虎と蘭
川谷パルテノン
ショッピングモールにて
田舎の郊外に出来たモール街。四年ほどかけてようやくオープンしたそれは初日から大盛況で大勢の客で賑わっていた。老若男女に虎、虎、虎。
「虎!?」
「虎だーーーッ!」
盛況は悲鳴へと変わる。虎による一方的な殺戮。蹂躙であった。虎はなぜなら凶暴である。牙と爪と肉を喰らうというキモチがある。人は牙と爪が虎ほどではないし野菜も食べたいと思ったりする時点でキモチで負けている。人は思った。一夜の夢さね。だが現実は厳しい。虎は三頭いる。三頭、いるのだ。咆哮は空気を震わせ恐怖を植え付けた。植えられた恐怖は人々が漏らした小便ですくすく育ちやがて世界樹にまで成長する。
「おばあちゃん、怖いよ」
孫が泣いている。孫が今日という日をどれだけ楽しみにしてきたかをトミゑは知っていた。トミゑは近所の住民からトミーと呼ばれていた。齢七〇を越えて痩せ細った普通のババアだ。けれど親しみを込めて皆彼女をトミーと呼んだ。孫の涙はいつか枯れた魂に潤いを与えた。トミーは一言囁いた。
「七〇代からの基礎化粧品」
孫を泣かせる存在はすべからくエナミーである。全ては守れないことを承知しつつも孫だけは生かして帰したい。トミーは目で云った。あたしゃ、やるよ。その目は一頭を捕捉する。一方で虎は古木のような老婆など眼中にない。それよりも孫だ。なぜもこんなに可愛いのかよ。孫という名の獲物。一目散に孫へと突っ込んでくる虎。恐怖で今にも意識が飛びそうな孫は絶叫した。もうコウモリしか聞き取れないヘルツが出ていた。虎は確信した。孫の身体に食らいついた瞬間の鮮血の味。美味なり、と。刹那、虎の舌は確かに血を舐めた。孫の、否。
「先ずは一匹」
人より大きい生き物を「頭」小さい生き物を「匹」と数えるのが一般教養。あくまで「一般の」教養である。他二頭は戦慄を覚える。この家族連れで賑わったモール街に至っては我々がエイペックスプレデターだと確信していたからだ。ただの虎ではない。強者の自覚を持つ賢しい虎だ。それが一撃で沈んだ。驚嘆は警戒に変わる。ひとりの老婆が最優先抹殺対象として認識された瞬間だった。
新島トミゑ。七三歳。その若かりし頃は歌劇役者のトップスターとして一時代の栄華を極めた一人だった。芸名は
「父ちゃん、オラあの虎とやりてえ。牙と舌さ引っこ抜いてブチ◯してえ」
この後一週間、トミゑは家から出してもらえなかった。
それから月日は流れ、トミゑは舞台役者として華々しい成功をおさめ、一世を風靡した後蘭未央はまだまだこれからという時期で芸能の世界を潔く去った。その時の彼女には愛する者があり、新たな家族にも恵まれていた。人並みの幸せが彼女から虎と戦いたいという願いを薄れさせやがて老いたる身で孫と出来たばかりのショッピングモールを訪れたのである。トミゑはただ孫を助けたい一心だった。しかし一頭を駆逐した瞬間、彼女の中で何かが壊れた。常識、世間体、一般教養。そのようなものがいつか甲冑のように本能を覆っていた七十年近く前のただ虎と戦いたかった純粋な欲望が下卑た笑顔で心の隙間から覗いていた。
虎の一頭がもう一頭に飛びかかると飛びかかられた虎はぺちゃんこに潰れた。仲間割れかと思われたがそうではない。ぺちゃんこに潰れたほうの虎はまるで絨毯のような姿形になっていた。ブルジョアの象徴みたいな、虎にしてみればなんとも哀れな慰みもののようなあの絨毯である。しかし敢えての絨毯である。古来千夜一夜の物語に於いて絨毯は空を飛ぶのである。つまり絨毯虎は浮遊し飛翔するのだ。絨毯なので絨毯爆撃も出来るのだ。空飛ぶ絨毯爆撃機と化した虎はショッピングモール中に甚大な被害を与えていく。全ては老婆一人を抹殺するためである。トミゑは孫を庇って爆炎にさらされた。相手は空中高くを旋回する卑怯な戦法を取る。
「いいかい日奈子。ここから動いちゃあかんよ」
「おばあちゃん!」
「大丈夫だよ。あたしゃ元々、完璧で究極のトップスター様だからね」
嘲笑うかのように爆撃を繰り返す虎。それを見据える鋭い眼は全盛期の蘭未央その人であった。
「あたしゃ……いや、私はこの日のために生きてきたのかもしれない。ひと時も諦めずにやってきたんだ。一生を賭けた役づくり。ここで死ねるなら役者冥利に尽きるというもの。私は」
爆風が砂塵を立て蘭を覆い隠す。
「私は! 虎を狩る!」
安全圏の筈であった。勝ち確歯茎剥き出しである筈であった。砂煙の中から突如出現した威迫。それは瞬足で壁を蹴り、また壁を蹴っては徐々に空中を遊泳する自分に迫ってきていた。半壊したアーケードの屋根を蹴り上げたそれは自分の喉元目掛けて腕を突き立てたのだ。虎はわけがわからなかった。飛んでいたはずの身体が今落下している。何故だ。虎は人間より強いのではなかったか。どうして自分は負けたのか。その答えは出ぬまま虎の思考は途切れた。
「残り、一匹」
その虎は先程までの二頭とは風格からして違った。傷だらけの体躯、それが今なお四足で大地を踏みしめるところに歴史がある。蘭と虎は睨み合った。言葉はなかったがお互いの生をぶつけ合うことでどちらが強者かをわからせようとする。しかし結論は出ない。威勢、風格、生き様。どれをとってもこの時点では互角。ならばこの先は肉体言語でわからせるしかない。純粋な格闘が始まる。蘭はこの日まで凡ゆるシミュレーションを行なってきた。虎が絨毯になって飛ぶことさえも。だからこそ熟知していた。
マトモに
やり合うのが
一番ヤバい
最後の虎は自分を強烈に敵視しており小細工も持たない。ただただ殺しにきている。一つでも選択を誤れば一撃でやられるだろう。蘭は思った。自分が倒れることは全ての終わりを意味する。そうすれば孫を助けることなどほぼ不可能だ。
「私は虎と戦いたかった。だけどね、人生ってのは不思議なもんさ。今はもっと大事なものが出来た……アイドゥリムーダドゥリーミンタイゴンバーイ」
虎は突然歌い出したババアに怪訝な表情を見せた。
「ウェンホウパアズワアアイ」
虎は牙を剥き出しにして怒りを露わにする。愚弄と感じたのだ。虎なりに敵として蘭を認めていた。しかし彼女はこの決闘において突如歌などを歌い始める。舐めている。これは愚弄だ。虎は大きく吼えた。
"I dreamed a dream in time gone by
When hope was high
And life worth living
I dreamed that love would never die
I prayed that God would be forgiving
Then I was young and unafraid
And dreams were made and used and wasted
There was no ransom to be paid
No song unsung, no wine untasted"
(ミュージカル『レ・ミゼラブル』より「夢やぶれて」)
虎の猛攻を受けるので精一杯だったはずである。しかし蘭は歌うのをやめなかった。彼女は歌わねばならなかった。夢を抱き続けることの難しさを自らに聞かせねばならなかった。彼女が唯一この戦いに勝つためには虎と戦うことよりももっと大切なものがそこにあることを強く意識せねばならなかった。七十を越えて今ようやく到達出来たのだ。自分を越えた先に。
「Now life has killed the dream I dreamed(もう終わった 私が夢見た夢は)」
虎は力を失い、蘭、トミゑの身体にもたれ掛かった。三頭の虎は全てひとりの老婆に倒された。老婆はもっとも大切なものを脅威から救った。その命が今尽きかけようとも、それは守られた命からの嘆き悲しむ声であっても、彼女は舞台の幕が降りるその瞬間まで溢れんばかりの喝采を全身に浴びていた。
虎と蘭 川谷パルテノン @pefnk
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