第4話 ドッペルゲンガー

 元々、会社は、ハラスメントと呼ばれるものが、横行していた。

 上司が、仕事をしていると、部下は帰ることができないという風潮であったり、行きたくもない飲み会をセッティングされ、

「部内交流のため」

 といって、定時の後のプライベイトな時間を、飲み会で潰されて、しかも、その飲み会も、上司に癪をさせられたり、自慢話を聞かされたりと、苦痛でしかなかった。

 さらには、新入社員には恒例の、

「花見の場所取り」

 というのがあった。

 花見の名所ともなると、だいぶ前から場所取りをしないと、いいところは取られてしまっているということになりかねないので、時期的にも新入社員がまだ会社にも慣れていない時期ということで、

「入社後の最初の仕事が、花見の場所取り」

 というのが、本当に多かった。

 これらは、一種のパワハラと言われるものだろう。

 また、昔のOLというと、一般的に、

「コピーと茶汲み」

 と言われていたように、女性社員の仕事というと、朝来てから、事務所の机の上を拭いたり、男性社員が出社してきた時に飲むためのお茶を入れるというのが、恒例の朝の仕事になっていた。

 当番制にしたりして、女性社員も、その日は、いつもよりも早く出社してくるという、今から思えば、何とも封建的なやり方だったのである。

 余談であるが、封建的という言葉、今ではあまりいい意味ではない。

「古臭い風習に凝り固まった」

 というイメージを総称して言っているのだろうが、本当はそうではない。

 封建制度というのは、元々は、主従関係において、どちらも、イーブンな関係だったはずだ。

 主人が家来の土地や生活を保障する代わりに、主人が戦をするとなると、兵を出すというようなやり方で、

「恩賞と、奉公」

 という形のバランスが取れているというものだ。

 しかし、今の時代に、

「封建的」

 という言葉を使うということは、それだけで、

「主人に搾取されている」

 ということを示しているに過ぎないのだった。

 さらに、セクハラとしては、

「最近、きれいになったね」

 などという以前であれば、上司が部下に向かって、

「気を遣って言っている」

 と思われるようなことでも、最近では、

「セクハラだ」

 と言われるようになったのだった。

 そのうちに、文句を言われる方だけではなく、文句を言う方も、

「何のハラスメントになるんだろう?」

 と思えるほとではないだろうか。

 それほど、ハラスメントというのは、種類が多く、それぞれに、かぶさっているというのも多いということだろう。

 そもそも、それぞれで多いのだから、もっと言えば、ハラスメントという言葉もかぶっている部分が多いのだから、たくさん分ける必要もないということではないだろうか?

 それを考えると、面白いといってもいいだろう。

 世の中というものが、どのような仕組みになっているのか分からないが、このあたりのことも、昔から言われてきた、

「男女平等」

 という観点が、例えば、痴漢事件や覗き、さらには今のストーカー問題などと結びつき、総合的に問題になったことで、話が大きくなったのだろう。

 確かに、痴漢事件や、強姦事件などというのは、昔は親告罪であり、

「被害者が訴えでなければ、罪として加害者が、警察から尋問されることすらなかった」

 といってもいいだろう。

 親告罪というのは、他の罪のように、第三者が見て、

「これは犯罪だ」

 といえば、罪になるものではなく、あくまでも、

「被害者の告訴」

 が必要だったのだ。

 なぜだったのかは分からないが、今では、親告罪というのは、強姦罪などの場合では法律改正によってなくなってきてはいるが、以前は、必要だったのだ。

 考えられることとしては、

「示談が成立することが多かったからではないか?」

 と思われるが、それもおかしな話である。

 示談が多かったのは、加害者側の弁護士が被害者側のところにやってきて、

「裁判になれば、女性が襲われたことを公表するようなものだとか、裁判に勝っても、大した罪にならない」

 などといって、裁判を起こすことのデメリットを説明し、相手に泣き寝入りさせてきたのがほとんどだ。

 大金を掴ませるくらいのことは平気でやっただろう。確かに女性側とすれば、裁判になって、さらし者にされるのは、本意ではないだろう。

 そういう意味でいえば、親告罪というのは、

「被害者のプライバシーを守るためだった」

 ということなのかも知れない。

 それを考えると、

「どっちがいいのか?」

 ということになる。

 感情的に考えると、親告罪なのは、おかしいとなるのだろうが、冷静に考えると、隠しておきたいことを公表されるのは困るというものだ。

 しかし、今、親告罪ではなくなったというのは、逆に、個人情報保護法で、個人情報であったり、プライバシーが守られているということが、前提としてあるのかも知れない。

 それを思うと、法律もめまぐるしく改正されていくが、一つのことの派生として、いろいろ変わっていっているのを考えると、それも致し方ないというのか、いい方に変わっているのであれば、それはそれでいいことになるのであろう。

 ストーカー問題は、逆に個人情報やプライバシーという意味で、却って障害になる場合もある。

「どこまでが許されて、どこからがアウトなのか?」

 そのあたりを見極める必要があるに違いない。

 自分にとって、最近の会社での立ち位置は、微妙なものだった。年齢的にも、そろそろ主任という肩書がついてもいいくらいになっているので、それまで第一線でやっていたことを、後輩に伝授したり、後輩をうまく使って仕事をするというのを覚えなければいけない。

 ただ、今まで自分たちが一番の下っ端の時は、結構、直属の上司である、主任のことを、影でいろいろウワサしたいたりしたものだ。

 他愛もないものも多いが、中には、辛辣なものもある。

「あの人、他の部署の女の子と不倫しているようだぞ」

 などというウワサを立てられていたくらいだ。

「そんなことをするような人には見えないけどな」

 と、半分本気で、そういってみたのだが、ウワサをする連中というのは、ウワサを流すだけが目的で、一切の回収も、責任も負うことはない。

「そんなの分からないさ。この間一緒にいて、何かもめているのを見たからな」

 と、本当は仕事のことなのかも知れないのに、何も疑うことなく、そう思えばあとは猪突猛進なところが、実に無責任といってもいいだろう。

 そんな状態において、ウワサを流した張本人は、実際の仕事でも、まともにできたためしがない。

「やる気がない」

 と言えないいのか、絶えず、言い訳を考えている方であった。

 自分から見れば、

「そんな言い訳ばっかり考える暇があったら、言い訳をしないようにするにはどうすればいいかということを考えればいいのに」

 と思うのだ。

 たぶん、あの男はそれができないのだろう。できるくらいならやっている。できないから、皆自分と同じだという目でまわりを見る。自分にできないことを他の人ができるはずなどないと思うくせに、実際の仕事になると、人に丸投げするのだ。

 そして、丸投げされたやつが、ちゃんとした仕事をして、それを上司から、

「今度からお前に頼むことにしよう」

 と言われているのを聞いて、腹を立てているのだ。

 何とも、見ている方が腹立たしく思えるような、そんな男の存在に、歯ぎしりをいないではおれない気分になるのは、嫌なものだ。

 だから、

「あんな部下が一人でもいれば、俺なんて何を言われるか?」

 と思って恐ろしくなっていた。

 もちろん、そんなウワサを流していたやつは、会社の中でも異端児なのかも知れない。

 しかし、その異端児というのは、誰かが言っていたが、

「ゴキブリと一緒なのさ」

 というので、

「どういうことなんだい?」

 と聞くと、

「ほら、一匹見れば、十匹はいると考えればいいって聞いたことがあるだろう? あれと一緒で、ゴキブリというのは、次から次に湧いてくるものさ。もし、死んだとしても、さらに奥にはたくさんいるのさ。虱を潰す気にならないと、退治できないということさ」

 というではないか。

「まさに、しらみつぶしだな」

 というと、

「そういうことだ」

 といって、そいつはにやりと笑ったが、

「こっちは、笑い事で会ない」

 といいたいくらいだった。

 そんな奴がいっぱいいると思うと、これほど気持ち悪いことはない。だから、役職が付けばつくほど、何か悪い方に向かっているような気がして嫌だった。

 特に、会社での自分のまわりには、この考えに賛同する人も多く、

「出世するとさ。上からは抑えつけられ、下からはつるし上げられるのさ。まるで、万力に挟まれるようなものじゃないか」

 といっているやつもいた。

 といっても、これも、先ほどのゴキブリの話をしたのと同一人物で、どうにも、この男とは腐れ縁のようで、

「逃れられないのかな?」

 と思えてならなかったのだ。

 そんな会社にいると、一人の時間が、とても貴重になってきた。

 かといって、最近は、ずっと一人でいるので、孤独感が満載になってきた。

 普通の孤独感くらいであればいいのだが、それはあくまでも、自分が感じていることなだけだからなのだが、そのうちに、

「孤立してきた」

 と思うようになると、結構精神的にきつくなってくるのを感じるのだった。

 孤立してくるというのは、

「まわりから見ていて、孤立しているように見える」

 ということで、これは主観的に見ているわけではないので、寂しさがこみあげてくるのだ。

 最初こそ、

「自分のことではないわな」

 と思っているのだが、そうでもないようだ。

 自分のことを客観的に見ると、とても冷静に見ることができる。これはいいことではあるのだが、鬱状態へのトリガーになってしまいそうな気がする。冷静に自分のことを見るということは、それだけ、裏も見ようとするからで、

「長所と短所は背中合わせ」

 ということを考えると、見えているのが、どっちなのかを考えて、もし、それが長所の方だったら、さらに悪いことが潜んでいると思うと、恐ろしくなる。だから、冷静になって、客観的に見ている自分が怖くなるのだった。

 そんな時に限って、見えているのは長所なのだ。だから、潜んでいる短所がどのようなものかと想像するだけで、吐き気を催してくる。さらに、こんなことを考えてしまった冷静な自分が怖くて仕方がない。

「自分であって、自分ではない」

 と思いたい一心から、まるで、

「もう一人の自分」

 という存在に気づかされた気がするのだった。

「もう一人の自分」

 というのは、

「世の中には三人はいる」

 と言われる、

「似て非なる者」

 ではなく、本当の自分なのだ。

 それを、

「ドッペルゲンガー」

 と表現するのだ。

 ドッペルゲンガーというのは、特徴があるようだ。

「絶対に口を利かない」

 だとか、

「実際の自分の行動範囲以外には現れることはない」

 などである。

 そして、一番怖いこととして、

「ドッペルゲンガーを見ると、近い将来死んでしまう」

 ということであった。

 しかも、それが一番信憑性のあることで、世界の著名人が、ドッペルゲンガーによって死んでいるという。

 一番の例としては、芥川龍之介と、リンカーンではないだろうか?

 このリンカーンなどは、自分が殺されるのを予知していたと言われる。芥川龍之介の場合は、破って捨てたはずの原稿が、元に戻って机の上に置かれていたという怪談めいた話が残っているのだった。

 孤立してくるのも怖いのだが、その理由の一つに、

「ドッペルゲンガーの出現する状況を、自らで作り出しているのではないか?」

 ということであった。

 孤立している中の自分は、まるで魂が抜けたように見える時があるという。その時、自分の中にいるもう一人の自分が表に出ているのではないだろうか?

 この発想は、

「ジキル博士とハイド氏」

 の話のような気がしてきて、同一人物でありながら、まわりが見て、誰も気づかないというほどの別人になっているということであろう。

 あの話は、あくまでも架空のお話であるが、実際にあったことだと考えれば、そこにドッペルゲンガーが絡んでいるのかも知れないと思うのだった。

 会社にいると、仕事をしている時と、ふいに意識が飛んでしまった時、急に記憶が薄れてくることがあった。

「あれ? 今何を考えていたんだろう?」

 と考える時、ドッペルゲンガーのようにもう一人の自分がいて。その自分が、記憶を都合よく操作しようとするのではないだろうか?

 ドッペルゲンガーというのは、ジキルとハイドのように、どちらかが表に出ている時は、もう一人の人格は完全に隠れているものだ。

 ジキル博士だって、最初は、自分の中に本当にハイド氏が入り込んでしまっていることが分かっていなかったのではないかとも思える、自分で開発した薬に、半信半疑だったのだろう。

 確かに、ジキルとハイドというのは、極端な「物語であるが、物語としてみれば、これほど、逆にリアルなものはないだろう、

 リアルというのは、何も現実に近いということだけではない。

 現実に近く見せるというのも、その想像力が、現実よりも現実っぽいこともあるだろう。

「事実は小説よりも奇なり」

 というが、まさにその通りなのかも知れない。

 疑心暗鬼に感じること自体、自分の中に、もう一人の自分がいるという証拠なのかも知れない。

 だから、急に記憶が飛んでしまうことになるんだろう。

「何か重大なことを考えていたはずなのに」

 と思えば思うほど、堂々巡りを繰り返して、逃れられなくなる。それを、

「負のスパイラル」

 というのではないだろうか?

 スパイラルというのは、螺旋階段という意味で、

「ループしながら落ちていく」

 ということで、実際に堕ちているということを意識できていないのかも知れない。

 それを考えると、ループするのは、底なし沼に嵌っていく時に陥るものではないかと思う。

 それこそ地獄というものなのだろう。

 会社で出世するということは、どういうことになるのだろう? 小説やドラマなどでは、出世することで、給料が上がり、部下もできて、いいことばかりに見えるではないか?

 だが、実際には、下から突き上げられ、上からは部下の指導がなっていないなどと責められる。いわゆる板挟みになってしまうのだ。

 要するに、ジレンマに陥るとはこのことである。

 主任くらいであれば、そこまではないのだろうが、実際には、それまで第一線で仕事をしていることで、うまく行けば上から褒められて、うまく行かなくても、主任が責任を取ってくれると思うのだ。

 しかし、自分が今度はその主任になるのだ。今までは、

「しょせん怒られ役は他人事だ」

 と思っていただけに、自分が今度はその役になるのだから、それこそ、自分が、まな板の上に載せられた鯉のようではないか?

 出世欲というのがないわけではない。欲がなければ、仕事をしていても、何よりも楽しくない。

 仕事をするというのは、お金のこともあるが、それだけではない。満足をするのも、仕事をする意義なのだ。

 上司からは、

「自己満足ではダメだ」

 などと言われるが、自己満足の何が悪いというのか、

「自分で満足もできない人間に、人を満足などさせられるはずもない」

 といえるのではないだろうか?

 それを考えると、仕事と、会社を切り離して考えるという考え方があっていいと思うのだった。

 会社のために仕事をするというよりも、自分のために、仕事があるのだから、仕事をするということは、自分のためだと思えば、気も楽になるし、仕事をすることで得られる金銭も、新鮮に感じられるのではないだろうか?

 仕事だけが会社ではないのと同じで、会社だけが仕事でもないといえるのではないだろうか?

 会社に勤めるということは、そういうことなのだ。平社員のうちに、そのあたりを理解していれば、上司になっても、うまくやっていけるのではないだろうか?

 そんな中で、記憶が薄れてくるのをまた感じた。薄れてくるというのはなく、

「覚えていたことを、急に忘れてしまう」

 という感じである。

「今の今まで覚えていたのに、俺は何をしようとしたのだろう?」

 という思いであった。

 きっと、野球を見ながら、みゆきさんと話をしていると、話が途中で飛躍していくことで、自分の中で何を話していたのか分からなくなってしまっているのではないだろうか?

 彼女と話をしたいという思いも当然ある中で、スコアブックをつけるのに。邪魔にあっている気がして、複雑な気分になるのだ。

 スコアブックをつけることが、自分の中の保守的な部分で、彼女と話をしたいと思うのは。自分の中での革新的な部分だとすれば、もし、自分の中にドッペルゲンガーがいるとすれば、それは、

「姿形が似ているだけで、中身はまったく違っているものではないか」

 というものだと思うのだった。

 だとすると、自分の中にいるものは、本当にドッペルゲンガーなのであろうか?

 ドッペルゲンガーというと、

「まったく同じ人間」

 でないといけないのだろう。

 潜んでいる人間が、ジキル博士なのか、ハイド氏なのか、まったく違っているのだとすれば、それは、ドッペルゲンガーなどではなく、二重人格の片方だということになる。

 しかも、それは、表に出ている自分の両極端な部分だとすると、よほど親しい相手でなければ、これが同一人物だとは思わないだろう。

 まるで、満月を見て、オオカミに変身してしまい、

「オオカミ男」

 のようではないか?

 つまり、本当であれば、自分の中にまったく同じ人間が潜んでいるわけはない。しかも、同じ次元の同じ時間で存在してはいけないのだとすれば、ドッペルゲンガーの存在はありえないということになる。

 それが、

「ドッペルゲンガーを見ると、近い将来死ぬ」

 という、まるで都市伝説のような話を作り出したのではないだろうか?

 それを考えると、ジキルとハイドの話も、本当にただの小説のお話なのだろうか? 実はどこかで伝わっていたような話が現存し、作者がそれを知っていたかどうかは別にして、一つのアイデアとして作り出した物語であれば、立派なオリジナルであり、著作権は立派に作者に帰属するというものである。

 ただ、ジキル博士の場合の方が、ドッペルゲンガーの伝説よりも、リアルな感じがする。

 まったく同じ人間が同じ次元に存在しているというのは、やはり無理がある、しかも、この場合、

「まったく同じ、別の自分」

 である必要がある。

「似て非なる者という感覚とは正反対だといえるのではないだろうか?」

 と考えられる。

「似て非なる者」

 というのは結構ある。

 言葉の通りに解釈すれば、

「似ているが、それだけのことで、それ以外のことは、何だって関係ない」

 ということになる。

 そもそも、

「似ている」

 という定義は何なのだろう?

 似ているということは、基本的に、

「そのものではない」

 ということである。

 まったく同じものが同じ次元では存在してはいけないのは、なぜかと考えた。

 それはきっと、

「別の限りなく広がる世界に、必ず、自分と同じ人間がいて、それはまるで幻影ではないかと思えるのだった。そう。見世物小屋なとの一角にある、

「ミラーハウスのようなものかも知れない」

 と感じていると、中にいる自分が、無数に広がっているのを感じ、一種の、

「合わせ鏡」

 を想像させるのだった。

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