第37話 バイト初出勤 ①
『へぇ~楠川君もバイト始めたんだぁ~』
明日のバイト初出勤を控えた前日の夜、良い話題になると思い朝倉さんに電話をかけた。ただでさえ学校が違うし、家が離れていて頻繁に会えるわけではないこの状況。こういう小さなことでも日々の積み重ねが大事なのだ。いっそのこと朝倉さんも一緒にバイトしてくれたら嬉しいのだが。
『そうなんだよ。中村さんに頼まれちゃってさ。しかもバイト先の店長さんがもの凄く見た目が怖いんだよ。最初見た時はビビったね』
『あはは。その店長さんの話は和美から聞いたよ。でも性格は凄く優しいって言ってたよ』
『それ! マジでギャップが凄いから。今のホテルの借金がなくなったらホテルを壊して介護施設を作るらしくてさ。凄いよなぁ』
『ねー。どんな店長さんなのか見てみたいかも。二人が働いてるホテルなら今度遊びに行ってみようかな。友華を連れてもちろんお客さんとしてね』
『もう全然いいよ。朝倉さんなら大歓迎だよ』
朝倉さんが来てくれたら仕事のやる気も上がるだろう。
『あ、楠川君。和美とバイトが一緒だからって変な事したら駄目だよ?』
『もちろん絶対しないよ! 俺には心に決めた人がいるんだから』
『そういえば好きな人がいるって言ってたね。じゃあ尚更その子の為にも気をつけないと。軽い男は嫌われちゃうぞ』
何事も焦りは禁物なのだが、早くこの朝倉さんへの溢れんばかりの想いを本人に伝えたい。トントン拍子に事が運べばそれが一番良い。だがそうならないのが恋愛なのだ。痛いほど経験していることである。片思いは辛い、楽しくもあるがやはり辛い。
『じゃあ楠川君、明日バイト頑張ってね。おやすみ』
『うん、頑張るよ。おやすみ』
今はまだこの関係を維持するぐらいしかできないのだから。
「くっすー、一緒に帰ろうぜ」
放課後、帰り支度を済ませた太一が俺の席にやってきた。
「悪い太一、今日は俺は用事があるんだ」
「くっすーが放課後に用事があるなんて珍しいな。何だよ用事って?」
「あー実は俺今からバ――」
言いかけて言葉を飲み込んだ。
危ない危ない。もうね、ここまでくるとさすがの俺も学習しますよ、はい。ここで俺がバイトを始めたなんて言ったら、そこから質問攻めに遭うのは百も承知だ。どこでバイトをしているのか、何で急に始めたのかという質問から始まり、最終的に俺が中村さんとラブホでバイトをすることになったことがバレてしまうみたいな展開になるのがオチなのだ。その結果、また太一から酷い事をされるに違いない。
以前、朝倉さんと中村さんと三人で喫茶店に行ったというだけで、吊り天井固めの刑に処された。もし中村さんとラブホでバイトをするということがバレたら、次は骨の数本は確実にもっていかれるレベルのことをされるだろう。
ここは適当な用事でも言って、太一の口から「それならしょうがねーな」と言わせてしまえばいいのだ。さて何の用事だと説明しようか。
「バ? バ――なんだよ?」
言いかけたせいで〝バ〟の縛りができてしまっていた。さっそく言葉が限定される羽目に。
えっ、〝バ〟から始まる用事って何だ? 考えても急には出て来ないんだけど。何がある? とりあえず何でもいいから〝バ〟がつく言葉を言わなくては。
「バ……バームクーヘン……を食べに行こうと思ってな」
「おいおい、一人でバームクーヘン食いに行くとか水くせぇぞくっすー。だったら一緒に行こうぜ」
マズイ! 何とか絞り出した言葉なのに、この用事では太一が同行しようとしている。ついて来られたら厄介だ。他には何かないか……つかここにきて何で〝バ〟縛りの言葉遊びをしなくてはいけないのか。早くしないとバイトに遅刻してしまう。初日から遅刻とか洒落にならない。
「あ、いや間違えた。ホントはバーリトゥードを習いに行くんだ」
「どうやったらバームクーヘンとバーリトゥードを間違えるんだ? つか間違えたって何だ? さてはくっすー何か隠してるだろ?」
結局こうなる! あーもう、時間がない!
「とにかく今日はホント用事があるんだよ。またその内ちゃんと話すから今日は一人で帰ってくれ。じゃあな」
「あ、おい!」
俺は太一から逃げるように学校を後にした。
道中コンビニで晩御飯を購入し、駅で中村さんと合流してからいざバイト先のホテルへ向かう。
「「お疲れ様です」」
「お疲れ様二人とも、今日は暇そうよ」
ホテルに到着し事務所へ上がると、店長さんの定位置には佐々木さんが座っていた。俺と中村さんはタイムカードを押して、各自バイト用の服装に着替えてからテーブルの椅子に座った。タイムカードはラックの中に俺と中村さんのカードを含め八枚入っていた。俺と中村さんと店長さん、佐々木さんの分を除いて後四人まだ会ってない職員がいるようだ。
「今日は店長さんはいないんですか?」
「深夜〇時に出勤してくるわよ。オーナーは基本的に深夜の業務だから」
「今日は今のところ掃除部屋が三つだけね。ラッキーだわ」
中村さんがパソコンを覗きながら呟く。俺も後からパソコンを覗くと画面には二〇一、二〇二、二〇三と数字が順番に書かれた四角が一六個表示されていた。その内黄色に塗られた数字が三つと、青色に塗られた数字が三つ、残りは全て無色になっている。
「この画面に映ってるのは部屋の番号なのか?」
「そうよ。黄色は休憩している部屋、青色は掃除部屋、無色は空室ってこと」
「掃除部屋の二部屋はシーツの剥ぎが終わってるんだけど、一部屋だけ剥ぐ前に食事の注文が入っちゃってまだ全然手がつけれてないの。後で三人でやりましょ。それまで二人とも休んでていいわよ、コーヒーか紅茶でも飲む?」
「あたし紅茶で」
「じゃあコーヒーをお願いします」
テーブルに座ってくつろいでいると突然、事務所内にピンポーンという音が響いた。来客かと思い俺が階段下の方に視線をやると、中村さんがモニターの方を指差していた。
「車が入ってきたら鳴るようになってるのよ」
「へーなるほど」
敷地内に入ってきた車がとある部屋の駐車場に車を駐めると、一組の男女が車から降りて来た。そしてそのまま部屋に入っていった。部屋のドアが開いたと同時に、パソコンの二〇七号が黄色く変わる。なるほどなるほど、なんとなく把握した。これで現在、休憩中の部屋が三部屋から四部屋に増えたということだ。
「はい、紅茶とコーヒーどうぞ」
佐々木さんが俺と中村さんの前にそれぞれコーヒーと紅茶を置いてくれた。
「テーブルの上のお菓子も適当につまんでいいからね」
「あ、ありがとうございます」
こんなのんびりとした仕事は初めてだ。しかもお菓子を食べていいとか至れり尽くせりである。世の中まだまだ俺の知らない仕事がいっぱいあるなぁ。
佐々木さんも自分のコーヒーを持って店長席へ移動する。
「平日のお客さんの入りはだいたいこんな感じなんですか?」
「日によって入りは違うわね。それに時間帯でも変わってくるかな。今日は今のところ普通より少ない感じかしら」
現時点での三つの掃除部屋の掃除が終わって、お客さんが入って来なかったらまぁ暇になるわな。そう考えると確かに少ないのかもしれない。
「この平日の客数で慣れてたら、あんた土日でビックリするわよ?」
「え、そんなに違うの?」
「天と地ほどの差があるわ。まぁ口で言うよりは実際に経験した方がより実感できるわね」
「じゃあそろそろお掃除に行こうかしらね」
佐々木さんと中村さんの後を付いて階段を降りる。一階で中村さんはシーツやタオル等が入ったカゴを持ち、佐々木さんは黒い鞄とコロコロ(正式名称は粘着カーペットクリーナー)と掃除機を持って外に出た。
そのまま向かった部屋は二一六号という掃除部屋だ。扉を開けて入り口で靴を脱いでから階段を上がって行く。
ふむ、今まさに人生初のラブホの部屋に入ろうとしている。しかも女性二人と。だがまぁ当然と言えば当然なのだが、全くドキドキしない。掃除に来たのだから当たり前である。やはりムードって大事なんだな。
階段を上がりきったところでもう一つ扉があった。佐々木さんと、中村さんが先に入り俺も後に続く。さぁ、一体どんな部屋になっているのか。
「失礼しま――――――汚ねっ!!!」
部屋の中の凄まじい光景を目の当たりにし、つい反射的にそんな言葉が出てしまった。
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