名前

笠井 野里

ある名前

 小説を読み終えた俺は本を閉じて学習机に起き、実家の自室の丸い蛍光灯けいこうとうを眺めながら思った。――俺って小説好きじゃないな。


 目がけていくのがわかって、目を閉じても、そこにはあの蛍光灯の白い円が残滓ざんしのようにうつる。しかしそれもすぐ消えて、俺はため息を一つついた。


 読んでいた小説は、中学生の青春モノ。とはいえキラキラした話ではなく、大体が心に一物いちもつ抱えていて、図書館司書の先生と本を通して心のモヤを少し晴らすというもので、やっぱりそれが今風の青春モノなのかもしれない。内容は好きだったが、俺にはその小説の一部分がまるで飛蚊症ひぶんしょうのようにふらふら浮いて、集中があまり出来なかった。……それはあの司書のあだ名だった。中学の教室の匂いとその名と本は、化学反応を起こして、俺の意識をそちらに奪ってゆく。

「しおり、か……」

 俺の俺が本を好きな理由を呟く独り言は、虚空にさえ響かず何処どこかに落ちてゆく。俺は本の白いスピンをいじくる。サラサラした感覚が手触り良い。


 俺は元々、小説なんか読まなかったのに。


 中学二年の秋、俺は席替えで隣になった女子に勧められて、半ば強制的に読書をした。彼女が勧めた青い表紙のケータイ小説は、横書きで読み難くて、表現も稚拙だった。タイトルも、ストーリーの中身も全て忘れてしまったが、俺は今でも、その小説が今まで読んだ中では一番いい読書体験が出来たと思っている。理科の授業中、机の下にある本を滑る、俺の指を眺めていた彼女は笑顔だった。それは窓際から見える公孫樹いちょうと同じように輝いて見えた。


 その後俺と彼女は本を読み合いした。ケータイ小説以外も読んだ。国語の教科書さえ読んで、互いに感想を言い合った。俺はいつの間にか本屋に行って本を買っていた。奇抜なタイトルに一目惚れ。『君の膵臓をたべたい』――今俺の部屋の本棚に置かれているその本の背表紙と、目があった。実家に帰ると毎回読んで泣くこの本も、今年の帰省では読んでない。それがたまらなく寂しくなった。


 結局、楽しく本を読んだ時間も長くは続かなかった。一ヶ月で席替えのところを二ヶ月に伸ばされていたのだから贅沢なのはわかっているが、離れてしまった。気恥ずかしくて彼女に話しかけることも出来ずに俺は日々を過ごした。彼女は相変わらず楽しそうに隣の席の人と話していた。隣りにいたのは、オタクっぽい読書家の男だった。カバーもかけずにラノベを読んでいるようなやつだ。俺はその空間を見ている気力は持っていなかった。

 桜が咲いてクラスが変わり、スマホまで壊れて連絡先がリセットされると、完全に彼女との接点は無くなった。あの頃から少しは読んでいた小説も数は減って、歴史系の新書を読むようになった。昔のスマホに入っていたケータイ小説のアプリは新しいスマホには入れることもなかった。


 三年に入って夏頃に、彼女はなにかの病気にかかった。難病だのなんだの言われていたが、俺はあんまり深堀りはしなかった。する勇気がないとも言える。車椅子と制服でさえない白い服をまとった彼女の顔は、弱々しくて、廊下ですれ違うと胸がチクチクと痛んだ。俺は『君の膵臓をたべたい』をそのとき思い出していた。


 ――また蛇足だそくを思い出したな。俺は。こんなドラマチックな展開である必要もない。俺は彼女が病気にかかっていなかったとしても、勇気も何もないだろう。

 中二の秋、あの教室のあの席にずっとしおりの挟まれたままな俺を、自分で嘲笑っても惨めだった。


 ……何年経ったろうか、あれから。


 俺は今週に読んだ小説が並んだ棚を眺める。有名な賞を取った作家のもの。好きな作家のもの。言わずと知れた日本の文豪、海外の文豪も並ぶ。そうそうたるメンツ。どれも帰ってきてから買ったものだ。

 先週地元の本屋に行って買い物をしたときも、店員にも店内にも彼女は居なかった。「キャンペーンやっていまして、しおりが貰えるんですよぉ」と可愛い猫のしおりを三種類差し出す店員さんは愛想よく笑っていたが、それを見て言いようもない虚脱感に襲われた。


 成人式には居ただろうか? 首を扇風機のように振って人を探しても見当たらなかった。頭の中で『One more time,One more chance』が流れていたのを思い出す。飲み会で乾杯の音頭を取り「誰も死んでいなかったようで、良かったです、乾杯!」というあまりにも最低な探りを入れたこと、その後一人で川に吐いたゲロが妙に黒かったことも。

 生死さえわからない。それを知りたいような気もするし、もう一度会いたい気もする。俺が今まで読んだ本の感想を言いたいし、彼女が読んだ本の感想も聞いてみたい。俺が書いた小説も、俺は彼女に読んでほしい。俺はもしかしたら彼女のために小説を読んでいるのではないかと思うこともあるし、書いているときでさえそれを感じることもある。


 ただ、じゃあ会おうとなると、そこまで行動する勇気はないし、なんか妙に重くてキモいと思って尻込みしてしまう。――重い? 重いというほど、俺は彼女を思い出すだろうか。事実だんだん俺は、彼女との記憶が薄れてゆくのを感じている。それを補うために脚色が混ざり始めていることも。俺はもはや彼女の姿形、声、顔、仕草さえ忘れてしまっている。


 片恋の回想の末がこれでは、どうもしまらない。

 ……おそらく、もう彼女はどこにもいないのだ。俺の中で理想化され、永遠に追い求めるのかもしれない。だとしたら、少し哀れだなあと、思う。でも、ロマンチック。そんな空想幻想のために小説を読んでいるなんて、やっぱり小説を好きではないのかもしれないし、そんな空想幻想のために小説を読むなんてやっぱり、小説が好きなんだとも思う。


 俺は本棚にさっき読んだ本をしまい『君の膵臓をたべたい』を取り出す。どこか懐かしい香りがする。

 いくらかカタチを変えて変色までした、公孫樹いちょうの香りのする「しおり」を、またあの中学二年の秋に挟んで、心の中にしまった。

 さぁ、次はこれを読もう。俺はパラリとページをめくって、物語の世界に入ってゆく。

 ――俺は小説が好きなのだろうか? 答えのない問いは、俺の中に心地よく響いている。今はそれでもいい、そう思った。

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名前 笠井 野里 @good-kura

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