐるは氷牙を米俵のように担ぎ上げて跳んだ。


 その直後、先ほどまで彼らが居た場所が、おびただしい量の煙をあげながらグズグズに溶けていった。めぐるが弾いた分の鉄融液砲スチールクラッシャーが、飛び散った先である踊り場を腐食し、崩壊させたのだ。


「ちょっと離れてろ少年っ!」

「うわちょぶへらっ⁉︎ 」


 めぐるは10数段分の高さをひとっ跳びで上がると、担いでいた氷牙を近くの空き教室に投げ込む。


 いきなり抱き抱えられだかと思いきや、今度はいきなり放り投げられた氷牙は、悲鳴を上げながら空き教室の教壇に突っ込んでゆき、黒板前にある教卓を薙ぎ倒して教室の床にぶっ倒れる。


「痛っ……めちゃくちゃだ……」


 氷牙は埃の舞う教室の中で、背中を抑えながら身体を起こす。

 教卓に激突したせいで、身体のあちこちが痛い。状況的には助かったのだろうが、全然そんな気はしない。


(何なんだこいつら……)


 篠原もめぐるも明らかに普通の人間ではない。

 彼らはいったい何なのだ?


「ふざけやがって……」


 氷牙が思案している中、めぐるの背後で、カランという音がする。


 彼女が振り返ると、そこには、柄の長い箒を持った篠原が立っていた。箒はおそらく、近くの教室からくすねてきたのだろう。

 悪態をつきながら一歩ずつ近づいてゆく篠原。

 そして、


「死に晒せよっ!俺の邪魔をした罪は、テメーの命で支払うんだなあっ!」


 そう叫びながら、彼は手に持っていた箒をめぐる目掛けてぶん投げた。


 まるで槍投げの様に、空気を掻っ切りながら一直線にめぐる目掛けて飛んでゆく。あの速度ならば、たとえ木製の箒の柄だろうと、そこそこのダメージになるだろう。

 だが、


「じゃあオレは、お前の罪の対価がわりにお前をボコボコにしてやるよ。それで対等イーブンだろ?」


 めぐるはそう言うと、飛んできた箒に向かって片手を突き出す。


 すると、その手に触れた途端、

 

「なっ……」

「えっ⁉︎ 」


 篠原も、空き教室から顔を出して観戦していた氷牙も、その光景をめにして呆気に取られる。


 箒は破壊的な音を鳴らしながら、まるで雑巾でも絞るかの様にバキバキに捻じ曲げられてゆく。そして——


「いっちょあがり」


 ——バキンッ!と、耐えきれずに砕け散った。

 それを見ていた篠原は、わかりやすく狼狽える。


「なんだっ⁉︎ さっきのといい今のといい、どんなトリックを使いやがった⁉︎ まさかお前も……俺みたいに“転生特典ギフト”でも持ってやがんのか⁉︎ 」

「ギフト……?何言ってるんだこいつ……?」


 篠原が何を言っているのか分からず、思わずそう口にする氷牙。

 めぐるは篠原の言葉に対し、おちゃらけた調子で答える。


「さあね、そこまで語る義理はないよ」

「っ!まあいい!3度目はない!直接お前に触れて溶かしてやる!」


 その態度にイラついた篠原は、再び全身を液状化させながらめぐるに飛びかかってくる。

 先程と比べると、速度が格段に上がっている。おそらくだが、めぐるへの怒りが彼の潜在能力を引き出しているのだろう。


「さっきは弾かれたが、同じ手は食わないっ!ペーストにしてやるから覚悟しとけよクソアマっ!」


 唯一液状化していない顔から、篠原の罵声が飛んでくる。

 完全に液状化した腕(かどうかはわからないが、便宜上そう呼んでおく)を伸ばし、引きつった様な笑みを顔に貼り付けながら、篠原はめぐるに飛びかかる。

 が、


「それっ」


 トン、と。

 めぐるは軽く壁を手で押し、その反動を使うことで、飛びかかってきた篠原を横に避ける。

 そして、


「そんりゃあっ!」


 自身の横を素通りしてしまった篠原の顔面に、間髪入れずにめぐるのハイキックが直撃した。


「ぬぶはっ⁉︎ 」


 本日2度目となる、硬いローファーによる蹴り。


 スカートの中身が丸見えになる事も厭わずに繰り出された一撃。

 それをモロに喰らった篠原は、夥しい量の血を顔面から吹き出しながら、廊下の壁に叩きつけられる。肉体の液状化を維持することもままならずに、彼は冷たい床に倒れる。


 呻き声をあげながらなおも起きあがろうとする篠原に、自信に満ち溢れたようなめぐるの声が飛んでくる。


「どうやらその能力、頭だけは液状化できねえみたいだな」

「ふごっ……」


 彼の鉄融液砲スチールクラッシャーの弱点を早々に見抜いた上でのカウンター。


 お互いの場数の差が、それを可能にしたのだ。

 しかし、それでも篠原は諦めない。痛む身体を無理矢理立ち上がらせながら、彼はめぐるに一矢報いようと試みる。

 そして、めぐるの姿を目にした途端に——彼の顔は驚愕の色に染まった。


「な、なんだその腕は⁉︎ 」


 篠原はめぐるの腕を指差しながら、取り乱した様な声を上げる。その声を聞いて氷牙も同じところを見て——絶句した。


 彼が指差しためぐるの腕は、

 まるでバネかなんかの様に、彼女の腕は変形していた。

 間違っても篠原の仕業ではない。彼の鉄融液砲スチールクラッシャーではこんな芸当はできないからだ。十中八九、めぐる自身の仕業だろう。


 じりじりと、廊下の突き当たりにある非常口に背を向けながら後退する篠原。

 対してめぐるは、彼がなぜ驚いているのか分からない、と言った感じに、笑いながら篠原に近寄ってゆく。


「大袈裟なやつだ、?」

「は……え?」

「遅いっ!」


 明らかにまともじゃないめぐるの腕の有り様に、敵ながら戸惑う篠原。

 その狼狽が、彼の勝機を潰した。


 次の瞬間、捻じ曲がっていためぐるの腕が、まるで捻ったゴム紐が弾力で元に戻るかの様に、元に戻り始めた。

 が、それはただ元に戻るだけでは収まらなかった。


 捻れた腕が元に戻ろうとする反動は、凄まじい回転へと生まれ変わる。

 めぐるの突き出した、捻れ曲がった拳は、破壊的な回転を伴うコークスクリューパンチとなって、篠原に襲いかかってきた。


 空気を切り裂きながら篠原に向かってつっこんでくるそれは、もはやパンチというより、人の腕の形をしたドリルと呼んだ方が正しいんじゃないかと思わせるほどに、暴力的なパンチであった。


 そして。

 ボゴオッ‼︎ と聞くに耐えない音を立てながら、めぐるの拳が篠原の顔面に突き刺さった。



   ◆   ◆   ◆



「ぬがあああああああああああああああああああああああっ⁉︎ 」


 パンチを喰らうと同時に、篠原は廊下の果てまで一直線に吹っ飛んでゆく。


 めぐるの拳を受けたその顔面は、まるでぐしゃぐしゃに丸めらた紙屑の様にめちゃくちゃになっていた。

 その惨状たるや、顔のパーツが福笑いの様にぐしゃぐしゃになっているのではないかと錯覚してしまうほどであり、もしこれがテレビ番組とかなら、間違いなく今の篠原の顔面にはモザイク処理が行われているだろうことは想像にかたくない。


 捻れた腕を戻しながら、めぐるがニヤリと笑う。


「オレの身体と、触れている空間を歪曲させる——それが裏返りの円環リバーシブル・メビウスだ」


 なんかス○ンド使いみたいなポーズを取り、格好つけながら自身の能力の種明かしをするめぐる。


 が、肝心の篠原は、今のめぐるの一撃によって完全にのびてしまっているし、氷牙は事態についていけずに思考停止に陥っているしで、めぐるの説明を聞いている者は皆無だった。


 めぐるはそれに気付くと、気まずそうに頭を抱える。


「あちゃ~呆気ないなあ~」

「…………」

「っとそうだった、大丈夫か少年?」


 気を取り直し、めぐるは後ろで呆然としていた氷牙に声をかける。

 

「だい、じょうぶ……だ」


 うわの空気味にそう答えながら、氷牙は空き教室から出てきて、めぐるの元へと歩いてゆく。


 そして、西日の照りつけるめぐるの背中に、氷牙は疑問をぶつける。


「お前、なんなんだよ?さっきの力といい、色々とぶっ飛んでやがる……」

「助けてもらって第一声がそれ?近頃の若者は御礼一つも言えんのか……あたしゃ悲しいよ」

「いやお前同い年のくせに何いってんだ。そして、お前一体何者なんだ?助けてくれたのはありがたいけどさ……」


 確かに、めぐるがいなければ氷牙は今頃、篠原に殺されていた。


 が、彼女を100%信用できるかと言われれば、まちがいなく“No”だ。

 不思議な力を使える上、言動もなんかまともじゃない。氷牙からすれば、目の前の少女も篠原と同レベルで怪しい存在なのだ。

 氷牙が警戒の目を向ける中、めぐるは、あっけらかんとした調子でこう言った。


「言ったろ、オレは輪道めぐる。正義の味方だってな。悪ーい奴をぶちのめす、平和な世界の陰の立役者さ」

「正義の味方、ね……」


 めぐるの自己紹介を改めて聞いた氷牙は、半信半疑気味にそう口にした。


 このご時世に、堂々と自らをそうラベリングできる人間がいた事が驚きだ。

 おふざけで言っているのかと思ったが、めぐるの目を見てそれは違うと分かった。彼女は本気でそう名乗っている。あそこまで真剣な顔をしながら嘘をつく人間はいないだろう。


「何その懐疑の眼差し」

「いや当然だと思うが。正義の味方なんているわけねーだろ、イタすぎるんだよ」

「まあ惜しむらくは、お前が可愛い子ちゃんじゃなかったところだな。あーあ、どーせならそれの方がよかったなぁ〜」

「悪かったな男で!」


 前言撤回、めぐるコイツは多分碌でもない奴だ。


 氷牙は、ちょっとはめぐるの事を信じようかと思っていた先程の自分を張り倒したくて仕方がなくなってしまった。


「てか正義の味方が助ける人間差別してんじゃねーよ!正義の言葉が泣いてるわっ!」

「いや正義の味方だって人間だ、四六時中清廉潔白で居られるわけがらない。これを機に認識を改めるんだな」

「話を逸らすな!」

「めぐるちゃんは話を逸らすのが得意なのだー☆なんちって」

「……もうわけわかんねえ」


 存在も素性も、そしてテンション的にも理解不能だ。


 輪道めぐると名乗ったこの少女の意味不明さに、氷牙は完全に振り回されていた。

 できれば全部白昼夢であってほしいものだが、人智を超えた殺人も、先程までの戦いも、それによって崩壊した後者も全部、紛れもない現実なのだ。氷牙一人が現実逃避したところで、それは変わらない。


 氷牙が、周囲に色濃く残る戦いの爪痕を目の当たりにしている隙に、めぐるは後始末を済ませるべく、倒れた篠原へと近寄る。


「まあとりあえず事後処理を済ませないとな。随分と派手にやったからなぁ……あーあ、また始末書かなこれ—— 」


 そう言いかけて、めぐるの動きが止まった。



「……どうした?」



 急にめぐるの声が止まった事を怪訝に思い、氷牙が振り返る。



 その時、めぐるの目には。

 指先から白い糸をのばす、黒ずくめの人物が映っていた。



「な」



 しゅるり、と。

 その人物の指先から伸ばされた糸は、まるで意思を持っているかのようにめぐるの脇をすり抜け、その向こう側へと向かってゆく。


 最悪の事態がめぐるの頭をよぎったのは、その時だった。

 


「っ!危ないっ!」

「……え」



 めぐるがばっと振り返り、氷牙に向かって叫ぶ。

 しかし、間に合わなかった。

 


 ズバシャァアッ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!! と。

 氷牙の脇腹から、おびただしい量の鮮血が噴き出した。

 


「……はぇ?」



 氷牙の身体には、痛みはなかった。

 痛みを感じる間もないほどの、一瞬の出来事だった。


 それはあまりにも一瞬すぎたが故に、めぐるでさえも僅かに反応が遅てしまったのだ。


 ギラつく糸によって腹をかっ捌かれた氷牙が、紅い液体をまき散らしながらその場に崩れ落ちてゆく。


「な、に……」 

「なっ……おい!しっかりしろよ!おいっ!」


 めぐるが必死に呼びかけるが、闇に沈みかけている氷牙には届かない。


 意識が薄れる。

 身体が冷たくなっていく。

 視覚や聴覚は薄れていっているはずなのに、その感覚だけは強くなっている。

 


「…………」



 ぼやけつつある氷牙の視界の端から、黒ずくめの人物が消える。

 まるで、もう用事は済んだとでも言うかのように、そそくさと立ち去ってゆく。

 


(俺、死ぬのか——)



 意識を失うその直前、氷牙の中にあったのは後悔だった。


 まだやりたい事はたくさんあるし、焔児とはくだらない理由で喧嘩したままだったし、久遠とはまだ話し足りない。

 でも、それらはもう叶わないのだ。

 だって、これから氷牙は死ぬのだから。


 心残りはたくさんあるけど、あるかどうかもわからない死後の世界に期待もできない。



(ああ——最悪だよ、ホント——)



 氷牙の意識が途切れる。




 その寸前。

 ドクンと、何かが膨れ上がるような感覚があった。



 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る