第2話 リーダー
洋館の一階に男女別で大浴場が一つずつあった。ここを清掃したり、お風呂を沸かしたりするのは大変だけれど、マニュアルが置かれていたのでどうにかなりそうだ。近くにはランドリールームがあり、洗濯もちゃんとできると分かってほっとした。
さらに元々レストランでもあったのだろう、広々とした食堂と
二階には客室があるばかりで、わたしたちのいた部屋の他に空室がいくつかあった。物置部屋もあり、掃除機が数台、ほうきとちりとり、モップとバケツに
三階は共有スペースになっており、トレーニングジムやミニシアターがあった。小さいながらラウンジも設置されていて、お酒の飲めるバーカウンターにテラスもある。これならスマホがなくても退屈せずに済みそうだ。
地下に続くと思しき階段もあったが、立入禁止のテープが張られていた。おそらく電気設備があるだけだろうから、今は立ち入らずに放っておくことにした。
一通り見たところで、わたしたちは話し合って役割分担を決めた。
食事を作るのは料理が得意だという佐藤さん、
洗濯係は長山さんと長谷川さんで、掃除係はわたしと東くん、お風呂係は乱橋さんと竜野さんである。
朝食は朝の七時から九時まで、昼食は十二時から十四時、夕食は十八時から二十時の間にとることで決まった。
お風呂は十七時から入れるようにしてくれるということだ。
洗濯物は朝の九時までに、名前を書いてランドリールームに出しておくことになった。混ざったり紛失しないための
わたしの仕事になった掃除は、館内がそもそも広いため、できる範囲でやればいいことになった。ゴミの収集も仕事の内であり、玄関の外にまとめて出しておけば、運営が取りに来るだろうとの想定である。
「あー、疲れた」
とりあえずやることをやり終えると、わたしは自分の部屋へ戻ってベッドへ寝転んだ。
見慣れない天井は落ち着かない。でもベッドは綺麗で清潔だし、何より寝心地がいい。やはりホテルだけあって、そこは行き届いているようだ。
「けど、まさかこんなことになるなんて」
スマートフォンがあれば、今すぐに職場へ連絡を入れたいところだ。二泊三日で帰れるはずが三ヶ月だもの。しかも三ヶ月後に、無事に帰れるかどうかは分からない。
「帰れなかったらどうしよう、やっぱり殺されちゃうのかな……」
考えると不安でたまらなくなる。誰と恋愛をするかどうかも、今の時点では分からない。まあ、気になる相手もいないことはないけれど。
「矢田さん、寝てるのかな……」
彼の部屋はどこだっただろうか。掃除係として誰がどの部屋にいるか
そんなことを考えているうちに、わたしはいつの間にかまぶたを閉じていた。
居眠りから目覚めると、日が暮れかけていた。
「今、何時だろ……」
腕時計をしていたのは東くんと長谷川さん、乱橋さんも着けていたっけ。三人のうちの誰かに会えれば、確かめられる。あとはロビーか食堂に行くか、三階のバーにもデジタル時計があったような。
まだ疲れが抜けていないのだろう、だるい体をのそりと起こして、あくびをしつつベッドから下りた。
季節は夏だった。わたしにお盆休みはないのだが、有給消化を兼ねてお盆の時期に休みをもらったのだ。わたしはどうしても男性との出会いがほしかった。
のどの渇きを覚えて食堂へ行くと、佐藤さんたちが厨房でわいわいやっていた。夕食を作っている最中のようだ。
わたしはそっと厨房へ顔を見せ、言った。
「グラス、もらえますか?」
気づいた唐木くんが、すぐにグラスを一つ渡してくれた。
「どうぞ。使い終わったら、テーブルにそのまま置いといてください。あとで回収しますので」
向けられた笑みは優しい人に見えて、わたしも笑みを返した。
「分かりました。ありがとう」
グラスを受け取って厨房から離れる。食堂にはドリンクサーバーが設置されていて、好きな飲み物を飲めるようになっていた。
わたしは野菜ジュースをグラスに注いで、手近なテーブル席に寄っていった。
椅子を引いて腰を下ろし、ふうと息をついてからジュースを飲む。いつも飲んでいるものよりさっぱりしていて、疲れた体にはよくしみた。
厨房の方からにぎやかな声が聞こえてくる。さっそく打ち解けたのだろうかと思うと、悔しいような、歯がゆいような、変な気持ちになる。でも、共同生活はまだ始まったばかりだ。焦ってはいけない。
ふと壁にかけられた時計を見ると、もうすぐ五時半になる頃だった。今日はこのまま夕食を食べて、それからお風呂に入ろう。部屋へ戻ったら、早々にベッドへ入って休めばいい。共有スペースで娯楽を楽しむような気力はないし、この三ヶ月の間に楽しむ機会もやってくるだろう。
頭の中で予定を決めると、少しだけ気持ちが楽になった。
はずだった。
お風呂からあがって部屋へ戻っていた時、竜野さんに声をかけられたのだ。
「若島さん、ちょっと話があるの。あたしの部屋に来てくれる?」
「え? いいですけど」
きょとんとしつつもそう返事をし、わたしは彼女に連れられて205号室へ入った。
中にいたのは佐藤さんと長山さんだ。
「梨央ちゃんと話したんだけどね」
ベッドに座った長山さんと、椅子に座った佐藤さん。わたしは椅子の方へとうながされて、とりあえず腰を下ろした。
竜野さんはベッドに座って本題を告げる。
「あたしたちは相手を見つけなければいけないわけでしょ? で、そうなれば三角関係になる可能性だってある。でも、期間は三ヶ月。今の時点で誰がいいか、かぶらないようにあらかじめ決めておいた方がいいと思うの」
「かぶらないように、ですか」
佐藤さんが困惑した様子を見せ、わたしもうなる。
「確かにそれができれば合理的ですけど、男性の気持ちも聞かないと」
「だから、頑張って落とすのよ」
と、竜野さんが言い、長山さんも口を開く。
「それぞれターゲットを決めておけば、仲良くなるのも早いはず。今の時点で気になっている人、教え合っちゃいましょう」
わたしは佐藤さんと顔を見合わせた。
「そう言われても、まだちゃんと話したこともない人ばっかりだし」
「現時点でとなると、見た目でしか判断できないですよね。そうじゃなくて、わたしは中身を見て好きになりたいです」
「そうですよね。わたしも佐藤さんと同じ気持ちです」
しかし、竜野さんと長山さんは納得しなかった。
「早いうちに決めちゃった方が楽よ。三角関係になったら嫌だし」
「見た目でもいいじゃないですかー。気になる人、いるでしょ? ね?」
悩むわたしたちだったが、初日の夜から竜野さんたちと意見が別れてしまうのも嫌だ。女性は四人しかいないのだし、仲良くするべきだ。その場しのぎでもいいから、今は妥協しておこう。
「分かりました。でも、あとから他の人を好きになる可能性も、ありますよね?」
わたしの問いに二人は苦い顔をしつつも、うなずいた。
「それはしょうがないと思うから、もしそうなったら教えて」
「その時にかぶってしまったら、その時に考えればいいと思います」
それならいいか。納得してわたしは言った。
「佐藤さんも、とりあえずでいいから言いましょう」
「う……分かりました」
彼女の
「それじゃあ、言い出しっぺのあたしから言うわね」
と、竜野さんが姿勢を正して座り直す。
「あたしが現時点で気になっているのは、乱橋さんよ。彼、頭が良さそうだし落ち着きもあって、
「あんぱいって何?」
すかさず首をかしげた長山さんへ竜野さんは言う。
「結婚した時にも安心安全ってことよ」
「へー、そうなのかな? あっ、あたしは矢田さん! ミステリアスで一匹狼って感じで、かっこいい!」
やばい、すでにかぶってしまった。
「さあ、次はどちら?」
と、視線を向けられてわたしは惑う。察した様子で佐藤さんが答えた。
「私は、東くんです。第一印象で、爽やかで素敵だなって、思って……」
仕方がない。ため息をついて覚悟を決めた。
「わたしは矢田さんです」
長山さんと視線が合う。
「えーっ、もうかぶってた! 他に気になる人いないんですかぁ?」
「うーん……強いて言うなら、唐木くんかな。優しそうだし、結婚相手にはよさそうかも、とは思ってる」
「梨央ちゃんは他にいないの?」
「うーん、普通に気が合いそうなのは間宮さんかな?」
その言葉にわたしはほっとしてしまった。別に、まだ矢田さんを好きになったわけではないのに。
竜野さんは納得し、考えこみながら言った。
「それじゃあ、とりあえずあたしは乱橋さん、佐藤さんは東くんに
恋愛においてゆずるなんて選択はしたくない。しかし、そうせざるを得ないこともある。今のような状況では、特に。
「分かりました」
「りょうかーい!」
わたしはなんとも複雑な気持ちだったが、長山さんはにこにこと笑っていた。七歳も年の若い彼女は、男性からすればモテそうだ。可愛いというか、あざといというか。
「それじゃあ、部屋に戻ってもいいですか?」
と、わたしが立ち上がると竜野さんは言った。
「ええ、かまわないわ。ありがとうね、これからよろしく」
にこりと笑みを見せた竜野さんから、姉か母のような雰囲気を感じた。女性の中では最年長だし、しっかりした人なのだろう。
「こちらこそ、よろしくお願いしますね」
と、わたしも笑顔を返してから部屋を出た。
その日はベッドがよかったせいか、ぐっすり眠ってしまった。普段の安物のベッドとは快適さが段違いで、枕もちょうどいい高さだった。
目を覚ましてすぐに着替えをし、トイレへ行ったついでに顔を洗った。メイク道具は持ってきていたが、三ヶ月も持つかどうか分からない。節約のため、いつもより若干薄めにメイクをしてから、食堂へ向かった。
時刻は八時半を過ぎた頃だった。朝食をとれるのは九時までのため、危ないところだった。
何人かが点々と席について食事をしており、わたしはどうしたものかと戸惑った。竜野さんと長山さんはすっかり仲良くなったようで、空の皿を前におしゃべりをしている。
窓際では長谷川さんが一人、のんびりと食べ進めていた。
そこから少し離れたところで、間宮くんが唐木くんと楽しそうに食事をしており、そこからまた離れたところに乱橋さんがいた。
わたしは黙々と食べ進めている彼の、斜め向かいに腰を下ろした。
「おはようございます」
と、一応挨拶だけしておく。
乱橋さんは目を上げると、「おはようございます」と、返してくれた。
それから話をするでもなく、わたしは自分のペースで朝食をとる。和食と洋食が選べたため、わたしはありがたく和食を選ばせてもらっていた。
この席からは、唐木くんの姿がよく見える。にこにこと穏やかに微笑みながら、間宮くんの話を聞いている。時にはくすくすと笑っていて、笑顔の似合う人だった。
「そういえば、あれから矢田には会いましたか?」
突然、乱橋さんから問いかけられて、わたしははっと我に返った。
「え、あ、いえ。会ってないです」
慌てて返事をすると、乱橋さんは困ったようにため息をつく。
「昨日みんなで決めたことを伝えたいんだが、誰も彼に会ってないみたいなんだ」
「そうなんですか。夜勤明けって言ってたし、もしかしたら、昼夜逆転してる人なのかもしれませんね」
思ったことをふと言葉にしてみて、腑に落ちる。本当にそうかもしれない。わたしたちとは生活スタイルが違うのだ。
「ふむ、その可能性はあるか。あとで彼の部屋へ行ってみます」
「はい、お願いします」
と、無意識に返したところで、乱橋さんがおかしそうにくすりと笑った。
「若島さんは、すっかりリーダーだな」
「えっ」
そんなつもりはなかったのだけれど、昨日のことを思うと、わたしはみんなのまとめ役になっていた。さっきの返事からしても、リーダーだと言われるのは当然だ。
乱橋さんは「ごちそうさまでした」と、席を立った。彼は米粒一つも残さず、綺麗に食べていた。
わたしは少しもやもやしつつ、温かい味噌汁を静かにすすった。誰が作ったものかは知らないが、ちょうどいい塩加減で美味しかった。
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