包み込むもの

潮珱夕凪

包み込むもの

 ――早く着きすぎちゃった

 時計を見ると、約束の七時半には十五分前だった。アイスの自販機とにらめっこする間もなく、ソーダバーのボタンを押す。ガタン、と音を立ててポップなパッケージが降ってきた。さっぱりとした味が、沈んだはずの陽の余韻を冷ましていく。錆び朽ちた滑り台に腰掛けると、眼下には慣れ親しんだ町が広がっていて、橙の明かりが、同じ方を向いて並んだ窓にぽつり、ぽつりと灯っている。時折耳のあたりをかすめる蚊を片手で払いながら冷たさと――思い出に浸っていった。

「私が、紗綾のこと好きって言ったら……引く?」

 一年前の夏、バレーのチームメートで一歳上の美咲から告白を受けた。試合終わりの河川敷、私は膨らんだボールバッグを斜め掛けしながら、美咲おすすめのソーダバーをかじっていた。斜陽にトンボの羽が輝いていて、川の照り返しに思わず目を細めて歩いていたさなか。私が美咲の彼女になった日のことだった。

 回想に浸りきった時、暗闇の中から不意に人影が現れる。私の身体は前のめりになった。立ち上がるなり片足が浮いて、駆けだしてしまう。

「美咲、久しぶり!」

 美咲はおもむろに私に近づく。木々の生い茂っている道を抜け切ると、星明かりが美咲を照らし出す。高い鼻が右頬にかけて影を伸ばしていて、唇はぽってりと深紅で彩られている。私はそのまま美咲の胸に飛び込んだ。甘ったるいシャンプーの匂いが鼻の奥を撫でる。

「香水、前からつけてたっけ?」

「うーん……大学入ってからかな」

「何?男ウケのため?」

 美咲が男ウケなんて狙うわけない。ちょっとおどけてみただけ。

 だって美咲は、私みたいに女の子しか好きになれないから。美咲の大学進学に合わせて別れたけど、私は今でも美咲が好きだ。また彼女になりたい。

「どうだろうね」

 美咲は目を合わさずに自販機まで歩いて行って、ソーダバーを買った。熱気を帯びた風が辺りの木々を揺らし、ざわざわと音を立て、美咲のカーキのスカートがひらひらと揺れる。

「あーんして」

「自分のがあるでしょ」

 私が口をまん丸に開けたのに対し、美咲は淡々と自分のソーダバーにかぶりつこうとする。美咲がソーダバーを口元に近づけたその時だった。薬指がキラリと星明かりを跳ね返したのは。私の目は小振りのパールがついた、細身の銀の指輪をはっきりと捉えた。さっきからの美咲の挙動が少し繋がってしまった気がする。顔を引きつらせ、口をいささか開きかけた私を、美咲はソーダバーを投げ出してきつく抱き寄せる。ソーダバーに砂利がかかったのが見えた瞬間、ふわりと巻かれた美咲の髪が視界を遮る。シャンプーの香りがうるさい。何よりも、こうやって抱きしめられると……

 表情が見えないよ。

 私はソーダバーを握ったままの右手をだらりと下ろす。顎は美咲の肩に乗っているのに、美咲の背中に腕を添わすなんてできなくて、ただ、されるまま美咲の腕の中にいた。

「好きな人……、できたんでしょ」

「……うん」

 言葉が出て来ない。なんとなく、察してはいたはずなのに。私は美咲の彼女になれない、という事実が重くのしかかる。今だけ、ヒグラシの鳴き声が妙に大きく感じられた。他に聞こえてきたのは、お互いの息遣いだけだった。

だよ……」

 反射的に私は美咲を突き放そうとするが、その手首すら掴まれる。俯いたら、ソーダバーが一滴二滴、サンダルの隙間にぽたり、と垂れた。素足から全身に冷たさが走り、毛が逆立つ。

「……なんで」

 握りしめたソーダバーの棒が手のひらに強く食い込む。気づいたら目頭が熱くなっていて、ぽろぽろと涙がこぼれていた。美咲の後ろに広がっている明かりが、ぼやけて広がっていく。

「なんで、普通の恋してんの?普通の恋ができんの?私には、美咲しかいないんだよ……!」

 言い終わるなり、私の顎がぐっと上げられ、視界に満天の星空、そして美咲が映る。人工的なソーダバーの酸味が口に流れ込んできて、はっとした。唇が、押し付けられた。思わず目を開くと、美咲のまつ毛にほの白く光るものが盛り上がっている。こんな風に触れられたかったわけじゃない。それなのに、胸が今にも弾けそうなほど高鳴っている自分が惨めで仕方なかった。でも、唇を今ここで離してしまったらもう二度と触れ合うことがない。そう確信していたからこそ、私は手を美咲の顎に添える。その時美咲の頬にも涙が伝った。

 どのくらいの時間が経っただろうか。唇がやっと離れた時、私たちは見つめ合っていた。美咲の潤んだ眸の中で私の姿が揺れている。今の気持ちをどう表せばいいのだろう。何と言えば美咲は離れていかないだろう。どうしたらこれからも二人でいられるだろう。美咲が私のことをまた好きになるわけないのに、私は雄叫びにも似つかわしい声を上げていた。

「月があっ……」

 美咲が目尻を下げ、両手を広げた束の間、私はまた美咲の腕に包まれていた。

「綺麗、でした」

 耳元で、美咲が噛みしめるように言葉を紡ぐ。背中を撫でられる手が心なしか震えていたから、私も抱き返す腕にもっと力を込める。足元に目をやると、溶け切ったソーダバーで水たまりができていた。私は棒だけになったソーダバーをぎゅっと握りしめて目を瞑り、美咲に身を預ける。そんな二人を、遠くから街明かりが包み込んでいた。

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