第18話 自覚



 かれこれどのくらい湯船に浸かっているだろう。目を閉じて、身体を脱力させ全体重を浴槽に預ける。決して朝倉さんが浸かった後の残り湯を堪能しているわけではない。ただただ無になっている。無になろうとしている。だが、油断すると朝倉さんの言葉が脳内に再生されるのだ。


『私たちもう会わないようにしよう』


 この言葉が酷く胸に突き刺さった。もう会えない……今日が最後? でもその方が良いのか? 朝倉さんを何とか今の状況から救ってあげたい。あの二人から守ってあげたい。その為にできることはないのか? どうすればいい?


 思考は働いているが考えがまとまらない。永遠と同じ自問自答を繰り返しているようなそんな感覚だった。


 だが、さすがにそろそろ上がらないとのぼせて倒れてしまう。風呂から上がれば俺は今日は両親の寝室で一緒に寝て、朝倉さんには俺のベッドを使ってもらう。朝になったら母さんが駅まで朝倉さんを送るだろうから、俺が起きた時には朝倉さんはもういない。となれば寝るまでのわずかな時間が、俺が朝倉さんと過ごす最後の時間となるのだ。


 俺は浴槽から上がり、身体を拭き、寝間着に着替える。この一連の動作すら気分の落ちた身体には荷が重かった。自分の部屋に続く階段を上る足取りも、まるで足首に重りがついているかのような錯覚に陥るほど重い。


 自分の部屋に到着しドアを開ける。


「おかえり、凄く長風呂だったね。倒れてるんじゃないかと心配してたよ」


 部屋に入ると、朝倉さんは俺のベッドに座っていた。寝間着は母さんのを借りたようで、母さんが着ると年相応に見える寝間着も朝倉さんが着用することで寝間着の質が変わったように見える。心なしか寝間着も嬉しそうだ。


「ちょっと考え事をしてたか……ら?」


 朝倉さんから視線を外したところで、俺は床にあるものを発見した。


「えっと……これね、楠川君がお風呂に行ってる間に、楠川君のお母さんが敷いていったよ」


 固まっている俺を見て俺の思考を読んだのか、朝倉さんが説明してくれた。


 俺は急いで両親の寝ている寝室に行き、ドアを開けようした。


 あれ? おかしい! 開かないんだけど! 手前に引っ張って開くタイプの開き戸だったハズだけど! ドアをノックするも中からの反応はない。母さんめ、朝倉さんを泊まらせるのは何だか反対そうな感じを出しておいて、いざ泊まったらこれか。


 俺は部屋に戻りせっせと布団を畳んでから両手で抱える。


「あー俺、一階で寝るから。とりあえず布団を持って降りてくるわ」


 そう言って部屋を出ようとしたところで、朝倉さんが俺の寝間着の裾を掴んできた。


「私は気にしないから……ここで寝てもいいよ……」


「いや、でもさすがにそれは……」


「今日が最後なんだよ?」


 俺はその言葉に再び胸の奥が痛んだ。そうだ、最後なんだ。だったら最後くらい一分でも一秒でも長く一緒の空間に居たい。一緒の時間を過ごしたい。


 俺は布団を床に敷き直しその上に座った。


「ねぇ楠川君、お風呂で何を考えてたの?」


「どうにかして今日が最後にならずに済む方法がないか考えてた。でもどうしたらいいか分からない」


「そっか、でも考えてくれてたんだね。ありがとう。私もね楠川君がお風呂に行ってる間ずっと考えてたんだけど、良い考えが見つからなかったんだ」


「俺思ったんだけどさ、あいつら来年で卒業だろ? だったらもう付きまとわれることもなくなるんじゃないのか?」


「そうだと良いけど……そればっかりは分からないかな。卒業してからもずっと付きまとってくるかもしれないし、いつかは終わるかもしれない……でもその終わる日がいつ来るかも分からない。だからそれまでは一人で頑張るしかないんだよ。これ以上誰も傷ついてほしくない」


「人の心配してる場合かよ……朝倉さんが一番危ないんだぞ? 今日のこともあるし、明日学校に行ったら何されるか」


 あの男達と同じ学校というだけでもヤバい環境なのに、今日のことがあった次の日ともなれば、朝倉さんがどんな酷い目に遭うか心配で堪らない。


「それは多分大丈夫かな。あの人たちはとりあえず私がクラスで酷い目に遭ってればそれで良いんだと思う。そして心を折って諦めさせようとしてるんだと思う」


「なんであいつらにそこまでする権利があるんだよ」


「ホントにね。何で私なんだろって思っちゃう。私より良い女の子いっぱい居ると思うのに」


「そんなことないよ。朝倉さんは可愛いし性格も良いし、少なくとも俺が今まで出会ってきた女の子で一番良い」


「――っ!? な、なんか素直に褒めてくれるようになったね」


 足の指をモジモジとさせながら照れる朝倉さん。


「なんか気づいたら口から出てた。自分でも驚いてる」


 ホントに自分でもビックリしている。心の中で思うことはあったが、まさか直接言葉にしてしまうとは思わなかった。


「あはは、なにそれ。じゃあもう遅いし寝よっか」


「そう……だな」


 俺は布団に横になり、朝倉さんは俺のベッドに横になった。しばらくの静寂。


「楠川君……もう寝た?」


「寝れるかよ。というか寝たくない……朝起きたら朝倉さんが居ないって思ったら寝るのが怖い」


「ホントに……素直になったんだね」


 すると、朝倉さんはベッドから降り俺の布団にモゾモゾと忍び込んできた。そして俺の背中に額を当ててくる。


「私もね、朝が来るのが怖いの。楠川君ともう会えないって……考えただけで辛くて悲しくて……寂しくて……だからね、これは私のわがまま。もう会わないって言ったけど、年内のある一日だけ会ってほしい日があるの。それまで私頑張るから、待っててくれる?」


「わかった、待ってる」


 年内にもう一回だけ会える。その言葉に安堵した俺は一気に深い眠りについた。


 そして数時間後、俺は自分の携帯のアラームで目を覚ました。眠りにつくまで自分の背中に感じていた温もりはもうなかった。それはつまり自分の部屋には俺だけしかいないということだ。


 朝倉さんは俺が寝ている間に早めに起きて、母さんの車で駅まで送ってもらっている頃だろう。


「俺も学校に行かなきゃ……あれ?」


 布団から起き上がろうとしたところで、俺は自分の目から涙が零れ落ちてきているのに気付いた。


「あれ……なんで……」


 昨日の朝倉さんの言葉が夢でないのなら、年内にもう一度会える。しかしそれまで会えないという現実が悲しみを増幅させていた。好きな人とたった数日会えないだけで寂しさを感じるそんな感覚。


「あぁそうか……俺……やっぱりとっくの前から、朝倉さんの事好きになってたんだな」


 その事実に気付いた瞬間、しばらく涙が止まらなかった。

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