第53話 気まずい空気(中村和美side)
今日は起きてからずっと憂鬱だ。こんな気分になったのは久しぶりかもしれない。これも全部楠川のせいだ。
「和美、早く食べないとバイトに遅れるわよ?」
「んー……」
トーストを齧りながら、お姉ちゃんの声に上の空で反応する。
「そんなに悩むなら楠川くんに謝ったらいいじゃない」
「はぁ? 何であたしが謝らないといけないのよ。悪いのは楠川なのよ」
昨日家に帰ってから、あまりにも腹が立ったのでついお姉ちゃんに愚痴ってしまった。楠川の行動とあたしの行動を全て包み隠さずに。
「でも楠川くんにも何か理由があったんじゃないの? 理由なくそういうことをする子だとは思えないけど」
「理由を聞いても、あいつはっきりしないのよ」
最初に理由を尋ねた時は莉奈がナンパされたら大変だからとか言ってた気がするけど、これは明らかに嘘だということは分かる。そんな不確定な要素なんて理由にならないし、その後すぐに「やっぱり今のお願いはなし」と否定しているから。次に尋ねた時には「まぁ……ちょっと」と濁す始末だし。挙句の果てには莉奈を強引に連れて行こうとするわで、楠川が何を考えているのか、何がしたいのか理解できなかった。
「何か言いにくい理由でもあったのかしらね」
「言いにくい理由って何よ?」
「それは私に聞かれてもわからないわよ。とにかく楠川くんともう一回ちゃんと話してあげたら? 和美もビンタしたことを悪いと思ってるから悩んでるんでしょ?」
「そりゃあ全く思ってないことは……ないけど……」
咄嗟のことだったからあたしもついカッとなって叩いちゃったけど、でもやっぱり許せなかった。注意しても聞かなかったこともそうだし、好きな相手に何をしてるんだって話よ。
それに何が一番腹立つかって、莉奈とコンビニに行ってから戻ってみれば楠川はどっかに行っちゃってるし、その日に謝罪でもあるかと思ったけど謝罪もない。思い出すだけでもイライラしてくる。そんな奴と今日バイトで顔を合わせないといけないなんて考えただけで憂鬱になる。
店長と栞さんには申し訳ないけど、正直今日のバイトは休みたい気分だわ。
「けど、あたしは楠川からまず謝罪がない内は口も利きたくないわよ」
「お菓子のお兄ちゃんの悪口を言ったらダメっ」
穂花があたしの背中にくっついてきて頭をポカポカと叩いてくる。
「穂花、これは悪口じゃないの。優しさが足りない楠川に対する罰なのよ」
「お菓子のお兄ちゃんは今のままでも優しいもん。お姉ちゃんがぼーりょくしたから悪いの。ぼーりょくするお姉ちゃんはゴリラ女」
「ちょっ、穂花! そんな言葉どこで覚えたの!?」
「ケーキのお兄ちゃんが言ってた」
大塚か! あいつ、明後日の海でシバいてやるわ。
「そんな言葉忘れなさい」
後に手を回して穂花を捕まえようとするも、ヒョイっと避けられ楽しそうにキャッキャッと逃げ回る。
「ゴリラ女、ゴリラ女」
「そんな言葉を使う悪い子は、捕まえてお仕置きが必要かしらね?」
「きゃー、ママー」
「穂花、和美をゴリラ女だなんて呼び方をしたら駄目よ? でもそうね~楠川くんと和美が仲直りしたらもうその呼び方をしないって約束しましょうか」
「する! お姉ちゃんとお菓子のお兄ちゃんが仲直りしたらもう呼ばない」
「ぐっ……ちょっとお姉ちゃん! 穂花を利用するのは卑怯よ」
「こうでもしないと、和美は自分から行かないでしょ? 別に和美から謝りなさいって言ってるわけじゃないのよ? 楠川くんが話しやすい状況を作ってあげなさいって言ってるの」
「だから何であたしがそこまでしてあげないといけないのよ」
昨日の感じからして確かに楠川の方からあたしに話しかけづらいとは思う。でもそれはあたしだって同じだ。あたしの場合は話しかけづらいというよりも、話をしたくない。楠川は自分で自分の首を絞めたのだ。それによって生じた結果の尻拭いを自分でできないような男に莉奈を好きになる資格はない。
「明後日はみんなで海でしょ? このままじゃせっかくの海も楽しめないわよ?」
「別に楠川以外の人とは楽しめるわよ」
「まったく……和美は強情ね」
「ごーじょーゴリラ女」
「あーもう! わかったわよ! やれるだけやってみるわよ」
あたしはつくづく穂花には甘い。あの純真無垢の前ではさすがのあたしでも勝てないのだ。ホント、子供ってずるい。あたしにもあんな頃があったんだろうか? 今のあたしからは想像ができないな。
自転車を漕ぐ足もやはりいつもより重く感じる。平らな道なのに坂道を登っているような感覚。それでもバイトに遅刻するわけにはいかないので、頑張って漕ぐ。
ホテルに着くといつも自転車を停める所には既に楠川の自転車が置いてあった。
「ふぅ……」
心の底から溜息が出た。事務所に行けば楠川が居る。結果的に楠川とあんな別れ方になった手前、あたしが入って行ったらあいつは一体どんな顔をするだろう。もうこの際どんな顔をしようと、とりあえず楠川からすぐに「昨日はごめん」という謝罪があればまぁ話を聞いてやらないこともない。
事務所へと向かい、入り口のドアを開けて中に入る。
「おはようございまーす」
なるべくいつも通りを装い、挨拶をする。そして階段を上がって行くと、こちらには背を向けた状態でテーブルの前に立っている楠川の姿が見えた。
「中村さんもおはようさん」
「和美ちゃんおはよう」
「はい、おはようございます」
店長と栞さんが挨拶をしてきたので、もう一度挨拶を交わす。
すると、あたしがすぐ後ろにいることに気が付いた楠川が身体を捻り、まるで道を開けるような動きで避けてから――
「お、おはよう……」
そんなか細い声であたしに挨拶をしてきた。必死に視線を合わせようとしているけど、目が泳ぎまくっていて全然合わない。
そんなことよりも楠川の顔に絆創膏が貼ってあるのが目に入った。右のこめかみと口の右下の二ヵ所。
(なによそれ、絆創膏なんか貼って……そこまで強く叩いたつもりないんだけど。あたしへの当てつけ?)
お姉ちゃんと穂花に「やれるだけのことはやる」と約束したけど、何だかもうどうでもよくなってしまった。楠川が話をしやすいようにあたしから何かをしてあげるなんて一切しない。
ロッカーに荷物を置き、テーブルの椅子に座って携帯を取り出す。
楠川もロッカーに荷物を置き、椅子に座ってきた。
「…………」
「…………」
(何なのこの居心地の悪さ)
一刻も早く、この空間から離れたい衝動に駆られてしまった。まだ掃除をしている方が数百倍気が楽だ。というか身体を動かしていた方が、色々考えなくて済む。
(さっさと掃除部屋に行こっと)
「二人ともアイスティーでもいかが?」
動こうと思ったところで、栞さんが紅茶の入ったコップを置いてくれた。
「ありがとうございます」
何とも微妙に悪いタイミングで持ってこられてしまったけど、せっかくなので頂くことにする。しかし、ゆっくり味わっている場合でもない。一気に紅茶を飲み干すと携帯をテーブルに置き席を立つ。
「店長、あたし剥ぎに行ってきますね」
「おう、よろしく」
店長の前にあるパソコンで掃除部屋の数を確認する。
(今日は掃除部屋が七部屋あるわね。いつもなら多いって思うところだけど、今日はありがたい気がするわ。部屋の掃除が終わったら、たまには外の掃き掃除でもしようかしら。そういえば一階に畳んでないシーツもあったわね。とにかくじっとしている時間をなるべく作らないようにするわよ)
やる仕事をどんどん頭に入れてから、荷物を持って掃除部屋へと向かう。
考える暇など与えずに、あたしはただひたすらに身体を動かしていった。
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