Episode.Ⅰ-Ⅱ:鉄鎚の半魚人

疲労困憊ですでに足は棒のようになっていたが、

メイヒはひたすらに歩き続けた。

行きは空中を優雅に旅していたが、それを

引き返している今は文字通り最悪の気分である。

足場は悪く、キャリーケースはずっしりと重い。


「…ホント、最悪なことばっかり。」


二人の表情が頭から離れない。

メイヒには彼らが嘘を言っているようには見えなかった。何よりそんなことをするメリットが見当たらない。しかし、それは自分の知る真実が真実ではなかったことの証明になる。


「これからどうしよ…」


頼るあてもない。異邦の地に一人、

メイヒには寄る辺がどこにもなかった。

地下の街は当然のごとく太陽の光が差し込まず、

どんよりとした空気がメイヒの心をさらに沈ませた。


「(そうだ、イヴさんに――――!)」


一瞬、光明が差したように思えたが、すぐに霧散した。

彼女は地下ここの存在を知らない。知ったとして、

ここへやってくる術がない。


「とにかく、外に出なくちゃ。」


独り言のようにつぶやいた。

まずは外に出て、それからゆっくりと

これからのこと考えよう。


メイヒは自他ともに認める博識だった。

それは周囲からも認められていたし、メイヒ自身も

自信を持っていた。しかし、その自負も今となっては果たして正しいのか分からない。この国に来てから知らないことが多すぎるからだ。


ジェパーニの国内でテロ行為が横行している。

それは渡航前に調査して知っていることだった。

しかし、その子細は反政府組織と政府が争っているというもので、その反政府組織の勢力が地下に住まう者たちであることは知らなかった。明言されたわけではないが、状況を見る限りそれで間違いないだろうとメイヒは分析していた。


戦争の経緯についてもそうである。

メイヒは第四次世界紛争の起こりから終結に至るまで、

史実を調べ詳細に理解しているつもりだった。

ただひとつ。ジェパーニとの戦争終戦に至るまでに、

核兵器が使用されたという事実を除いて。


「考えちゃダメ…今は、きっと頭が回らないわ。」


メイヒは市街地を目指した。

先刻ワタルに紹介された繁華街。繁華街といっても

地上とは打って変わってみすぼらしく、閑静なものだったが…そこを目指せば、地上へ出る方法が見つかると踏んでいたのだ。


「お嬢ちゃん、いいもん着てるなぁ。金に余裕ないか?ん?」


「ごめんなさい、急いでるの。」


物乞いのような老人が話しかけてきたが、メイヒはそれを無視した。今は時間が惜しい。それに、構っているほどの心の余裕もない。


数時間ほど歩いただろうか。

しばらく道なりに行くと、風車板の上で見た

街の見覚えのある景色が視界に入ってきた。

飛行しての距離はおおよそ二十分程度だったのに、

徒歩ではこんなにも時間がかかるとは。

途中道に迷ったり、何度も同じ場所を往復したのも

時間ロスの一因だろう。

メイヒはすっかりの棒になった足を踏ん張らせ、街の奥へと向かった。


「あれは―――」


ふと視界を上に向けたとき、

見えたのは天井へと続いているレーンだった。

それが地上へ続くエレベーターであると、少し遅れて気がつく。


「なんだ…ちゃんと、外へ行くための道があるんじゃない。」


完全に閉鎖された空間であると認識していたメイヒは、少しだけ安堵した。思えばワタルも地上に出てきたのだ。行きのあれは逃げるための緊急のもの。きちんとした道順があるのだと安心する。


「あの、地上へ出たいの。エレベーターに乗せてもらえませんか?」


レーンの根元を目指して進んでいくと、

詰所のような場所へとたどり着く。周囲には

軍服に似た服装を来た男がいて少し身が固まったが、

メイヒは意を決して話しかける。

服は、ここに来るまでにキャリーケースからカーディガンを引っ張り出し、上に羽織ったうえで念を押し目立つアクセサリーを外しておいた。


「通行証は?」


「つ…通行証?」


男は露骨に怪訝な表情をした。


「通行証がないんなら、外に出ることは出来ねぇよ。なんだ、何にも手続きしないでここまで入ってきたのか?」


詰所のすぐ近くで談笑していた守衛たちを男は睨みつけた。


「えっと…お金…支払いなら、出来るわ。その通行証って、いくらするの?」


「買収しようってか!どっちにしろここで販売なんてしてねぇよ。なんなんだお前一体。何にも知らないのか?」


怪しそうにこちらを見る男に、

思わずメイヒは俯いて視線をそらした。

両親から授かった自慢の瞳も、昼間の事件がフラッシュバックして隠してしまう。


「こ、ここに来たばかりなの!手違いで、地上から地下に来ることになっちゃって…」


「地上から…?まあ、言われてみりゃ地下ここじゃ珍しく小奇麗な恰好してるな…」


「そうなの!だから―――」


「だが地上からここへ降りてくるにしても、政府公認の許可証や通行証があるはずだ。持ってるだろう?」


自分はここに半ば無理やり連れてこられて、

そんなものは何も知らないし困っている。


そう何もかも暴露してやりたいという衝動に駆られた。しかし、すぐにワタルの顔と彼の発していた言葉の数々が思い出される。


「…あの、やっぱり、いいです。」


「はぁ?あ、おい―――!」


メイヒは足早にその場から離れた。

自分が何もかもを正直に話せば、

ワタルに迷惑がかかるかもしれない。

彼がどんな理由で地上にいたのかは分からないが、

もしかすると彼が二度と地上へ出られなくなるかも…そう考えると、それを男に伝えるわけにはいかなくなってしまった。


ふらふらとあてもなく街へと戻り、

メイヒは建物の中に入り腰を落ち着けようとした。

とにかく今は、どこかで横になりたかった。


「いらっしゃ…なんだガキか。何の用だ?」


店主の男は不機嫌そうに口元を歪めた。

どうやら建物は酒場だったようだが、店内も店主も、飲食の場には相応しくないほどに風体が不潔に思えた。


「なんにする。酒が飲めんのか、アンタ。」


「いえ、私未成年だからお酒は―――」


「酒も頼まねぇのに何しに来た?!冷やかしならとっとと帰れ!この。」


「あの…!この近くで宿を探してるの。どこかで休めるところはないかしら…?」


「宿だぁ?お前、ここが観光地にでも見えるか?そんなもんあるわけねぇだろ!物乞いなら着てるモン売っ払うか、教会にでも行くんだな!四里も歩きゃはずれにあるさ!」


「四里って…!?そんな、十キロ以上先じゃ―――」


「知ったことか。さあ、商売の邪魔だ!とっとと出て行ってくれ!」


店主に締め出されたメイヒは、

再び路上で途方に暮れることになってしまった。

宿に泊まるのに十分なお金はあるのに、

この街では自分が安心して息を付ける場所がどこにもない。もう一度思考を巡らせようとしたが、早朝から動きっぱなしの脳も身体も、既にメイヒのいうことを聞いてくれなかった。


「どこか…どこでもいいから、静かなところ…人の、いないところに―――」


街の至る所には、こちらを物珍し気に見ている浮浪者たちがいた。鈍った頭でも、ここで寝込んでしまえば身ぐるみを剝がされてしまうことは想像がついた。






濡れた髪を乾かすこともせず、

ワタルは扉をくぐって部屋に戻ってくる。

部屋にはまだカイトとハカセがたむろしており、ワタルはげんなりした表情を見せたのちベッドに飛び込み寝そべる。


「まだいたのかお前ら。」


「別に。ちょっとヒマつぶしだよ。」


「俺はカイトにことのあらましを聞いてた。コイツにデリカシーがないのは前提としても、確かに妙な女だな、そのメイヒってのも。」


ハカセは自前のノートPCを弄りながら言った。

視線は画面に伏せられており、指がカタカタとキーボードをたたく。


「フォーテの国内で毎年行われてるのは「戦勝」の式典だろ。大々的に核攻撃のことなんて触れ回ってないから、メイヒは知らなかったのかもしれないだろ。」


「子どもでも簡単に、スマートグラスや3Dパッドでインターネットを漁れる時代だ。情報統制の厳しいフォーテの国内からだって、それくらいのことは調べられるさ。」


「それも、地域柄とか家訓によるだろ。」


「そうかもな。そのメイヒってのがよほどの田舎出身で、各メディアの情報に触れてないやつならあり得るかもな。」


ハカセは淡泊にそうつづけた。

カイトはワタルの様子を探るように視線を送る。


「ずいぶん気にかけてるんだな、メイヒのこと。」


「ん…まあな。」


「何でそんなに気にするんだ?今日あったばかりの他人だぜ?」


「そうだけど…助けられた恩は返さないとだろ。」


「恩?」とカイトが尋ねるとワタルは続けた。


「軍人とやり合ったって言ったろ?全部説明すると長くなるんだけど…地上でテロに出くわしたんだよ、抵抗軍連中の。」


「ああ、そうか…そりゃ災難だったな。」


「抵抗軍」と聞いてカイトは静かにそう返した。

ハカセも察したのか、口を挟まずにキーボードをたたき続ける。


「で、連中が子どもさ…人質にして屋上から放り投げたもんだから、俺が警官の前で風車板コレを使っちまって。さっさと逃げようと思ったんだけど、子供を保護しようと追っかけてきてた警官が、俺のことも一緒に探してたんだ。」


「風車板の許可証なしでの飛行は禁止されてる。

おまけに人質のことを見知らぬ人間が搔っ攫ったら、そりゃ警官も探そうとするさ。」


「だからズラかってそこから離れたんだけど、子供を保護してくれたのがメイヒでさ。警官に俺のことを聞かれたとき、俺のこと見てたのに「知らない」って庇ってくれた。」


「それだけかよ!」


カイトが呆れたように言った。


「俺にとっちゃでかいよ。地上へ出入りできなくなったら困る。」


ワタルにとって地上での活動は、

自分の目標や夢に不可欠といっても

過言ではなかった。だからこそメイヒの行動は、

自分の夢を守ってくれたことと同義だったのだ。


「受けた恩は返すのが俺の信条だから。

だから、軍人に襲われかけたときも助けたし、地下に連れてきた後も面倒みてやりたかったんだよ。」


「なら恩は返したじゃねぇの。軍人から助けてやった時点でチャラだ。」


「重い軽いの話じゃねぇの。俺の気持ちの問題。」


そこからは、しばらく沈黙の時間だった。

ハカセとカイトは時折また新しい議題で話をしたり、

ラジオを流し今日のテロ報道に聞き入ったりしていた。

ワタルは昼の疲労もあったのだろう。

横になっているうちにうつらうつらと微睡み、

短い覚醒と意識を手放す行為をしばらく繰り返した。


「また死亡者が出たらしいぞ。浮浪者だそうだ。」

鉄鎚の半魚人ハンマーフィッシュか?物騒だなぁ」


「工房にちんけな客が来てさ、ケツをからくりにしてやんの。」

「ああ、聞いた。人工肛門に苦労したらしいぞ。」


二人が話しているのは何となく耳に入っていたが、

ワタルの意識が覚醒するのには時間がかかった。


「腹ぁ減ったなぁ。今日は爺さんの工房も長えや。」


カイトの欠伸交じりの愚痴を聞いて気が付くと、

時刻は既に数時間が進み、時計の針が二十一時を

指しているのに気が付いた。


「…よし、行くか。」


ワタルはそういうと、椅子の背にかけていた

パーカーを掴んで再びその身に羽織った。


「どこ行くんだよ。」


「やっぱ探してくる。メイヒのやつ、

一人じゃ地下から出られないことも知らねぇだろ。」


「もう六時間は経ってるぞ。大人の足なら

街まで二時間もありゃ着く。もう地下にいねぇよ。」


「メイヒはキャリーケースを引きずってたし、土地勘もない。たぶんフツーの倍くらい時間かかってるよ。」


「それでも六時間もかかんねぇだろ。」


「言ったろ、メイヒ一人じゃ地下から出られねぇよ。」


「お人よしだなあ。」


「ありがとよ。じゃあな!」


適当に相槌を打って、ワタルは行ってしまう。

カイトはわざとらしいため息をついて、

ワタルのベッドに寝そべった。


「ハカセ、街の監視カメラ侵入して、

メイヒがどこ行ったのか調べてやれよ。」


「は?なんで俺がそんなこと―――」


「地下だって広いんだ。道も入り組んでるし、

アイツらが入れ違いになったら可哀想だろ?」


ハカセもまた、わざとらしくため息をついて

寝そべっているカイトを一瞥した。


「お人よしはどっちだよ。」






ワタルは風車板に乗り、

出来るだけ周囲に気を配りながら

空中からメイヒのことを探した。

しかしカイトのいうとおりさすがに慣れない道でもメイヒは街までたどり着いているようで、道中に彼女の姿を見つけることは出来なかった。


「急いで見つけないとな―――」


メイヒもまた、今日は一日中動き回り

疲労困憊であることは予想するに難くない。

そうでなくとも、もうすぐ地下には「夜」が来る。

ワタルはそれまでにメイヒを見つけてしまいたかった。


我楽多ガラクタ区を抜けて街へと戻ってくると、

ワタルは周辺の住人にメイヒの目撃情報を聞いて回った。珍しい恰好をしていたのですぐに見つかるだろうと思っていたが、それは想像以上に難航した。


「本当に見てない?珍しい衣装だから、記憶に残ると思うんだけどな…」


「さあなぁ、そんな奴は見てねぇけど。」


「髪を結んでるんだ。二つ房を作って、左右に垂れさせてる。」


そういうと、住人の一人が「ああ」と手を叩いた。


「ワタルのいう服装のやつは知らんが、同じ髪型の女の子なら見たよ。ふらふら大きな荷物持ってたから、印象に残ってる。」


「それだ!そうだ、髪型や荷物のことで聞きゃよかった。」


メイヒの服装があまりにも印象的で、

ワタルは聞き込みをアクセサリや衣装に終始してしまっていた。


「地上エレベーターの方へ向かっていったぞ。上へ行きたがってんじゃないのか。」


「やっぱりそうか、ありがとう!」


そうしてワタルは、エレベーター周辺でさらに聞き込みを続けた。本来なら詰所にいる男たちに話を聞きたかったが、今日の今日ではバツが悪い。


しかし、ここにきて目撃情報は

ぱたりと途絶えてしまった。この街は

地下の街の中でも特に人が行き交う中心地だ。

一時間もすれば、メイヒとすれ違った人々はもうここにいないことも十分にある可能性だ。


「おい小僧、さっきから触れ回っとる女、儂はみたぞぉ~」


そうしていると、路肩でシートを敷いて

しゃがみこんでいる老人が話しかけてきた。


「ほんとかよ、じーさん!どこ行ったの?」


老人は歯のない口内をにかっと笑って見せると、ワタルに向かって両手を差し出してきた。


「ただで教えるわけにはいかんなぁ。」


「おいおい、がめついじーさんだなあ。」


「世の中タダなものなんてないんじゃよ。ほれほれ。」


ワタルはふぅ、と息を吐いて、

昼間に観光客から受け取ったコインをそのまま老人に手渡した。


「ひひっ、毎度。」


「さ、その子の行先教えろよ。嘘だったら許さねぇかんな。」


「嘘なんてつくもんか。その娘なら街を抜けて墓場の方へ向かったぞ。足と荷物を引きずってなぁ、ここにおるんが嫌だったらしい。」


「そりゃあ、こんなとこでへたり込んだら身ぐるみ剝がされちまうだろうけど…また面倒なとこに向かったなぁ。」


言いながら、ワタルはほっとしていた。

兎角、メイヒの居場所について目星がついた。

すぐにそちらへ向かおうとすると、老人はシートをくるくると丸めてそこから退散しようとしているところだった。


「どこ行くんだ?」


「お前さんにもらった金で、酒場そこで一杯やるのよ。それで朝まで粘ってやるわ、ひひ。」


「じーさん、アンタにあげたからには、もうそりゃアンタの金だからとやかくは言わないけどさ…折角なら無駄遣いせずにとっておけよ。冬ごもりで一文無しの方が致命的だぜ。」


この地下は太陽の光が差し込まない。

そのため外と比べると極度の寒暖がないが、

冬はそれなりの寒さとなる。防寒具を持っていない等しい地下住民の浮浪者たちは、毎年数人が路上で衰弱死してしまうのだ。


「そうも言ってられんのよ。最近ここらで浮浪者が殺されててな。鉄鎚の半魚人ハンマーフィッシュに殺されるなんて、わしゃごめんだ。」


鉄鎚の半魚人ハンマーフィッシュ?」


聞き覚えのある名前だった。

そして遅れて、身体の毛が総毛立ち寒気が走るのを感じた。


「くそ…!―――あ、おい、ハカセ?ちょっと今すぐ調べてほしいんだけど。」


『なんだよ、藪から棒に。

それよりメイヒってやつは見つかったのか?」


「いやそれはこれから!」


『なら先にそっちだろ。一体何を―――』


「いいから!なんか、鉄鎚の半魚人ハンマーフィッシュってやつのこと、聞いたことあるよな?前から何度かお前らが話してるのを聞いたんだけど!」


ハカセは「今更かよ」と呆れた。


『ああ、今日もちょうどその話をしてたとこだよ。』


「なんなんだよそいつ?浮浪者を殺して回ってる異常者だって?」


『確かにここ数日は浮浪者が殺されてるが、元々はそうじゃない。』


ハカセの声がスピーカー越しに響く。

眼鏡をくいっと上げるしぐさが思い浮かんだ。


鉄鎚の半魚人ハンマーフィッシュってのは、地下街で有名な殺人鬼の異名だよ。元は東の町で女や子供を殺して回っていて、今それがこの近くに流れ着いてる。ひどい斜視でエラの張った魚みてぇな顔してるってんで、そう呼ばれるようになったんだとか―――』


「女子供?東の町?なんでそんなやつがこの近くにいるんだ?」


ハカセの声に怒気が混じった。


『お前、普段どれだけ情報仕入れてないんだよ?東の拠点で、抵抗軍の連中に追い掛け回されて流れ着いて来たんだ。アイツ、ばかなことに抵抗軍構成員の子供を手にかけたらしくて―――』


「で、なんで今は浮浪者狙い?」


舌打ちが聞こえた。

ハカセは自分の話を遮られるのをひどく嫌う。


『…誰かさんとは違って、ヤツは地下じゃ有名な殺人鬼だからな。普段ガキや女だけで人気のないところをうろつくような奴はいない。それに抵抗軍の連中も奴を探し回ってるから、基本昼や繁華街では犯行が出来ない。だから夜にふらついてる浮浪者の連中を襲うんだろ――――』


途中から会話が頭に入っていなかった。

ワタルは風車板に飛び乗った。それと同時に、

地下に「夜」の帳が降りた。






墓石の前に座り込んで、メイヒは必死に

睡魔と格闘していた。ようやく人気のない場所へやってきたが、ここで眠るわけにもいかない。とはいえ、これ以上歩くには足はとうに限界を超えていた。


「はあ…どうしよう。」


いよいよ行く当ても打開策も尽きてしまった。

残された道はワタル達の元へ戻って頭を下げることだが、既に方々を歩き回り戻る道順は頭から抜け落ちていた。


「イヴさんに…イヴさんに、連絡するくらいしか―――」


先ほどメッセージが入っていたのを見た。

イヴは今日起きたテロのことを話していて、

メイヒの安否を心配する言葉が投げかけられている。

その温かさに触れて、メイヒは少し涙が溢れそうになった。


「お嬢さん、こんなところでたった一人で、何をしているんだい?」


「放っておいて。疲れてるの。」


しわがれた声が聞こえてきたが、

メイヒは声の主に目もくれずぴしゃりと言ってのけた。

ここに来るまでに、数え切れないほどに

浮浪者や酔っ払いに声をかけられた。

最初は怯えや恐怖が勝っていたメイヒだったが、

どうにも数が多くしつこいことに、だんだんと

腹が立ってあしらうようになっていたのだ。


「(墓場こんなところにまで誰かいるなんて…お願いだから休ませてよ―――)」


その時、ぱっと明かりが消えたかと思うと、

地下の空間が暗闇に包まれた。

遠くの町の小さな蝋燭の点が見える。


「何っ、停電…!?」


少し遠くにある僅かな街灯の光だけの

暗闇の空間に、メイヒは混乱し立ち上がった。


「二十二時を回ったからね。蓄電枯渇だよ。」


しわがれた声が笑みを含んだ声色を覗かせる。

この状況を楽しんでいるようだ。


「蓄電枯渇?」


「地下の電力は、基本的に地上に備わっている太陽光発電装置で賄っている。だけどあれは旧式なうえに何年もメンテナンスされていなくてねぇ…蓄電機能が著しく低いから、その日に貯めた電力は、日没後数時間で切れてしまうんだよ。」


「何よそれ、それくらいちゃんと管理してよ…!」


「地下の暮らしやすさなんぞ、地上住民からすれば何の関心もないことだ。仕方のないことだねぇ。それに、私にとってはとても都合がいい。」


不意に、ぎちぎちという不快な音と、

鼻を摘まみたくなるような異臭が漂ってきた。

言葉に表せない臭いだったが、メイヒにはそれが

錆びた鉄に腐敗した生ごみに付け込んだような…そんな光景を連想させた。


「なに、この匂い…それに、都合がいいって何――――」


それは、鉄を鉄を擦り合わせているかのような

不快な機械音だった。僅かにオイルの匂いが混ざる。

不気味な笑い声がメイヒに近づいた。


「最近は薄汚い老躯の肉ばかりすり潰してきた…久方ぶりの健康な肉だ。とても清潔で柔らかそうで…すり潰し甲斐のありそうな、いい肉だ。」


地下の暗がりに、僅かずつ目が慣れてくる。

ぼんやりと見えた近づいてくる人影は、

右腕が歪な大鎚の形をしていた。


「今夜、この鉄鎚の半魚人ハンマーフィッシュに肉をすり潰させてくれるのは…君かね?」

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