第38話 バイト初出勤 ②



「どうもありがとうございました!」


 俺は室内に向かって深々と頭を下げると、そのまま扉をスーっと閉めた。ふぅ……実に良い社会勉強になった。もうラブホについて学ぶことは何もない。今この瞬間、俺は極めたのだ。これで今日から俺はラブホマスターを名乗っていいだろう。免許皆伝である。さて帰って祝杯といこうではないか。


「何逃げようとしてんの」


 現実逃避していた俺は扉の向こうから伸びてきた手に肩を掴まれ、ホラー映像よろしく俺の身体は部屋の中に吸い込まれた。


「いやいやいや、何だよこの惨状は。俺ですらここまで散らかしたことないわ」


 部屋の中は目も当てられないぐらいの状態になっていた。テーブルの上には酒の缶やジュースの缶が大量に置かれ、広げられたスナック菓子や珍味の袋は中身がまだ残っていた。ベッドはシーツがぐしゃぐしゃ、ベッドの横に枕と掛け布団が落下、ソファにはバスタオルやバスローブが乱雑に投げられ、テレビのリモコンも転がっていた。ベッドとソファの周囲に部屋のスリッパが散らばっている。


 そして洗面台。ホテルの備品と思われる開封されたヘアゴムに歯ブラシのセットとうがいのコップ、それらが入っていたであろう袋が置かれている。


 この光景を見て思うことは、とりあえずゴミはゴミ箱にちゃんと入れろよ! 食べ物を粗末にするなよ! なんかもう綺麗にまとめとけよ! である。とにかく汚いのである。


「こんなんでも、三人でやればあっという間に終わるわよ」


「そうなのか?」


「栞さんのベッドメイキングなんてマジでヤバイから。速すぎて最初の頃は何が起きたのか全然わからなかったわ」


「それは褒め過ぎよ。和美ちゃんだってだいぶ慣れてきたじゃない」


「いえいえ、あたしなんてまだまだですよ」


「こっちは私と和美ちゃんでやるから、楠川君はお風呂とトイレの掃除をお願いできるかしら?」


「わかりました。えっと、洗剤とかスポンジはどこでしょうか?」


「あ! ごめんなさい、ちょっと取りに行ってくるわね。道具がある場所はまた教えるから」


 そう言って佐々木さんは外に道具を取りに行ってしまった。


「楠川、今の内に浴室の窓を開けて中のゴミを集めといて」


「まだゴミがあるのかよ……」


 洗面台のゴミ箱からポリ袋を外し、入り口が開け放たれていた浴室の中を覗こうとバスマットを踏んだ瞬間――


「冷たっ!」


 バスマットはびしょ濡れ状態であった。おかげで右足の靴下が濡れてしまい、気持ち悪い感触が足裏全体に伝わる。


 靴下を脱いで、浴室に入ると浴槽の縁に入浴剤の袋が、鏡の下に付けられた白い横長の台の上に髭剃りとボディスポンジとそれらの袋が置いてあった。壁と天井は水滴だらけ。もう心はげんなりである。


「楠川君、これで掃除をお願いね。浴槽とタイルとシャワーチェア、壁と鏡を洗剤で洗って、水を流した後に乾いたタオルで水気を拭き取ってね。とりあえずお風呂の掃除が終わったら声を掛けてくれるかしら?」


「はい」


 佐々木さんから掃除道具を受け取る。小さいカゴの中にお風呂とトイレの掃除道具が入っていた。ゴミを集めてから、スポンジにお風呂用洗剤をつけて隅々まで擦っていく。一人暮らしをしていた時も掃除をしていたので、このくらいは朝飯前である。指示された通りの作業をこなし、お風呂掃除を完了した。


「お風呂の掃除終わりました」


 浴室から出て部屋の中を見ると、そこには変貌を遂げた空間が広がっていた。


 何ということでしょう。ぐしゃぐしゃだったベッドは綺麗に整えられ、掛け布団の足元側に細長い布が掛けてあった。この布はベッドスローと言うらしい。テーブルの上は綺麗に片付けられ、リモコン類や灰皿、メニュー表やホテルの案内表などが並べられている。集められたゴミは袋ごとにきちんと分別されていた。


 佐々木さんは洗面台の掃除を、中村さんは床に掃除機をかけている最中だった。


「楠川君、お風呂の掃除終わったのね。じゃあトイレの中と便座を綺麗にして、床はお風呂の水気を拭くのに使ったタオルで拭いてもらったらいいわ。トイレットペーパーは三角折りにしてもらえるかしら。できそう?」


「任せて下さい」


 トイレの掃除も指示された通りに作業し、あっという間に完了した。


 俺がトイレの掃除を終えた時には、中村さんが仕上げのコロコロを、佐々木さんは各場所の備品を補充する作業を行っており、気づけば部屋の中が営業できる状態になっていた。この短時間で入室時のあの汚部屋からここまで綺麗な空間に変わるとは見事なビフォア―アフターである。軽く感動すら覚える。


「……すげー」


「ふふん、どうよ」


「いやー恐れ入ったな。さすが佐々木さんだ。お掃除のプロ! ――痛っ!」


 中村さんに尻を蹴られた。


「あっ、栞さんごめんなさい。ここにまだ大きなゴミが残ってました。このコロコロでくっつくかしら? 変ね、全然くっつかないわ」


「ちょっ、やめろ! 悪かった、冗談だって」


 俺の足に向けて何度もコロコロをぶつけてくる。


「ふふっ、二人とも仲が良いわね」


「全然そんなことないです。楠川は変態なので栞さんも気を付けて下さい」


「おい! 滅多なこと言うんじゃない! 誤解されるだろ」


「はいはい、喧嘩はそこまでにして次に行くわよ」


 残りの掃除部屋を終わらせる為部屋の移動を開始した。その際、交換したベッドのシーツや掛け布団と枕カバー等、寝具関係の物やお風呂関係の物、分別したゴミを一緒に持って降りる。これらは敷地内のとある場所に持っていき、分別したゴミを入れるポリバケツ、リネンを入れる袋がそれぞれ細かく分けてある。ゴミもリネンもある程度溜まったら業者が回収してくれるそうだ。


 そして残りの二つの掃除部屋は佐々木さんが剥ぎという作業を行ってくれていた為、最初の掃除部屋よりもさらに短時間で終わらすことができた。剥ぎは、寝具関係の物やお風呂関係の物、ゴミ等を予め全て回収し余分な工程を減らす作業であり、これをやるのとやらないのとでは、作業効率が格段に違うとのこと。


 全ての掃除部屋を終わらせ事務所に戻る。時刻は十九時三十分を回っていたので夕食を食べることにした。三人がコンビニで買った弁当をテーブルに並べる。


「二人とも冷蔵庫に麦茶があるけど飲む?」


「いります」


「あ、お願いします」


 佐々木さんが冷蔵庫から麦茶の入ったポットとコップを三つ持って来てくれた。


「あれからお客入ってきませんね」


「暇な時はこんなものかしら。初日から忙しいよりはこのぐらいの方が楠川君も丁度いいでしょ?」


「そうですね。まぁでもあんまり暇過ぎても逆に落ち着かないと言いますか……適度が良いですね」


 暇過ぎると時間が経つのが遅く感じるので、正直苦手である。


「やることならいっぱいあるわよ。シーツやタオルをたたんだり、掃除の時に使うカゴを準備をしたり、備品の補充をしたり色々ね」


「ご飯を食べ終わったら和美ちゃんに教わりながら一緒にやるといいわ。若いんだしすぐ覚えれるわよ」


 プルルルル


突然、事務所の電話が鳴り、佐々木さんが受話器を取る。


「はい、フロントです。はい……肉うどんが一つ、デミハンバーグが一つ、飲み物がコーラとジンジャーエールですね。かしこまりました」


 どうやら、食事の注文らしい。中村さんは佐々木さんが肉うどんと言った時点で席を立ちキッチンの方へ向かって行った。俺も手伝いに席を立つ。


「デミハンバーグとコーラとジンジャーエールもだってさ」


「聞こえてたわよ」


「何か手伝おうか?」


「今日はいいわよ。あたしがやるのを見てなさい」


 そう言うと中村さんはキッチンの中央にある台の上に大きめのお盆を置き、割り箸とストローとお皿を並べていく。ガスコンロの上には二つの鍋が火にかけてあり、一つの鍋には冷凍のハンバーグが湯煎してあった。冷蔵庫から予め千切りされたキャベツの入ったタッパーとミニトマトを出し、お皿に盛り付けキャベツにドレッシングをかける。そして小さめのカップにご飯を入れ、キャベツの横にご飯の山を作るとその上にパセリを振りかけた。それが終わるともう一つの鍋に冷凍のうどんを投入していく。


 うどんがほぐれたところで、ハンバーグを箸で押さえ柔らかくなったかどうか確認すると、その二つをそれぞれのお皿に盛りつけていく。うどんの方にはネギを少々追加していた。最後に冷蔵庫から冷えたグラスを取り出し氷を入れ、冷蔵庫の横のドリンクサーバーからコーラとジンジャーエールを注いでいく。飲み物と食事にラップをかけると中村さん一人で注文のメニューを完成させてしまった。なんという手際の良さだ。


「はい一丁上がりっと。これどこの部屋ですか?」


「二〇七号の部屋にお願い」


「はーい、行ってきます」


 中村さんは食事を持って外に出て行った。ホントに出番がなかったな……。


 その後も特に忙しくなることはなく、中村さんに雑用を教わったり、間で二つ掃除部屋が出たぐらいで二十二時に俺と中村さんはバイト終了となった。まぁ初日はこんなもんだろう。





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