第52話 気まずい空気



「おはようございます」


「おう、楠川君。おはようさん」


 色々あった昨日から一夜明けて、今日は朝からバイトが入っていた。


 出勤すると珍しくパソコン机の前に店長さんの姿があった。ということは夜中の勤務は誰か別の人と変わったのだろう。


「って、その顔はどうしたんだァ? えらく痛々しいことになってるじゃねぇか。何かあったのかァ?」


 俺の顔の絆創膏に気付いた店長さんが身体の向きをこちらに向けてきた。


 今俺の顔は右のこめかみと口の右下に絆創膏を貼り、左頬にはうっすらと痣ができているという状況だ。顔以外にも足や、腹にも軽く痣ができているのだが、これは服の下に隠れて見えない。昨日のお風呂の時には痣なんてなかったと思うが、一晩で出てきたのだろう。着替える時に発見してしまった。顔の絆創膏は貼っていようと貼ってなかろうと傷がある時点でどうせすぐにバレてしまうので、それなら傷口を見せるよりは隠している方がいいだろうと思い絆創膏を貼った。


「いやーちょっと階段から転げ落ちてしまいましてね」


 正直に絡まれたなんて言うと、なんか話が膨らんではいけないので無難な理由をつけておく。


 店長さんとの話し声が聞こえたのか、キッチンの方から佐々木さんも顔を覗かせてきた。


「あらー楠川君、凄く痛そうじゃない。見てるこっちまで痛くなってきそうね」


「何かすいません、ドジなもので。いやー転んだ時は参りましたよ……あはは」


「おはようございまーす」


 俺が事務所に入ってから数分後、一階の事務所入り口から中村さんの声が聞こえてきた。その声に肩がピクリと反応する。昨日の一件以来の初顔合わせに、心臓の鼓動が早くなる。階段を上がってくる足音で更に加速していく。正直、顔を見るのが怖過ぎる。


「中村さんもおはようさん」


「和美ちゃんおはよう」


「はい、おはようございます」


 店長さんと佐々木さんに挨拶をする中村さん。声は今までと変わらない普通の声である。


「お、おはよう……」


 なんとか言葉を縛り出したような声量で俺も中村さんに挨拶をする。俺の言葉に中村さんは一瞥くれた後、無言のままロッカーの方へ行ってしまった。分かっていたことだが、やはりまだ怒っているようだ。こういうことは文字での謝罪ではなく、ちゃんと直接言葉での謝罪ではないと駄目だと思っているのでまだ謝罪は済んでいない。朝倉さんへの謝罪もまだだ。


 荷物を置いて戻ってきた中村さんは、テーブルに座ると携帯を操作し始めた。


 俺も荷物をロッカーに入れ、テーブルの椅子に腰を下ろす。


「…………」


「…………」


 今この空間に俺と中村さんの二人しかいないという訳ではないのに、凄く居心地が悪い。俺がきっと意識し過ぎているからそう感じるだけだというのは理解しているのだ。潔く俺が悪かったと、申し訳なかったと謝罪すれば少しは気持ちは軽くなるだろうに。だが、今この場に店長さんや佐々木さんがいる状況でそんな行動をする勇気はない。


 なにより、さっきのやり取りで明らかに取り付く島もない雰囲気だった。あの挨拶だって例えるなら、歯磨き粉のチューブをこれでもかというぐらいに丸め、渾身の力を使って指で押し出した結果爪の垢程度の量が出たみたいな、そんな俺の魂の挨拶だったのだ。中村さんからの一瞥という反応を受け、すっかり萎縮してしまった。

もう身体も条件反射のように、中村さんに対して九十度の姿勢をとってしまっている。


「二人ともアイスティーでもいかが?」


 キッチンから両手に紅茶が入ったコップを持った佐々木さんがやってきて俺と中村さんの前に置いてくれる。


「ありがとうございます」


「あ、ありがとう……ございます」


 もうこれ以上この空間にいるのは耐えられない。アイスティーを一気飲みしてから剥ぎの作業をしに行こう。


 俺はコップを手に取り、喉に一気に流し込む。そして立とうとした瞬間、俺より一足早く中村さんが携帯をテーブルに置いて席を立った。


「店長、あたし剥ぎに行ってきますね」


「おう、よろしく」


 パソコンで掃除部屋の数を確認してから、そのままスタスタと階段を下りて出て行く中村さん。その数十秒後、俺も剥ぎに行こうと席を立ち、階段を下りようとしたところで――


「ねぇ楠川君、和美ちゃんと喧嘩でもした?」


 佐々木さんから声を掛けられた。


「え、何でですか?」

 

「もし違ってたらごめんなさいね。何かいつもの二人の雰囲気じゃないというか、空気が重いのよね」


「つうかよぉ、さっきの二人のやり取りで誰が見ても何かあったような感じだっただろ? それが喧嘩なのかは知らねぇがな」


 店長さんも会話に入ってきた。


「俺ァお前らと一緒に仕事することが少ないから、いつもどんな雰囲気なのかは知らねぇが、栞がそう言うんならいつもとは違うんだろ。せっかくの若い人材がそんなんじゃあ、俺らも楽しく仕事ができねぇぜ」


「はい、すいません。まぁ……喧嘩というか……昨日、俺が中村さんの機嫌を損ねてしまったんですよ……でもそれは俺が完全に悪いんですけどね」


「それでまだ謝れてねぇのか?」


「はい、まだですね」


「こういうのは遅くなれば遅くなるほど良くねぇからなァ。楠川君が完全に自分に非があるって思ってるんなら、腹ァ括って全力で謝るしかねぇぞ」


 それは百も承知である。というか今日か明日にでも謝れなかったら明後日のみんなで海に行くイベントが台無しになってしまう。


「オーナーは簡単に言うわね。楠川君だってそのくらいはちゃんと分かってるわよ。でも謝るのも勇気がいるから、なかなか一歩が踏み出せないんじゃないかしら。だいたいオーナーも昔は謝るの苦手だったでしょ? 物で私のご機嫌を取ろうとしてそのついでに謝ろうとしてたくせに」


「十年以上前の話を持ち出すんじゃねぇよ。今はちゃんと謝ってるだろうが」


「だから当時のオーナーよりもまだ若い楠川君はもっと大変ってことよ。慣れてくれば自然に口から出てくるようになるけど、若い頃はどうしてもきっかけがないと謝れなかったりするわよね」


「でも、明後日にみんなで海に行くことになってるんですよ。だからそれまでにはちゃんと謝っておかないと、せっかくの楽しい雰囲気を壊してしまいそうで」


「焦っても良い結果にはならないわよ。和美ちゃんとの喧嘩が昨日の今日なら、お互い冷静になる時間も必要だわ」


 確かに佐々木さんの言う通りだ。今回のことだって俺が功を焦ったばかりに招いた結果だ。俺がもう少し冷静に考えていれば他に良い方法があったかもしれないのだ。そして俺はまた気持ちが焦ってしまっている。これでは同じことの繰り返しだ。


「それに明後日海に行くなら、私はその時に謝ったのでも遅くないと思うわね。むしろ空けた時間的にも、謝るきっかけの場所としてもベストなんじゃないかしら」


「そうですね、分かりました。今は俺も気持ちを落ち着かせることに専念します。それで明後日にちゃんと中村さんに謝罪できるように考えておきます」


 もちろん朝倉さんにもちゃんと謝ろう。むしろ一番申し訳ない事をしてしまったのは朝倉さんの方だ。嫌な思いを、痛い思いをさせてしまった。こんなことでは、どの口が好きだとほざいてるんだって話だ。


「ありがとうございました。じゃあ俺も剥ぎに行ってきます」


「お願いね。それと頑張ってね。勤務中の和美ちゃんの相手はオーナーと私に任せておきなさい」


「やれやれ、栞においしい所を持っていかれちまったなァ」


 店長さんと佐々木さんに話を聞いてもらったことで、気持ちが少しは軽くなった。

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