第6話 嫌われるということ

 そんなみゆきは、高校生になってから、男性を異性として意識するようになった。かなりの晩生の方だった。

 女性というのは、男性よりも、基本的には発育が早いと言われていて、実際に、肉体的な発育は結構早い方ではなかっただろうか?

 中学に入った頃には、胸の膨らみも結構なもので、男性の視線が痛かった。

 それは、クラスメイトの同年代による視線ではなく、学校の先生であったり、歩いている時の大人の男たちの視線だったりするのだ。

「そんなに痛い視線を浴びせることなどないのに」

 と思っていたが、中学の頃は、半分その視線に対して、注目を浴びているということで、悦びを感じることもあったのだ。

 まるで、女王様にでもなったかのような気持ちだったが、その気持ちを感じた時、我に返ると、その感覚が自己嫌悪に陥らせることがあり、そんな時、

「私って、二重人格だったのかしら?」

 と考えさせられたりするのだった。

 二重人格という言葉は知っていたが、どんな状況になった時、二重人格というのかということを知らなかったので、我に返ったその時に、まったく違うことを考えるような場合に、

「それを二重人格だというんだ」

 と思い込んでいた。

 確かに、そんな場合も二重人格というのかも知れないが、二重人格にもいくつかのパターンがあり、そのすべてが、二重人格だといえるものだとは限らなかったりする。

 その時は、自分の思い込みであって、他の人に話すと、自分が恥ずかしい思いをするということになるのかも知れないが、実際に二重人格というものを言葉の意味から考えた時、最初に浮かんでくるのは、ほとんどの人がそうであるように、

「ジキルとハイド」

 の話になるであろう。

 それを思うと、ジキルとハイドという話を、作者がどのような思いで書いたのか、聞いてみたいと思うのだった。

 話の中にあるように、自分の身体の中に、二つの人格が宿っていると思ったのか、それとも、ずっと感じてきたが、その正体が分からず形になっていなかったことから、作者自身が、話として思い浮かべたものを小説という形に作り上げたことで生まれた作品だったのかも知れない。

 逆にいうと、二重人格というのは、

「どんでん返しのようなものだ」

 ともいえるのではないか?

「どんでん返し」

 というと、

「忍者屋敷の扉のからくり」

 とも表現される。

 敵が攻めてきた時に逃れるために、床の間などに隠し扉があり、上から垂れ下がった紐を下から引っ張るような形で、ひっくり返るというからくりで、その扉から中に入り、入ってしまい、そこを抜けると、また元のような扉になるという仕掛けである。

 回転扉のようなもので、扉の中心部に要のようなものがあり、上からみると、ホテルなどにある、グルグル回って人が入っていく、回転扉のような仕掛けになっている。裏と表で同じ模様を書いていれば、そこから抜けたとしても、誰にも分からないだろう。

 それが、どんでん返しの仕掛けであるが、同じ絵であっても、表と裏がそれぞれ存在している以上、表裏が同時に表に出てくるということはありえないということである。

 裏と表が、同時に表に出てこないということを前提に考えるから、表が裏になった時、悟られないようにした場合のことを、

「どんでん返し」

 というのだ。

 元来相手を脅かせるための技法ではない。逆に相手に悟られてしまうと、それは、からくり扉のように、、主目的が敵の襲来から逃げるということから離れてしまい、追及をゆるしてしまうことになる。

「本末転倒も甚だしい」

 といえるのではないだろうか。

 だから、敵の追求から逃れることができれば、逃げた後、表が裏になっていようが、実は関係なのだ。それは恋愛にも言えることではないだろうか?

 みゆきのように、最初に自分の中である程度相手を見切ってしまい、

「この人ではダメだ」

 と思うと、すでに自分の中で覚悟を決め手しまう。

 その時はまだ、相手は、こちらのことを好きになるかどうかというところまで行っていないのだ。

 しかし、

「好きになれそうな気がする」

 というところまで来ていたとしても、実際にはすでに相手、つまりみゆきの考えは決まっているということだ。

 せっかく好きになってもらえそうなのに、みゆきの中では勘違いをしている。

 本当であれば、もっとゆっくり考えるだけの時間があるにも関わらず、敗者復活戦の余地すら残さず、勝手に決めてしまうのだ。

 それを、みゆきは、

「女性なんだから、それは仕方がない」

 と思っていた。

 何も、女性皆がそんな考えを持っているわけではない。

 確かに、そういう考えの人は多いのだろうが、誰もがどんでん返しを許さないというような考えを持っているわけではないだろう。

 だから、男から言わせると、

「女は、相手の気持ちを考える暇がないほど、まずは自分の中で解決させてしまい、そこでいらないと思うと、復活の余地をまったく残さずに、自分だけが、ステージから降りてしまう」

 ということである。

 ステージから降りられた男は、まだ何も始まっていないのに、簡単に引き下がってしまった女を見て、何が起こったのか分からないと思うのも道理であろう。

「何も始まっていないのに、勝手に終わらせるなんて、歯車が噛み合っていないなんて言葉を超越しているような行動」

 だと思えてならない。

 なるほど、これなら、男女の仲が難しいと言われるのも当たり前のことである。ここまで距離があるのなら、成田離婚などというのが、流行ったとしても、無理もないことだろう。

 成田離婚どころか、下手をすれば、結婚式を放棄して、どこかに消えてしまわれて、どちらかが取り残されてしまうということが起こったとしても、それはそれで無理もないことに違いない。

 そんなみゆきであったが、野球場での会話の後、みゆきが何を考えているかなど知る由もない三枝は、野球場を出て帰り道で、

「また、今度会っていただけますか?」

 と思い切って声を掛けた。

 いつもだったら、躊躇したまま、結局声を掛けられずに終わるのだが、その日のみゆきとの会話は結構楽しかったのだ。

 しかも、野球場での出会いなどという、普段からあまり考えられないところでの出会いに、少し興奮気味だったのもウソではない。だから思い切って声を掛けてみたのだが、みゆきとしては、躊躇したつもりだったのだろうが、三枝の考えていた。、

「躊躇」

 というものよりも、はるかに軽いものだっただけに、

「彼女が、快く承知してくれた」

 と思い込んだのだ。

 ここですでにお互いの気持ちが行き違っているのに、それをお互いに気づくことなく、素直な会話ができたことを、二人とも喜んでいた。

 しかし、やはりすぐに我に返ったのは、みゆきの方であり、我に返ったことで、自分が、三枝という人物に対して、自分なりに、審議をしていたことに気が付いた。

 そんな時、誘いを掛けてきた三枝に対して、さらに評価の基準が変わる問いかけがあったかのように思えたのだ。

 これは、みゆきにとって、

「マイナスのイメージ」

 を意味していた。

「軽い男だ」

 というイメージを植え付けたのだ。

 本当は軽いわけでもなんでもないのに、そう思わせたのは、みゆきの発想が、加算法ではなく、減算法となっていたからである。

 加算法というのは、ゼロから、組み立てていくもので、マイナスがあれば、当然、減点されていき、ゼロになると、そこから先はないというだけで、

「またゼロからの出発」

 というところに戻ってくることになるのだ。

 減算法は、加算法と違い、

「必ず減算しかない」

 つまり、100点から80点になって、急に格上げしそうなことを見つけても、80点から上がることはない。ただ、減算されないというだけのことであった。

 不公平といえば不公平なのだが、減算法、加算法には、それぞれに一長一短の問題があるのだ。

 加算法でいけば、上ばかり見るわけではなく、下に下がる可能性もあることから、下を見ると恐ろしく感じられる。

 そんな時に思うのが、野球での打率の考え方だった。

 打数が少ないと、ヒット一本打てば、打率が一気に上がる。しかし、打てないと、打率は下降してしまうのだ。しかも、打数が少ない間に打率が悪い時も同じ状況なのに、打率がいい場合は、今度は、ヒット一本では、そんなに打率が上がらない。しかし、打てなければ、一気に下がる可能性がある。

 つまりは、打数が増えていけばいくほど、一本のヒットが、率に大きな影響を及ぼすことはないが、リーグ戦終盤になり、首位打者を争っていると、ヒット一本で打率の浮き沈みが顕著になる。率の差よりも、

「残りを何打数何安打でいけば、相手が、これくらいでいくだろうから、首位打者が取れる」

 などという計算をするようになった時、意外と、ヒット一本が大きな影響を与えることに気づくのだ。

 もちろん、フォアボールなどを選んで、打数を増やさないという手もあるが、フォアボールいくつか出した状況で、ヒット一本と同じというくらいのもので、やはり、ヒット一本が大きな意味を持ってくる。

 ホームランや打点などは、増えることはあるが、減ることはない。出れば出るほど確率は高くなるというわけで、打率は完全に相手との駆け引きが難しく、気にしすぎることで、却って、プレッシャーになったりするだろう。

 打者でいえば、首位打者がその問題で、投手でいえば、防御率ということになるだろう。打率も防御率もそれぞれに、規定投球回数、規定打席数というものがあり、それを下回ると、土俵にすら挙げてもらえないということになる。つまりは、分母には最低数が決まっているというわけである。

 そんな二人だったが、それから、何度かデートを重ねた。

 三枝の方は、

「そろそろ、彼女との距離も縮まってきたし、俺の方も、彼女に対して好意を抱いてくるようになったので、これで付き合っているということは、暗黙の了解だと思っていいのかな?」

 と感じていた。

 しかし、では、みゆきの方はどうであろう? 彼女の方は、最初から乗り気ではなく、付き合うということに関しては、ずっと、難色を示していたということになる。だから、どうしてデートを重ねるというのか、考えられることとすれば、2つであろうか?

 一つは、

「友達としてであれば、普通につき合える」

 ということを考えているのだとすれば、三枝が、デートだと思っていることも、相手からすれば、友達と出かけたというだけのつもりでいる可能性はある。そうなると、もし、彼女が思わせぶりな態度でも取れば、三枝は、気持ちの中で盛り上がってしまうだろう。これほど、タイミングの悪いことはないというものだ。

 もう一つとすれば、みゆきが、最初から好きになるということはないだろうと思いながらも、

「ひょっとすると、一緒にいる間に、気持ちが変わってくるかも知れない」

 という一縷の望みのようなものがあったからなのかも知れない。

 そうなると、もし、そのまま彼女が、一度も、三枝のことを好きになることがなければ、みゆきの中の三枝に対しての思いは、頑なに閉ざされることになるだろう。

「もう、彼を好きになるなんてありえない。この時間を無駄に過ごしてしまったかも知れないわね」

 と思うと、今度は、もう友達としても、一緒にいることができなくなるだろう。

 三枝の方としては、

「ワンチャンある」

 というくらいの思いだったのかも知れないが、少なくともデートを何度か重ねる相手だっただけに、こんなにいきなり嫌われるということはないと思うに違いない。

「それだけ、お前が、女というものを知らないだけさ」

 と、友達からは言われるかも知れない。

 確かに、好きな人から、こんな態度を取られると、女性不審になってしまうかも知れないが、それもこれも、女性を知らない自分が悪いということなのか?

 そんなことを考えていると、女性というものが、怖くなる人も気持ちもわかるというものだ。

 その時の三枝は、そんな理屈など分かるはずもなく、ただ、みゆきに対しての気持ちが盛り上がっている最中だった。

 そんな三枝のことを、みゆきはどう思って見ていたのだろう?

「この人、私のことを少しずつ好きになってくれているんだわ」

 ということが分かっていたのだとすれば、彼女が考えることとして、

「だったら、私も、こんなに早く結論を出すことなく、もう一度向き合ってみようかしら?」

 と考えるのであれば、いわゆる、

「ワンチャンある」

 という考えも、無きにしも非ず、ということであろうか?

 みゆきの考えが、

「好きになってくれているのは、分かるけど、私の方は、だからといって、結局彼に靡くことはないと思っているのだから、傷口を広げないようにするために、どこかでちゃんとけじめをつけなければいけないんじゃないかしら?」

 ということであれば、みゆきの態度も、若干違っていることだろう。

 それは、みゆきが自分の体感に比べて、相手は、それほどの差を感じていないとすると、三枝には、みゆきが何を考えているかなど、分かるはずもない。

 ましてや、最初から、

「好きになれない」

 とみゆきが感じていること。

 そして、それが、女性というものだということをまったく感じていないとすれば、それは、もし、もめて別れるということになれば、三枝の方にも問題があるだろう。

 そもそも付き合ってもいないわけなので、三枝の方は、

「もめて別れた」

 と思うかも知れないが、みゆきの方は、

「ただ、もめてしまった」

 というだけの結果になるかも知れないであろう。

 そんな彼女をずっと好きでいたい三枝だったが、自分が一度ストーカーになりそうなことに気が付いた。

 どうしても、彼女ができそうになると、いつも、

「私、そんなつもりはないから」

 といって、それまで友達でいたのに、急に相手から、そういわれると、何がどうなったのか分からなくなるのだ。

「そんなつもりって、どんなつもりなんだ?」

 と思うほど、彼女たちが、三枝を好きになったと、三枝自身が思ってしまったのだと感じた女性たちが、必死になって言い訳をしているようではないか。

 三枝もまだ、彼女たちをそこまで好きになったわけではない。だから、三枝の方も冷めてしまう。

「俺だって、そんなに必死になって拒否られたら、簡単に冷めてしまうよな?」

 と感じるのだ。

 ということは、最初から好きになどなれないということで、好きになるには、相手を好きでもないのに、無理をしているということになるのであろう。

 今までの三枝、思春期頃からの三枝というのは、

「女の子を好きだから好かれたいのではなく、好きになられたから、好きになろうとしているだけではないか?」

 という考え方を持っていた。

 それだけ、人を好きになるのも、何かのきっかけがなければ好きになれない。いや、なることができない」

 ということになるのだろう。

 それなのに、好きになってしまうと、そこから先はあっという間のことだった。それまでに時間が掛かるから、

「乗り遅れた」

 とでも思うのだろうか?

 そんなはずはないのに、そう思うということは、

「自覚はしているが、中途半端だ」

 ということなのかも知れない。

 だから、本当は、

「好かれたから、好きになるということではなくて、自分が相手を好きになったから、好かれたいと思うのだ」

 ということなのではないかと感じるようになった。

 だから、その考えをあらためようと思ったのだが、想像以上に難しいことだった。

 もっと簡単に切り替えられるものだと思っていたが、なかなかできないのは、この考え方を変えるということは、

「根本的な性格をも変えなければいけないということになるのではないだろうか?」

 と考えたからだった。

「中学生の俺だから無理だったのだろうか?」

 と最初は思っていたが、考えてみれば、まだ中学生、何とでもなる年齢ではないか。

 その証拠に、まだまだ、肉体的には成長している時であって、いくらでも修復は利くはずだったのだ。

 そんなことを考えていると、自分がどうしても中途半端になるのは。

「中学生だから、まだ技量的に難しいのだろうが、しかし、まだ発展途上なので、いくらでも何とでもなるだろう。だが、技量的には十分な年齢となっても、今度は、すでに発展が止まってしまった時期で、固まってしまった性格をゆがめるには、かなりの困難を有するに違いない」

 ということであった。

 中学生だからと言って、バカにできるものではないし、大人になったからといって、

「大人だから、してはいけないということが多すぎるというのも、考えてみれば、おかしな話だ」

 といえるだろう。

 大人になれば、なるほど、子供の頃にはできていたこともできなくなる場合だってある。だが、大人だからといって、すべてがダメなわけではない。そのことをしっかり見定めておかなければ、うまくいくものもいかない。

 それが、

「歯車が噛み合っていない」

 ということになるのだろう。

 それは、男女の間にもいえることで、噛み合っていない相性は、本当にどうすることもできないのだろうか?

 ただ、このような状態は、付き合い始めた男女には、往々にしてあるものだ。それは、大小の違いで、

「大なり小なり」

 という言い方で表現すればいいものであろう。

 しかもこの場合の代償は、その強さは文字通りの大きさではなく、長さのことである。付き合い始めるか始めないか? という相手のことも、自分の気持ちすらハッキリしていない時期に、少々その時期が長くても意識するものではないだろう。強さや大きさであれば、圧倒されるものがあるはずなのに、おのずと気づくだろうが、そうでなければ、そう簡単に分かるものではない。

 もし分かるとすれば、それだけ本人が意識していたということか、この思いが、早い時期ではなく、付き合い始めて、結構経ってから、いきなりに出てくる感情だったりすると、頭の中で、

「何で、こんな気持ちになったのだろう?」

 と感じるからではないだろうか?

 二人の場合に後者は当て嵌まらない。なぜなら、まだ付き合うかどうか、ハッキリした気持ちになっていないからだ、

 また、二人の間の、この状態に大きさや強さがあったとも感じられない。

 となると、考えられるのは、

「みゆきが、いつも以上に、三枝のことを意識していたからだろう」

 ということになるのだろう。

 なぜ、そんな感じになったのか?

 一つ考えられるとすれば、かつて、みゆきがつき合ったことがある男性の中に、三枝に似たタイプの人がいたからではないか?

 ということであった。

 そして、みゆきは、その男性のころを今でも毛嫌いしていて、自分の中のどこかが反応し、三枝をその時の男とシンクロさせる形になったのではないだろうか?

 すぐには、誰だったのか、みゆきにも思い出せなかった。

 それほど毛嫌いしていて、不覚にも好きになってしまったという自覚のある男だったのだろう。

 その男は、最期には、ストーカーになってしまっていた。

 何が、その男をストーカーにさせてしまったのかというところまでは分からない。ただ、その男もバカだったわけではない。ストーカー犯罪を犯せば、自分の人生も終わりになることくらいは分かっていたはずだ。

 それなのに、ストーカー行為を繰り返し、本来であれば、警察が嫌いな、みゆきの足を、警察署に向かわせるほどのひどさだった。

 マンションの部屋の前に食べ物や飲み物が置いてあったり、会社の帰りに後ろをつけられたり、などという一般的なストーキング行為が、最初は主流で、

「そのうちに、飽きて、そんなバカなことを辞めるだろう」

 という意識もあったので、それ以上のことはなかったのだ

 しかし、時間が経つにつれて、彼の感情が高ぶってきたのか、みゆきの反応がないことに業を煮やしたのか、ある意味、犯行はエスカレートしていった。

 その内容は、露骨さを増し、

「何かの犯罪に抵触するのではないか?」

 と思えるほどであった。

 部屋の前には、食べ物ではなく、ゴミが散乱していたり、ノブに買い物袋がぶら下がっていて、その中身は完全な汚物であったりした。

 さらには、真夜中の無言電話。会社に押しかけてくることもあった。

 もうこうなると、交際を再開させることは不可能だと分かっているので、それまでは、あわやくばとでも思っていたのだろうが、エスカレートしてくる間に、

「みゆきを困らせる」

 ということだけを目的にしているようだった。

 そちらを目的にするのであれば、警察に捕まったとしても、それが、懲役の罪にでもならないくらいは、このまま黙っているよりも、自分自身の気持ちが、一件落着しないことはないという道を選んだのだ。

 さすがにここまでくれば、みゆきは、警察に相談することになった。生活安全課の扉を開いた。一応の形式的な方法は取ってもらえることになり、その後、何とか男の追及を逃れることができたのだが、その時、警察から、ちょっとした注意を受けた。

 警察もそんなにきつい口調ではなかったのだが、みゆきにとってはショックだった。これがトラウマとなったのだが、この時のこの男の態度がトラウマを作ったわけではなく、むしろ、警察の態度や、その時の言葉の露骨さにショックを受けたといってもいい。

 みゆきは、大学時代、アルバイトで、キャバクラに勤めていたのだった。

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